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夏の嵐  作者: 萩尾雅縁
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 夕食の席に、彼女は姿を見せなかった。


 誰も、彼女のことを話題にしなかった。

 祖母は、ロバートの祖母といつものたわいない世間話に興じ、僕とロバート、そしてルーシーは話しかけられた時だけ、「はい」、「はい」と答え、いらないことは言わないように気をつけながら、俯いてただもくもくと食事を進めた。


 兄と兄の友人は、ビリヤードルームで遊んでいるからここにはいない。

 それに例年とは違う日毎に増えてゆく兄の友人たちに、コック兼家政婦のメアリーが悲鳴をあげたのだ。兄たちの夕食は、しばらく前から近隣の村のパブにデリバリーを頼んでいる。それをビュッフェ式で、ここではなく談話室でいただくのだ。毎日毎日、冷めたフィッシュ&チップスとコテージパイばかりで嫌だ、メアリーの料理の方がいい、と兄は時おり愚痴をこぼしているけれど、そこは身から出た錆ってやつじゃないかな、兄さん? それに紳士が食事に文句をつけてはいけないよ。



 そんな訳で、朗らか兄のいない食卓はまるで懲罰でも食らっているかのように味気ない。だから食事が済むと、僕たちは「おやすみなさい」と祖母たちに挨拶し、お行儀よく先に退室する。静かにドアを閉めた後、三人で顔を見合わせて、肩をすくめてほっとため息をつくのが日課になった。


 最近、ルーシーとロバートはまた仲良くなってきたみたいで、よく一緒に楽しそうに喋っている。それにロバートがネルに見とれていると、ルーシーがこっそり彼の手の甲を抓っているのを、僕は見てしまった。女の子って、本当、見かけじゃ分からないね。ちょっと前まで、あんなにおどおどしていたのに!


 僕は少し、ロバートに裏切られたような気分になったよ。だけど、ルーシーがいないとき、「それとこれとは別」と、ロバートはあっけらかんと言ってのけた。「ネル嬢は憧れの女神みたいな存在で、崇拝するべき対象だよ。ルーシーとは同列に置けないよ」と。

 同列って、どういうことか、あんまり意味は分からなかったけれど、ロバートのいう「女神(ミューズ)」という表現が、僕はとても気に入った。神秘的な彼女にぴったりだ。



 僕たちは、長い廊下をゆっくり時間をかけて部屋まで戻った。音楽室で倒れたネルの事をもっと色々知りたかったのだ。

 だけど僕たちのうち誰一人、あれからどうなったのか知らなかった! 


 それも仕方ないことなんだ。僕たちは、あの後すぐにやってきたマーカスに音楽室から追いたてられ、子ども部屋に閉じ込められてしまったからね。「ルーシーなら知っていると思ったのに! なんたって、親戚なんだから」と僕が唇を尖らせると、彼女も同じように唇をつんと尖らせて言い返してきた。

「あら、あなたなら知っていると思ったわ。なんたって、ここのお坊ちゃんなんですもの!」


 可愛くない! 冴えないルーシーの方が良かった!


 内心むっとしたけれど、ぐっと我慢した。女の子相手に怒るのはみっともないからね。


 僕たちは、何か分かったら互いに教え合うことを固く約束して、それぞれの部屋へ戻って行った。




 ドアを開け、まず目に入ったのは、開け放した窓から吹き込む風で大きく揺れている白いカーテンだった。そのカーテンに煽られて、机に置きっ放しのレポートが床の上に散乱し、カサカサ舞っている。


 ペーパーウェイトを置いておけば良かった――。


 後悔先に立たずだ。レポートを拾い集め、窓を閉めようと視線を外に向けた。

 霧雨が降っている。

 まだ完全に暮れきらない群青の空の下、兄の白薔薇が煙るように浮かびあがっている。そのあまりの美しさに息を呑んだ。


 窓枠にかけた手のしっとりとした冷たさに、ふと意識を呼び戻されて。湿った空気を大きく吸って吐きだして、静かに窓を閉めた。





「ねぇ、メアリー。ホットココアを作ってくれる」

 僕は何度も髪をかき上げながら、厨房で一休みしていたメアリーにねだった。まといつく髪がしっとりと濡れていることを彼女に気づかれないように、わずかな水気すらも拭いとってしまいたかったのだ。


「あらあら坊ちゃん、こんなところにまでいらっしゃらなくてもお部屋にお持ちしますのに!」


 メアリーはにこにこと笑いながら、すぐにココアの準備にかかってくれた。ああ言いながら、彼女は僕がこうしておやつや飲み物をここにねだりにくることが内心嬉しくて仕方ないのだ。彼女は昔から僕に甘いもの。


「デザートのプディング残っていない? いつも美味しいけれど、今日のはまた格別だったよ!」


 メアリーのご機嫌具合を伺いながら、そんなに食べたくもないプディングもねだってみる。こう言うと、彼女が喜ぶと思ったから。


「まぁ、坊ちゃん、お腹が空いてらっしゃるの? ああ、どうしましょう! 今日の残りはお兄様が全部平らげてしまったんですよ!」


 兄さん……。こっそりメアリーに頼みこんでいたなんて!


 内心呆れ返りながら、吐息混じりに首を振った。

「いや、いいんだよ。美味しかったからさ、そう言いたかっただけ」

 メアリーの背中をちらちらと盗み見ながら、素早く厨房内を見廻した。くぐもった空気に混じり、ふわりと甘い匂いが鼻腔を刺激する。軽口を閉じると、メアリーがココアを練るカシャカシャとした金属音が、やけに大きく耳につく。


「ねぇ、そこのトレイのポリッジ、ネル嬢のかな?」

「そうですよ。まだ食欲がないって手もつけずでね」

「そんなに酷いの? 大丈夫かなぁ」

「心配いりません! 酔っ払っているだけですからね! まったくあの連中も困ったものだわ。あんなへべれけになるまで飲ませるなんて! でも頂く方も頂く方ですよ。上手くお断わりするのも淑女(レディー)の嗜みってもんですからね!」


 呆れたようにきつい口調で喋りながら、メアリーは僕のカップにできたてのココアを注ぐ。

「シャンパンのせい?」

 メアリーは、ぐっと顔をしかめ下唇を突きだした。

「可哀想だよ。あれは彼女のせいじゃないもの」

 僕は彼女を庇ってあげたかったのだ。

「次々とみんなが勧めたからだよ」

「まぁ、なんてお優しい坊ちゃん!」

 メアリーが目を細めてニコニコしている。


 今だ!


「メアリー、これ、彼女のお見舞いに渡してくれる? ほら、メアリー、ナイトキャップティーの用意をしていたんだろ? お詫びのしるしにさ、不快な思いをさせてすみませんって」


 左手に隠し持っていた庭で摘んできたばかりの兄の白薔薇を一輪、広い作業用テーブルに用意されたティーセットの載ったトレイの片隅に、おずおずと置いた。




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