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踊り終わった兄の周りに、瞬く間に人の輪ができている。
兄の友人の一人が、ぼんやり突っ立っていた僕の肩を抱いて耳元で囁いた。
「みんながみんなディックやエリックみたいに踊れると思うなよ、きみ。あいつらは特別なんだ」
不思議そうに見つめ返した僕に、「普通はあんなスピードで、くるくる、くるくる廻らないからな。あれはね、ああやってパートナーの女の子の目を廻してしまって、ぼーとなったところを口説くんだよ」と彼は軽くウインクしてニヤッと笑う。
へぇー、と僕はえらく感心して、ちらりと壁際の彼女を盗み見た。
彼女がちょっと不機嫌そうに見えるのも、もしかして目を廻してしまっているのかも――。
彼女のことが心配になって声をかけようかと躊躇した。この迷いのちょっとした隙に、もう彼女は何人もの兄の友人たちに囲まれている。僕は憮然とため息をつく。
誰かが、彼女に小さな泡の浮かんでは消えていくシャンパングラスを差しだしている。グラスに注がれた透明なピンクの輝きが彼女にとても似合っている。彼女は嬉しそうに上目遣いに相手を見あげ、顎を突き出すようにして笑った。そして金の髪を波打たせ、頭をぐいっと傾けると、ゴクリゴクリと喉を鳴らしてグラスの中身を飲み干していく。
ピンク色の液体が彼女の紅い唇に流れ落ち白い喉元を通り過ぎるのを、僕はただただ呆気にとられて眺めていた。
飲み終わると彼女は勝ち誇ったように微笑んで、空のグラスを頭上高くに差しあげた。誰かの指が伸びる。彼女のグラスを奪い取る。また、なみなみとピンクの気泡が彼女の手元で揺れている。彼女の白い指先が、揺蕩うピンクに絡みつく。それは儚く消えてゆく――。
ずっとその様子を見ていた。彼女の唇がほころび、真珠のような歯が覗くのを。シャンパンの芳醇な香りのような彼女の笑顔を。その香りに酔いしれていた。同じ動きが繰り返され、彼女の笑い声が甲高く響くのを。酔いしれながら、聴いていた――。
「ジオ」
僕を呼ぶ声に慌てて辺りを見廻した。兄だ。兄がピアノにもたれて手招きしている。
「コンサートの曲を選んでくれって言っていただろ? 候補は何?」
「メンデルスゾーンの、」
兄の元へ急いで駆ける。
兄の時間は貴重なんだ。すぐに、庭や兄の友人たちに奪いとられてしまうのだから!
「一番? お前にはまだ無理だよ」
兄は素っ気なく言い捨てた。なんだかいつもの兄らしくない。
「今の音楽主任はどなたかな? クレイマー先生? あの方はお前くらいの歳の子が背伸びした選曲をするのは好まれないんだよ」
兄は室内から目を逸らし、僕ではなく庭を見ている。
ああ、やっぱり薔薇が気にかかるんだ。
庭の薔薇たちに軽く嫉妬を覚えながら、僕は兄の不機嫌を理解した。
僕より薔薇が心配だって仕方がない。だって、あんなに大切に育ててきたのだもの。
「……は、どうだい?」
庭に気をとられていたせいで、兄の言葉を聞き逃してしまった。
「あ、ごめんなさい、兄さん、もう一度、」
僕が聞いていなかったことで、兄は露骨に眉根をしかめた。
いつもはこんなことくらいで怒ったりしないのに!
「見本を弾いてあげるよ。でもその前にちょっと指を慣らしたい。久しぶりだからね」
兄はピアノの前に座ると、その長い指先を激しく鍵盤に叩きつけて弾き始めた。ざわめいていた室内が一瞬の内に静まり返る。
兄の指先から流れだす音の連なりは、あまりに速くてあっという間に消えてしまう。まるで彼女の白い喉の奥へ落ちていったピンクの気泡のように――。いや、兄の音はピンクじゃなくて金色だ。僕はまた酔っ払っているようにドキドキしている自分の心臓の鼓動を意識して、そっと彼女の方へ視線を向けた。
曲の途中で兄は突然手を止めた。中断された演奏に、兄の友人たちが文句を浴びせる。
そりゃそうだ。せっかくみんな聞き惚れていたのに! リストの、それも超絶技巧練習曲なんて頼んだって兄は絶対に弾いてくれない! まったく兄の嗜好は偏っていて、好きと得意がここまで隔たっている人も珍しいんじゃないかと思う。誰もが羨むその才能も宝の持ち腐れだ!
腹立たしさと羨ましさで、唇を尖らせて兄を睨んだ。けれど兄は、ピアノを弾いているうちにさっきまでの不機嫌を忘れてしまったのか、にこにこと笑いながら友人たちと話をしている。小突かれたり、叩かれたり。散々に文句を言われた挙句、兄はピアノに向き直った。横にエリック卿が腰かける。さすがに大人の男性二人にはスツールが小さすぎだ。誰かが急いで別の椅子を運んでくる。
二人並んで弾き始めたのは、さっき彼女がエリック卿と弾いていた曲だ。
僕は彼女を振り返った。彼女はぽつんと一人、壁に身をもたせていた。その瞳はぼんやりとして、視線は空を漂っている。彼女の大きく開いた胸元から、綺麗な鎖骨が大きく上下に動いている。
僕の見ている前で、ぐらりと彼女の身体が横に傾いだ。
僕は茫然と声を失って、すぐ横にいた誰かの袖を引っ張った。そしてやっとぎくしゃくと、ゼンマイ仕掛けの人形のようにぎこちなく、床に倒れている彼女の元に駆け寄った。
その愛らしい顔だけでなく、耳までほんのり桜貝のように染めあげて、彼女はにっこりと笑いながら眠っていた。
ああ、そうだ。
この曲は、ガーシュウィンのラプソディー・イン・ブルー……。
倒れている彼女を大騒ぎして介抱する兄の友人たち。目も口も大きくポカンと開けてこの有り様に見いっているロバートとルーシー。背後で起こっている出来事に一切の関心がないかの様に、ピアノを弾き続ける兄とエリック卿。
まるで、昔見た擦りきれたサイレントムービーみたいだ。
この滑稽な光景が、唐突に、僕の脳裏にこの曲の題名を思い起こさせていた。




