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夏の嵐  作者: 萩尾雅縁
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 その美しいひとには、祖母の開いた夜会で出逢った。


「ほら見えるかい?」

 傍らの大枝に立っていた兄が、身体を寄せて僕に場所を譲ってくれる。僕は兄と入れ替わり、片腕で顔にかかる細い枝を掴むと身を乗りだして、バルコニーの奥の煌びやかな光で満ち満ちた大広間を覗きこむ。


 もう十五歳になるというのに相変わらず僕は子ども扱いで、夜会へは出してもらえない。

 同級のロバートは女の子をエスコートして、父親のお供で出席させてもらっているというのに!

 その女の子というのが噂じゃすごく可愛いらしく、学校でのロバートは始終鼻の下を伸ばして、自慢ったらしく話していた。その子のせいで、ロバートはクリケットの試合よりもデートを優先するような、腑抜けになり下がってしまった! あいつをこんな腑抜けにした、その子の顔を拝まないことには気が済まない! 

 そんな意気込みで僕は兄に頼みこみ、この大木のあるバルコニーの傍にロバート達を呼んでもらい、ひと目その子の顔を見ようと木の上で待っているのだ。それなのに――。


「見えない……」

 ちぇっ、と唇を尖らせて反動をつけて枝を引っ張ると、僕は身体を起こした。ミシリ、と掴んでいた枝が大きくしなる。


 バキッ! 


 手の中に残る枝と共に落ちかけた僕の腰を、兄が慌てて掴んでくれていた。

「おいおい、気をつけろよ」

 兄は、ふうぅっと大袈裟にため息を漏らし、怒った顔をして見せる。でも、僕は知っている。兄は決して僕のことを怒ったりしない。

「つっ」

 僕はわざと顔をしかめて握っていた枝を振り落とし、反対の手で痛そうに押さえた。すぐに兄は心配そうな顔をして僕の手を取る。


「きゃっ!」


 ほとんど同時に、足下から悲鳴があがる。さっきまでは確かに閉まっていたガラス戸が開き、バルコニーに淡いクリーム色のドレスを着た女の子が立っていた。ホールから差し込む灯りに照らされて、高く結いあげた金の髪を支える細いうなじが白く浮かびあがる。その子は、足元に落ちている、葉のたくさんついた重たげな枝を見下ろしている。

 細い、といっても、それは僕が立っているこの大枝に比べればの話で、あの枝が降ってきたとなれば、そりゃ、怒って当然――。

 漠然とそんなことを考えていると、彼女はキッと顔をあげ、木の上の僕たちを睨みつけた。


 その青紫の瞳に、射竦められた。

 神が存在するという至上の空の色(セレストブルー)に、一瞬で魅せられた。


「申し訳ありません!」


 僕の傍らで、兄がひたすら頭をさげている。僕は彼女にぼんやりと見とれていて、そんな兄の言葉もどこか上の空だ。


「お怪我はありませんでしたか?」

 兄はバルコニーの端に飛び移り、彼女はまた、小さく「きゃっ!」と悲鳴をあげた。鈴を振るような声が可愛らしい。

「すみません」

 兄は申し訳なさそうに重ねて謝った。そして無造作に腕を伸ばすと、彼女の額に落ちた髪をすくいあげ、丁寧に整えた。

「申し訳ない。お顔を傷つけてしまったでしょうか」


 彼女は驚いたように煙る睫毛を瞬かせ、細く繊細な首を何度も振った。かすかに怯えた蠟のように白い肌が、整った顔を構成する彼女の愛らしい薔薇の花びらの唇と、あの艶やかな瞳、綺麗な弧を描く眉を際立たせている。


 兄は彼女の足元に身を屈めて、そこに転がる小さなティアラを拾いあげる。


「重ね重ね申し訳ない。あなたのティアラを、壊してしまったようです」

 兄は整った眉間に皺を寄せ、僕と同じライム・グリーンの瞳を曇らせた。そしてちょっと唇を尖らせて小首を傾げると、タキシードの胸元に挿してあった開きかけの白薔薇を彼女の髪に飾った。

「しばらくの間これで我慢して下さい。まずはあなたの御父上に謝罪に伺わなければ」

 兄は右腕を折り曲げ彼女に差しだした。彼女は唖然としたまま、兄を見つめている。そのびっくり眼がまた可愛い。



「お前はもう部屋に戻りなさい。手の怪我、ちゃんと診てもらってから休むんだよ」

 僕を見あげた兄に、僕は慌てて髪の辺りで手を振り払い落とす仕草をして見せた。

「兄さん、髪の毛、葉っぱがついている! 蜘蛛の巣も!」


 顔をしかめ、兄は長い指で無造作に自分の金髪をぐしゃぐしゃと掻きあげた。と、いうよりも掻きむしったというべきか。


「櫛は?」

 僕の問いかけに兄は困り顔で首を振る。

 無残に乱れた兄の髪に僕は息を吐き、スラックスの後ろポケットから櫛を取りだし放ってあげた。もう三十二歳にもなるのに、年の離れたこの兄は呑気過ぎて困ったものだ。


 頭上から落ちてきたその櫛を受け止め、兄は、ちらりと傍らの彼女に目をやった。彼女はお行儀よく兄に背中を向ける。そのすきに兄は急いで乱れた髪の毛を調える。

 肩から大きく晒された彼女の美しい背中が小刻みに震えている。笑いを噛み殺しているに違いない。


 こんな美人を前にして、どこか間の抜けた兄の姿に、僕は深くため息を漏らしていた。





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