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夏の嵐  作者: 萩尾雅縁
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 あの美しいひとがロバートの彼女かと思うと、腹立たしいのと悔しいのとで、その晩、僕はまったく眠れなかった。

  夜も更けた頃から聞こえだした帰路につく車のエンジン音に胸が締めつけられた。あの人の名前すら知らない。どこか抜けたところのある兄は、ちゃんと彼女の名前や素性を聞いてくれただろうか? ロバートに訊くのだけは嫌だった。


 空が白み鳥のさえずりが聞こえだした頃、僕はやっと、うとうとと微睡み始めた。

 キィ、バタン、とドアが軋んで開き、閉まる音がした。


 兄が部屋に戻ったのだ!


 重たい頭を無理矢理に持ちあげ、身体を起こした。ともすれば眠りに落ちてしまいそうな瞼を擦り、目を覚ませ! とばかりに両頬をパシパシと叩いた。大きく伸びをしながら自室をでて隣室のドアをノックする。しばらく待っても返事がない。ちっと舌打ちをしてドアを開け、部屋に入った。


 案の定、兄はタキシードを着たままベッドに突っ伏して眠っている。

「兄さん! 兄さん!」

 兄の背中を揺さ振ってみたがどうやっても起きてくれない。仕方がない。僕はため息をついて兄のベッドに這いあがり、その隣に寝ころがった。


 少し眠って、後でもう一度起こしてみよう……。


 スヤスヤと気持ちよさげな兄の寝息を聞いていると、僕もまた、いつしか微睡みに引き込まれていた。



「お前、なんで僕の部屋で寝ているんだい?」

 薄っすらと目を開けた僕に兄の声がかかる。もう日は高く昇っている。大きく開かれた窓から差しこむ強い日差しに、ガバッと身体を跳ね起こした。

「何時? ロバートはもう帰ったの?」


 兄は窓際に置かれたティーテーブルで、昨夜と同じくしゃくしゃのタキシードにボサボサ頭で、仕草だけは上品に、優雅に、遅い朝食を食べていた。


「ロバート・カミングス? いるよ。ほら、昨夜の――、例の彼の友人のお嬢さん、怪我をさせてしまったようなんだ。歩くのが辛いらしくてね、マシになるまで休んでもらっているよ」


 僕は歓喜で叫びだしそうだよ。

 でも、口を開く替わりに大きく目を見開いて息を止めた。気持ちを落ち着かせて、さも何でもないような声音をだして、顔を伏せたまま訊ねた。兄の方を向いてこのニヤついた顔を見られるのが嫌だったから。


「昨夜の彼女、そんなに酷い怪我なの? 僕、謝りに行かないと。あの枝を落としたのは僕だもの!」

 上目遣いに垣間見ると、兄はなぜか眉根を寄せて小さく息を漏らしていた。

「怪我ねぇ……。昨夜は主治医のサントスさんもいらっしゃったから、診て頂いたんだけれどね、捻ったっていうわりに、別に腫れているわけでもないし。でも、まぁ、カミングスもお前に会いたがっていたよ。こんな年寄り連中しかいないパーティーで退屈していた様子だったからね。本当にお祖母様にもまいるよ、こんな夜会なんて意味ないのに!」


 彼女がこの家にいる、また会えるんだ! という事実に僕は浮かれ飛んでいて、思い返せばこのときの兄の含みのある不機嫌な言いぶりに気がつかなかった。だから、高鳴る心臓の鼓動を気づかれないように、そんなことにだけ気をとられていて、わざとらしく息を吐き、揶揄うように兄に当てこすったりしてたのだ。


「そんなことを言っているわりに、戻ってきたのは朝方じゃなかったっけ?」

「悪友たちとのカードだよ。昨夜はツキ捲っていたんだ」


 兄は瞳を輝かせ朗らかに笑った。明るい陽射しに、ライムグリーンの瞳が透き通る。輝く金の髪がキラキラと目に眩しい。秀でた額に高く通る鼻梁、知的で上品な唇。見慣れている僕だって見とれるほど、兄は美男子なのに――。


「兄さん、口、ケチャップがついているよ」

 僕はベッドで胡坐をかいたまま、このどこか残念な兄のとぼけた顔を見てクスクスと笑った。




 シャワーを浴びてきちんと身だしなみを調え、鏡の前で何度も髪型を直した。このふわふわとした猫っ毛がどうにも扱いづらい。僕の髪は兄みたいな鮮やかな金色じゃない。くすんでいて重たいダークブロンドだ。この髪はただでさえきつく見られる僕の顔を、ますます陰気くさく見せている。


 造作だけは完璧な兄と比べたって仕方がない……。


 僕はとうとう、いうことをきかないこの跳ね返る癖毛に見切りをつけた。こんなところで時間を無駄にしている間に彼女が帰ってしまったら、元も子もないもの!



 夜の間に客の大半は帰ったらしい。だが、ロバートの祖母、そしてロバートとその友人が滞在している、と執事のボイドが教えてくれた。

 ロバートの祖母は、僕の祖母の友人でもある。ロバートの父は昨夜のうちに帰ったそうだ。そして、兄の友人たちも幾人かまだ屋敷に滞在しているとのことだった。



「皆さんブランチを済まされ、テラスで寛がれておられますよ」


 僕は兄の様な失敗をしないように、丁寧に口元をテーブルナプキンで拭った。そして、ティールームでの食事を終え立ちあがった。



 緊張で震える足をテラスに向ける。


 そういえば、僕はまだ彼女の名前を知らない――。






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