神風 匠己(かみかぜ たくみ)という男
広島市立大学 学生会館
真夏の広島は、やたらと死の匂いがする。
7月も夜20時にもなれば、あたりは真っ暗でひと気はない。
図書館の閉館時間に追われ、学生たちが館内から2、3人出てきた。
夏休みに入ろうとしているこの時期に、ダラダラと大学に長居する学生の存在理由などただひとつ、課題ができていない、これしかない。
壇 霧人も、そんな哀れな大学生の一人である。
その銀色の髪は短髪で、すこしボサリとしていてどこか垢抜けていない。
灰色の瞳は少しタレ気味で、鼻筋の通った綺麗な顔立ちをしており、頬が少しコケている。血色もけして良いとは言えない。
一言で言うと、この男には生気というものがない。
さらに言えば、長身でそこそこスタイルは良いのに猫背がすべてを台無しにしている。
どこにでも売っていそうな白のパーカーにスーパーの2階の隅にワゴン売りされているような安っぽいジーンズと、やたらゴツいエンジニアブーツを履いている。
「帰りてぇ」
右耳の裏をボリボリと掻いて、霧人はあくびをひとつする。なんともシマらない顔である。主人公を登場早々にディスるな、と言われても仕方がない。ありのままを伝えるのが語りべの役回りである。甘んじて受け入れてほしい。
銀髪の大学生は、のそりと歩みを進めて、大学の図書館棟二階から国際学部棟二階に繋がるコリドールに出る。
ムワリとした空気が彼を出迎えた。
課題提出に追われる平凡な大学生は、不快な湿度にうんざりして背伸びをした。
吸い込む息は、夏の匂いがする。
近くで蝉が渡り廊下の壁にぶつかり、ビビッと羽音がした。
霧人はそれを横目で見据え、それが飛んでゆく軌道を“先読みして”見ていた。
蝉は、彼の予想通りに一度、街頭のランプにぶつかってから、一回転して山奥へと消えた。
それを霧人はどこか満足そうに見送る。
「壇くん、また泊りかい? たまにはベッドで寝なさいよ?」
初老の男の柔らかな声に、霧人が前を見ると、管理課の須藤が微笑みかけている。見回りをしているのだろう。
「あはは、サンキューっす〜」
霧人は、ヘラヘラと笑いかえした。
須藤はシワだらけの顔をくちゃりとさせて、運動靴をペタペタと鳴らしながら去っていった。
すれ違いざま、ミントグリーンの制服からはタバコの匂いがした。
「しくじった、タバコ切れてら」
霧人は一人ごちり、Uターンして学生会館に向かい始めた。
広島市立大学は、三つの学部からなる小さな大学である。
広い長方形の中庭を中心に、ぐるりと囲うように施設が建っている。
南に図書館棟とホールがあり、東に学生会館、そして北には情報学部、国際学部、芸術学部と三つの学部棟が並ぶ。西には本部棟がある。
こじんまりとした田舎の大学なのだが、この大学、人に遠回りをさせることを強要するつくりになっていることで有名である。
南の図書館棟から国際学部棟に帰るには、ショートカットできるコリドールがあるが、食堂や購買部、タバコの自動販売機がある学生会館に寄って帰るには、学生会館に行ってから情報学部を通りぬける羽目になるのだ。構内をぐるりと半周することになる。不便きわまりない。
クーラーが切られている学生会館は、電気も落とされていて、静かだった。
非常灯の緑色が所々で灯っているのが、どこか幻想的だと霧人は思う。
数台並ぶ自動販売機が、ブウウウン、と呻いている。
ガコン
日本国民全員に支給されるIDカードを自販機にかざすと、マルボロブラックが出てきた。
このIDカードは日本国民であることを証明する身分証であり、電子マネーカードでもある。
日本国民は、この電子マネーですべての買い物をするように決められている。紙幣も存在するが、裏社会にのみ流通するものになっている。
日本国民は、毎月、決まった額まで買い物ができ、どこで何を買ったかはすべて国が管理している。
余談だが、先日、霧人は、国の健康管理サービスから『タバコの消費率が平均以上』と警告を受けている。
学生会館の二階の大学祭実行委員会室を横目に見とめ、通り過ぎた。部屋には鍵がかかっているようだ。
春先からやたらと活発になるお祭り好きたちも、さすがにもう帰宅しているのだろう。
学生会館から情報学部棟に移動し、霧人が所属するゼミ室のある国際学部棟へ向かう。彼の専攻は、日本文学と心理学だ。
情報学部棟から国際学部棟にかけて、アーチ状の通路沿いに、ズラリと13台ほど公衆電話が並んでいる。
一台一台に仕切りがあるそれは、学生たちが連絡用に使うように設置されたもので、利用は無料だ。
いつ通っても不気味だと霧人は思う。
旧式の電話が重い空気を放っており、それが彼にはなぜだか不快だった。
蝉がミンミンと五月蠅い。
霧人は、情報学部に入る辺りでくるぶしを蚊に食われたらしく、器用に足を上げて、
「ツイてねぇ」
と、言った。
ーーその時だった。
『じりりりーん、じりりりーん』
公衆電話のうち1台が、けたたましく鳴った。
左から2番目の、緑色の公衆電話だ。
霧人のすぐ目の前にある、それだ。
「は?」
あたりを見渡すが、誰もいない。
「気味悪ッッ、んだよ」
霧人は去ろうとするが、どうも気になって仕方ない。
通常、考えられない状況だと、彼が瞬時に理解しているからである。
この電話は、発信のために設置されたものであって、受信するために作られてはいないのだ。
違和感は、彼に言いようもない興奮と興味をジワジワと与える。
「……」
おそるおそる、霧人は2番目の受話器を手に取る。
ガチャ、
受話器がもちあげられ、旧式の公衆電話特有のレバー音がした直後だった。
「ッ?!」
霧人は、アーチ状の通路沿いにある13番目の公衆電話に人影があるのに気づく。
(なんだって? さっきまで気配がなかったのに!?)
ぞくりとした寒気を感じ、霧人の足はすくんでしまった。
「…………」
(落ち着け、普通に気づかなかっただけかもしれない)
気を落ち着かせるために自分に言い聞かせるが、“そんなことはありえないことだと霧人は一番よく理解していた”。
嫌な予感が、霧人のかかとからふくらはぎを伝って、背中へと、ゆるゆるゆるゆると這い上がっていく。
霧人は、受話器をゆっくりと耳元にもっていった。
『やぁ、壇 霧人君』
明るい男性の声だった。
だが、抑揚もなければ、息遣いも感じられない。なんともフラットな声。
「何者だ?」
霧人は低めの声でたずねる。
『いやだなぁ。目の前にいるじゃないですか』
1番端の公衆電話にいる人影が、ひらひらと霧人に手を振っている。
顔は全く見えないが、白衣を着ているようだ。霧人は、この時ほど自らの近視を恨んだことはなかった。正体がわからなければ、いらぬ恐怖が増えてしまう。
『国も馬鹿ですよねぇ。
こんなにスミからスミまで国民を管理しているのに、プライバシーがどうのとかいって、電話回線には盗聴機能をつけていないんですよ』
からからと笑うように男は言って、
『ですからね、君にプレゼントを持ってきたんですよ。
とっておきのプレゼントなんです』
と、クスクス、とからかうように笑った。
話が噛み合っていないことに、霧人は苛立ちを覚える。
「正体のわからないモノからのプレゼントは受け取れない」
きっぱりと霧人は言う。
『さすが、頭脳明晰な壇君だ。
君の聡明ぶりには感服いたします。
中学、高校と全国民学力テストで、ずっと1位の成績をおさめているにもかかわらず、こんな山奥の大学に隠れるように進学していることも、ね。実に賢明だ。評価しますよ』
慇懃無礼な物言いで男は言ってから、拍手をしてみせた。
コリドールに拍手がこだまする。
『僕はね、神風 匠己です』
その名を聞いて、霧人の目は大きく開いた。
「馬鹿な。なぜ、“あなたがここにいるんだ”??」
声を荒げて問う。
『あは! 僕がここにいること、認めてくれちゃいましたか?』
歯切れよく笑う神風に、霧人は眉をひそめた。
「“あの”神風博士だっていうのか?」
『そのとおり、僕が神風博士ですよ』
「嘘を」
『嘘じゃあありません。
君のお得意の読心術なら、すでに“解”は出ているはずでしょう。
僕は、嘘をついていない。
人の心のうちが手に取るように分かってしまう、壇 霧人君ならば、ね。
君ならば、僕の声色と間合い、息遣いと話すリズムから十分僕の心のうちは掌握できているはずだ。
ーー読心術では、この国で君の右に出れるものなどいないでしょう』
「なにを、言ってるんだ……?」
『“知っているんですよ”。君のことは、ね』
霧人は、軽い目眩に襲われていた。
呼吸が乱れていて、心臓あたりが苦しかった。
隠していた心の繊細な部分を、無遠慮で覗かれ踏みにじられ犯されているような恐怖を感じていた。
『そんな君だから、僕に選ばれたのです。
おめでとう、君。
今から言う解除コードを覚えなさい。
ーーーーーーーーー、これは、パンドラの箱の鍵です。では、また』
霧人が返答するのも待たず、神風は電話を切った。
霧人は、まばたきもせずに、視界の先にいる白衣の男をみつめていた。
『ツーツーツーツーツー』
無機質な話中音が響く中、
白衣は、ひらりとワルツでも踊るように一度舞うと、国際学部棟の中に消えていった。
「なんだ、………これ」
これが、壇 霧人と神風 匠己の最初の出会いとなる。
そして、このパンドラの箱の鍵と呼ばれた解除コードなるものが、霧人の運命を大きく変えることになるとは、この時の彼は想像もしなかった。