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夏の嵐  作者: 萩尾雅縁
11/28

10

 こんな風に声をたてて笑う彼女を、僕は初めて見たのではないだろうか。彼女の声は、甲高く、金属的でさえあった。 


 音楽室は、柔らかなクリーム色の壁と同系色にピンクの薔薇の柄の入ったカーテンのかかる、祖母好みの女性的な設えの部屋だ。室内楽の演奏会や、朗読会を開いたりするのでかなり広い。ドアの外では控えめだったピアノの音が、開けたとたんに鳴り響く。それに負けない耳につく笑い声。僕は呆気に取られ、入り口に佇んだまま動けなくなっていた。


 彼女が、ネルが、ピアノを弾いていた。横にはエリック卿がいて、二人は一つの椅子を分けあって、身体をくっつけて連弾していた。


 曲は、何だっけ、聞いたことはあるのだけれど――。


 そんなことより、あまりにも祖母のこの部屋にそぐわない彼女の笑い声とこの曲に、僕は違和感でもやもやして、すっかり冷静ではいられなくなっていた。


 茫然と立ち尽くしていた僕の背を、とん、と優しく叩かれた。見あげると、兄はにっこりとして部屋に入るように僕を促した。邪魔にならないように足音を忍ばせて、一歩、二歩と足を進める。兄が後ろ手にドアをガチャリと閉めたとき、ネルが首を捻るようにしてこちらを見た。切れ長で、少し釣り目のセレストブルーの瞳が、猫の目のように見開かれる。唇の端をかすかにあげた彼女は、すぐにピアノに向き直り、エリック卿の耳元で何か囁いた。そして二人で顔を見合わせ、また声をたてて笑いあう。



 兄の友人たちはというと、壁際の、今は火の入っていない暖炉の傍で煙草を吸いながら、ネルとエリック卿のピアノを聴いているのか、いないのか、てんでに雑談をしている。


 祖母はこの部屋で煙草を吸うとすごく怒るのに……。


 友人たちの何人かは兄の顔を見るとにやりとして、手にした煙草を艶やかに黒光りする蔓薔薇を模したロートアイアン製カバーの隙間から、暖炉の内側へと投げ込んでいる。


 兄さん、ちゃんと怒ってよ!


 僕は下を向いて、上目遣いにそっと彼らを睨めつけた。

 兄に気づくなり集まってきた友人たちの一人が、指先に挟んだ煙草を素早く兄の唇に銜えさせる。僕の想いとは裏腹に、兄は苦笑いしながらそのまま旨そうに煙草を吸った。


 あーあ、これで同罪だ。兄さんなんて、責任をとってお祖母さまに叱られろ!


 何だか嫌な気分で俯いたまま、窓際のソファーに向かった。そこにはロバートとルーシーが、やはり僕と同じように居たたまれない様子でもぞもぞしながら座っていた。



 いつの間にか終わっていた曲に、パラパラと拍手が贈られて――。彼女は上機嫌でつんと顎を突きだし微笑んでいる。広く深い襟ぐりの黒のミニドレスに白い咽喉元が眩しくて、そのときの僕は、不愉快極まりない苛立たしさと彼女に見惚れるドキドキした気持ちとが渦巻いていて、ずいぶんと、ずいぶんと変な気分だった……。


「きみがガーシュウィンを弾くなんて、驚きだよ!」

 兄が唐突に揶揄うような声をあげた。

「見直しただろ?」

 エリック卿は自慢気ににっと笑って片目を瞑る。

「君の番だ!」

「申し訳ない。僕はピアノが苦手でね」


 エリック卿に肩を組まれ、真顔で応えた兄の周囲で大爆笑が沸き起こる。僕も呆気に取られて兄を見た。

 これって、兄一流のジョークだよね?

 兄が得意なのは、フルートだけじゃない。彼女がたった今まで弾いていたピアノは、兄がピアノコンクールで優勝したお祝いに、お祖父さまが我が家の紋章入りで作らせた特注品じゃないか! 


 ネルだけが周囲の反応についていけず、訝し気な瞳で兄を見ていた。


「じゃあ、ワルツはどうだい?」

 もう一度ピアノに向かいあい、エリック卿は軽やかに鍵盤に指を走らせる。兄の友人がさっそくネルに掌を向けて誘っている。この急展開をポカンと眺めていると、いきなり兄に腕を引っ張られて立たされた。


「お前、少しはマシになったのかい?」

 いつの間にか、兄にきっちりと右手を組まれ、肩に腕を廻されていた。

「僕が女性役(フォロー)でかまわないよ。ほらジオ、腕が上がり過ぎ」

「兄さんの方が背が高いじゃないか!」


 大きく足を踏みだした兄に、あっという間に振り回される。僕の方が男性役(リード)なのに!


「スロウ、クイック、クイック、クイック、アンド、クイック……」

 兄は歌うようにカウントを取りステップを踏む。


 くるりとターンしたときに、ふっとネルと目が合った。思わず足が止まりそうになったけれど、そこはすかさず兄が強引にリードしてくれた。


 ――違うって、兄の方が女性役だろ! 


 僕の目は、ミニドレスの裾をひらひらと翻して、ターンの度に高く波打つフレアーな裾から覗く彼女のドレスの中身に釘付けられたまま……。

 恥ずかしさに真っ赤になりながら、どうしても目を逸らせなくなっていた。


 教訓。ミニドレスを着たお嬢さんをワルツに誘ってはいけない。目のやり場に困る。


 兄の腕がぐいっと僕を引っ張った。


 ちょっと、待って! 兄さん、背中、逸らせすぎ!


「兄さ、」

 呼びかけたときには兄もろともひっくり返っていた。兄は床の上で片膝立てて、楽しそうにクスクス笑っている。

「ジオ、もっとしっかりリードしろよ!」


 言いがかりだ! 


 僕は唇を尖らせて兄を睨んだ。


「そいつは無理ってものだよ、ねぇ、ジオ」

 エリック卿が僕にウインクして、兄の腕を掴んで立たせる。

「見本を見せてあげるよ」

「また僕が女性役?」

 眉を寄せて不満顔の兄にエリック卿は澄まして応えた。

「きみが男性役でかまわないよ」


「ジョン!」

 伴奏役の彼は親指を立てて応えると、すぐにピアノに向き直る。


 兄とエリック卿がこの広い室内を軽やかに飛び回るのを、僕は、ただただ感嘆して見惚れていた。踊る、なんてものじゃない。とても床の上に足がついているとは思えない。まるで羽があるかのように、兄は自由にくるりくるりと宙を舞う。

 学校のダンスの試験の前に、何度か手ほどきしてもらったことはあるけれど、兄がちゃんと踊っているところを見るのは初めてだった。夜会でも兄が踊ることはない、って以前エリック卿が言っていた。なぜかって? 相手の女性が兄に夢中になってしまうからさ、とエリック卿はにやにやしながら教えてくれた。冗談じゃなかったんだ――。


 でも兄さん、これを見本にしろなんて、それはあまりにひどすぎないかい?


 びっくり眼で眺めていた僕に、通りすぎざま、兄は極上の笑顔をくれた。



 わずか数分の曲が終わる。

 緊張が一気に解けて、僕はその時初めて、壁際で腕組みをしてじっと兄とエリック卿にきつい眼差しを投げかけている彼女の存在に気がついたのだ。



 





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