1.7.8
誠一は九十九の後ろに立つ女——千条に視線を向けた。
一体この男は何を言っているのか。彼の視線に釣られて、九十九も千条の方を振り返る。
そして、それまでこのホール内の状況を諦観していた千条はニコやかに笑って誠一に答えた。
「そうですねぇ。まぁこの辺が潮時ってやつですよねぇ~」
「は?」
その発言に最も反応を示したのは言うまでもなく九十九だった。自分の助手が予想外の事を言い放ち、九十九は困惑する。
だが、そんな彼を前にしても尚、千条は変わらずに言葉を続けた。
「見逃してくれるって言ってますし、ここはお言葉に甘えて逃げましょうか先輩」
「おまッ、お前馬鹿か! 敵が目の前にいるんだぞ⁉ コイツら全員消し去るまで退ける訳が――」
「いやいや、消し去るって……。先輩、それ本気で言ってるんですか?」
「……なんだと?」
九十九は本気だった。不死薬さえあれば、使い方次第でこの島を牛耳る事が可能だと本気で思っていた。そして、それは千条も同じだと今この瞬間まではそう思っていたのだが……。
今まで本性を隠していたのか。誤解など何もないと言わんばかりの態度で千条は答えた。
「先輩はナジロ機関を滅ぼすとか、メガフロートを沈めるとか言ってますけどね、はっきり言ってそれは無理ですよ。だって私たち、戦闘は素人じゃないですか。不死になれば何とかなるとかそういう話以前に戦力が全く足りてません。彼らはそこまで甘くないですよ? まぁウツロ君だけは例外ですけど……それでも彼の力だけでこの島の全部を相手にするのは不可能です」
最早正体を隠す気など微塵もなさそうだった。
言葉遣いにはあまり変化はないが、明らかにこれまでと態度が違う。
「そもそもですね、こんな素晴らしい実験場を沈めるなんて勿体なさすぎます! 霊水を燃料にして浮く人工島とその秘密を護る裏組織。こんな面白い状況はそうそう作れるものではありませんので。なのに沈めようだなんて……。でも先輩はそう言っても分かってくれそうにないですからね。やれるところまでやって諦めて貰うのが一番良いと思ってましたが……こうなっては仕方ないです。私の用は済みましたし、逃げる準備も出来てますから退きましょう」
「お前さっきから何言って……。いや、それより今何て言った? 逃げる準備だと……? いや、待て。ちょっと待て。準備って何だ? 第一、俺たち以外まだ誰も戻ってきてないんだぞ」
一体自分の助手は何を言っているのか? いや、もう助手ではないのかもしれない。九十九には目の前の女が何を考えているのか分からなかった。
それは二人のやり取りを聞いていた周囲の者たちも同様だった。どうやらグロース内で仲間割れが起きているという事だけは理解していたが、千条という女の狙いが分からない。
そんな状況の中、誠一に抱かれている状態の律が、何かを訴えるように突然暴れだした。
「おっと、ごめんごめん。そういやお前の事ほったらかしにしてたな」
律の様子を思い出した誠一は、彼女の口に張られたテープを引き剝がした。
声の自由を取り戻した律。誠一に言いたい事は色々とあったが、一旦その想いは抑え、開口一番にグロースに向けて大声で言った。
「貴方達の仲間はもう戻ってこない!」
その声にホール内にいる全員が反応する。
何故この少女がそんな事を知っているのか?
九十九は勿論、ミリアムにも疑問が浮かぶ。だが、律は更に続けた。
「このホール近くの駐車場、そこに貴方達の仲間は集まっていた。でも、カゲナシがやってきて……そいつにいきなり襲われて全員気絶させられたんです。二十人近くいたのに一瞬で倒された。その後海岸にボートがやってきて、貴方達の仲間は島の外へ運ばれたんです。私はその一部始終を見ていた。でも、カゲナシに気付かれて……」
その発言に、九十九の中でこれまで謎と思っていた全てが繋がり—―そして全てを理解した。
ウツロが何故この少女を連れてきたのか、何故仲間が誰一人戻ってこないのか。その全てを裏で操っている人物がいたのなら……。
「……千条、お前のせいなのか。他に仲間がいるのか。……お前は何だ……俺を裏切る気なのか」
「裏切るなんてとんでもない。私は先輩の味方ですよ? 確かに不死薬を失うのは勿体ないかもしれませんが……先ほども言った通り、私の用は済んだのでもういいんです。この島の内部事情は大体分かりましたし、ウツロ君の良いデータも取れましたからね。でもグロースにここで消えて貰うのは困るんです。特に先輩、貴方にはまだ用がありますから。なので……ウツロ君お願いね」
千条がそう言った次の瞬間——ウツロは九十九の背後に素早く回り込み、彼の首筋に麻酔針を刺しこんだ。どうやらこの事態を事前に見越していた千条から予め渡されていたもののようだった。
「……ウツロッ……この……クソ……」
麻酔針を刺され、徐々に意識が薄らいでいく九十九。即効性があるといえいきなり倒れる事はなかったが、最早抗う事も出来ず、意識を失うのも時間の問題にみえた。
膝をついて荒く呼吸する九十九の前で、千条は対面の敵対者たちに朗らかに笑ってみせた。
「さてさて、お騒がせしてすみませんねぇ皆さん。それでは見逃してくれるとの事ですし、私たちはこれで退散しようと……」
「待ちなさい」
彼らのやり取りを横で見ていたミリアムが千条の言葉を遮った。
桐原はミリアムの意志に応えるように依然として千条に銃を向けている。
「どうやら貴方が黒幕のようね。見逃すとは言ったけどこんなのは今回限りよ。この島は常に私達の監視下にある。また同じ事をする気でいるなら次はないと思いなさい。私達はそこまで温くない」
「ハハハ~、それはどうですかねぇ」
「何ですって?」
ここでは撃ってこないと確信しているからなのか—―千条からは余裕の色が消えない。
その上で発された彼女の言葉は『またこの島に来る気でいる』と同義にしか思えず、明らかに舐めた態度を取っていた。そして、その軽口はまだ止まらない。
「確かにこの島で何かするにしても、そちらの対応速度を見るに、私たちが監視されていたのは間違いなさそうですね。それもただの監視ではない……エクスでしたか? そんな事は第七感がない限り不可能と思いましたが……でもこの島の外で何が起きているのかまでは把握していない御様子。わかっていたならもっと早い段階で対処していた筈ですしねぇ。……面白いです。やっぱりこの島は面白いですよ。これはもっと色々と試したくなって—―」
だが、千条の言葉がそれ以上続く事はなかった。
彼女がそこまで口にしたところで、桐原が銃の引き金を引いたのだ。その僅かな挙動を見ていたウツロはすかさず千条の腕を掴み、彼女の身体を引き寄せる。
銃声が一つ鳴り響き—―その直後、先程まで千条の居た場所を銃弾が貫いた。
間一髪のところで息を繋いだ千条だったが、この瞬間何が起きたのか理解させるよりも早く、ミリアムが威圧の籠った表情で彼女に言った。
「二度はない。私は『見逃す』と言った。決してお前たちの意志で逃げられると思うな。何をやろうと無駄だと知りなさい。それでもまた来るというのなら、私はこの島の全てを使って排除する」
「…………」
ミリアムの言葉に千条はただ沈黙で返す。千条とミリアムの間には緊迫した空気が流れていた。
だが、そんな空気を打ち壊すように横から誠一が割って入った。
「その辺にしとけよ。ったくおっかねぇ連中だな……。まぁいいや。とりあえず諸々の問題が解決したところでよ……残るはこいつの処分だな。さぁどうしようか?」
そう言うと、誠一は再び赤い小瓶をミリアムに見えた。
不死薬をどう処分するか。ミリアムの中では考えるまでもなく結論は決まっている。
「そんなもの砕けばいいだけでしょ。早くそうしなさいよ」
「いいや、それ以外にもう一つ方法があるだろ?」
そう言うと、誠一は腕に抱える律をステージ端に下ろした。身動きの取れない律を後ろに控えさせ、誠一は更に言葉を続ける。
「一応アンタらの意見も聞いときたい。まぁ、どう答えが返ってきたところで俺がやる事は変わらないんだけどな」
「……? 何を言ってる?」
「安心しろよ。アンタらとの協力関係は変わらないし、この島を護る為に俺とエクスはこれからも力を貸す。その証明の為に薬も持ってきた。だが、その上で俺たちの目的は果たさせてもらう」
その発言にミリアムは嫌な予感を抱いた。『もう一つ方法がある』。それはつまり—―。
「……まさか、使う気でいるのか」
「あぁ。でもそれは俺じゃない。もっと相応しい奴がいるぜ。今これを一番必要としてる奴がな」
誠一がそう口にした数秒後だった。ホールの入り口付近に人影が現れた。その足音に皆が注目し、一斉に入り口へと目を向けた。
そこに立っていたのは—―。
「待ってたぜ。打合せ通りだな」
この場に最も似つかわしくない、そんな雰囲気を纏った一般人らしき男だった。




