一話 星の終わりと旅の始まり
遠い遠い遥か昔のことです。真っ暗闇の中にぽっかり浮かぶ青く小さな地球から、一隻の宇宙船が飛び出しました。搭乗員はたったのひとり。神の頭脳を持つ子供と称賛されていた少年を乗せて、船はぐんぐん地球から遠ざかっていきました。
二年前、たった十歳で大学を卒業してしまった少年は、宇宙船の中にたっぷりの種を詰め込んで、産まれ育った星を後にすることにしたのです。
宇宙船の目的地は遠く、遥か彼方に浮かんでいる地球と似た青い星でした。その星への航路は既に計算されきっていて、およそ六十年間、光速で飛行を続ければ辿り着けるということが分かっていました。
その膨大な計算を、確立したいくつもの法則に基づいて成し遂げた少年は、六十年間、光速で移動を続ける宇宙船に乗って旅をすることになりました。いえ、彼自身が自ら旅に出ることを決めたのです。
当時、荒廃し、発達しすぎた技術に飲み込まれてしまった地球の人々たちは、少年の主張を絵空事だと馬鹿にして受け入れることを拒み続けていました。彼らは幼いながらも自らの頭脳を遥かに超えてしまった少年へ、大なり小なり、どこかで嫉妬していたのです。遅かれ早かれ、発達しすぎた技術が暴走してしまうことを予期していたのも関わらず、人々は何も行動を起こそうとしませんでした。
むしろ、まだ見えぬ先があるはずだと、発達しすぎた技術を使って、いえ、技術に使われて、闇雲に暗闇の中へと突き進んでいました。人々は、たくさんのことを知り、世界を固定していく中で、持ち続けていた大切なココロを忘れてしまっていたのです。人々は徒に滅びていくことから目を逸らし続けていました。
計算を進める傍ら、少年は何度も何度も人々の説得を試みました。けれど、いい返事が帰ってくることは遂にありませんでした。人々の中で少年は神の頭脳を持つ子供という呼称から、ただの変人へと成り下がってしまっていたのです。少年は人々のココロを動かすことが出来ななった己を呪いながらも、ただひとり滅び行く地球からの脱出を決意しました。
暗い宇宙の中、遥か彼方に浮かぶ星へ向かう旅は、見渡す限りの砂漠の中、口頭で教えてもらったオアシスを探すような果てしない旅となることが分かっていました。気が遠くなるような、長い長い旅の始まりなのだったのです。
また、それはとても寂しい、孤独な旅の始まりでもありました。六十年もの間、少年はたったひとりで暗闇に包まれた宇宙を飛び続けなければならなかったのです。少年はそんな二つの絶望的な未来を理解しながらも、決意を固めたのです。
幸か不幸か、少年には明確に家族と呼ぶことの出来る人々はいませんでした。だから、実質的な身内との永遠の別れと言うものを経験する必要はありませんでした。でも、それでも、少年のココロは傷つき、現れることのない涙をずっと流し続けていました。
宇宙船は地球の引力圏内を抜け、ずっと船を襲っていた振動と慣性の力が和らぎました。少年は操縦席から移動して、窓の外の暗闇を眺めていました。それは別段しなくてもいい、どちらかと言うならば無駄な行いでした。
何せ、船内にはおそらく百年は持つだろう保存食と水が船内には積み込まれていて、ジムや医療セットなど、生活していくための設備は完璧に用意されていたのです。旅に向けての準備は地上で万全にしてきていたのだから、六十年もかかるという途方もない旅の距離を考えたのならば、すぐにでも制御室に向かい、光速移動を開始するプログラムを起動させて、旅は始めた方が効率的だったのです。
でも、少年は制御室に取り付けられた窓から、ずっと暗い宇宙を眺めていました。窓から、真っ暗な暗闇にぽっかり浮かぶ青い星をじっと見つめていたのです。
音もなく、その瞳から静かに涙がこぼれ落ちました。頬を伝い、彼の元を離れた涙は、ゆっくりと宙を落下して、ぽたりとスチールの足場に冠を作り出しました。たった一つだけ。生まれた冠は、しかしすぐに形を崩して小さな水溜りになってしまいました。
窓に触れていた少年の右手が白く色を失っていました。強く握り締め過ぎて、血が流れにくくなってしまっていたのです。その拳は微かに震えていました。少年の中で激しく暴れまわっているのであろう、地球の人々への怒り、憤り、困惑、後悔、思い出、優しさ、記憶、笑顔の数々。そんな形になることのない激しい波が、少年の拳を震えさせていたのです。それはどんな言葉でも言い表すことの出来ない、十二歳の少年のココロの中に生まれた激情の片鱗でした。
しかし、そんな拳がふと緩められます。厳しくも悲壮に覆われていた少年の表情は、いつの間にか柔らかな別れの表情に変わっていました。固く閉ざされていた青年の口が、小さく「さよなら」と呟きます。
振り返り、少年は迷いない足取りで操縦席へと向かいます。そこには、実行を待つばかりのプログラムが起動しています。席に座った少年は一度目を閉じ、深く身体の隅々の届くかのように深呼吸をしました。閉じていた目が開きます。覚悟を決めた、力強い瞳がそこにはありました。
少年はボイスレコーダーを取り、日時を録音します。
「ただいまより、惑星渡航を開始します」
言葉と同時に、少年はプログラムを実行に移しました。船はゆっくりと加速を始め、窓の外の星々は次第に速くなりながら、流れるように後方に消えて始めました。
加速する船の中で、操縦席に座った少年は、ただ前方に広がる底なしの暗闇を力強く睨みつけていました。
そうして、船は、長い旅を始めたのです。