1.6.3
律はこの男の言っている意味が理解出来なかった。
漫画、物語、ピンチ。この状況で、そんな単語が出てくる事に違和感しかなった。だが……。
――あぁ、そうか。……この男は、そういう人間か。
律は悟った。きっとこの男は、現実と虚構の区別がついていない類の人間なのだろう、と。
彼の話は全部鼻で笑えるような馬鹿げたものだったが、律はそれを笑わなかった。いや、笑えなかった。彼女の内に湧き上がったのは、笑いを通り越した純粋な怒りだけだったからだ。
「……ふざけるな。物語? ピンチが欲しい? ワクワクする? いい加減にしてくださいッ!」
律は現実に物語のような都合の良い救いなんてない事を知っていた。
それを理解し、誰よりもこの島の現実と向き合っているつもりでいたのだ。
だからこそ、目の前の男が許せない。
「嬉しいとか、漫画とか、物語とか……そんな事が言える貴方は現実を見ていないんだ。どうせ、今この島で起きてる事だって全部他人事にしか思ってないんでしょ!」
カゲナシとの対峙から未だ感情の整理もできていない律に余裕はなく、そこへ更に追い打ちをかけるようにエクスにも脅され、ミリアムに連絡を取ることも許されない状態に陥っている。
そんな状況だからこそ、自分一人の力でこの危機を乗り越えなくてならない。
それなのにこんな男に邪魔をされているのは、律にとっては堪ったものではなかった。
「そんな奴が……舞識島を護る私たちの、私の邪魔をするなッ……!」
律はナイフを強く握りしめ、再び戦闘態勢に入る。
しかし、次に誠一から返って来た言葉は、彼女の思いもしないものだった。
「言われたい放題だな、俺。……まぁでも、そうか。お前にはなんか大事なものがあるんだな」
「……え?」
依然笑ってはいるが、その表情は楽しさと悲しさが混ざったような、どこか不思議な感情を思わせるものだった。それまでの雰囲気から一変し、急に穏やかな口調で妙な落ち着きをみせる。
――なんだ。この人は……。
今までにも似たタイプの人間には多く会ってきたが、何かが違う。直感で律はそう感じた。飄々としている態度も含め、次にどんな行動を取ってくるのか分からない。律は警戒心を一層高め、相手の出方を伺っていた。
そして、いよいよ二ラウンド目が始まるかと思えたのだが――
「さてと。…………んじゃ、ま、この辺で終わりにしとくか」
「……は?」
思いもしない男の発言に律からマヌケな声が漏れる。まるで時間が止まったような感覚に陥った。だが、そんな彼女の事など全く気にもせず、誠一はマイペースに話を続けた。
「俺の用は済んだからもう満足した。アイツのテストも十分だろうし、こんなもんでいいだろ」
「……え、テスト?」
「まぁ、アレだ。このまま続けてもお前じゃ俺は倒せないじゃん? 事実傷一つ付けれてないし。そういうわけで、今日のとこは俺の圧勝って事で終わろう。うん、それが良いな。そうしよう」
この場を収める名案を思いついたとばかりに、誠一は両手をポンと合わせる。
律からしてみれば屈辱極まりないが、場の張りつめていた空気が急に解けた事で、それを考える程に頭が回る状態でなかった。
ただ、よく分からないが……状況が唐突に終わろうとしている事だけは理解した。
「……。いや、何言ってるんですか。まだ何も終わってませんし、こっちは聞きたい事が山ほどあるんですよ! まず、昨日何が起きてたのかそれを答えてもらうまでは……」
その言葉に、誠一が眉を顰めた。
それはつまり『自分は何も知らない』と言ってるのと同じであり、昨晩の件について、この少女も誠一同様巻き込まれている側という事を意味していたからだ。
「あー、なんだ。そういうことかよ。……はぁ~、それなら襲ってくる前に言えよな」
結局、これまでのやり取りがほぼ無駄だったと気付いた誠一は、帽子の下で深く溜息を吐き、律に対し、ある提案を持ち掛けた。
「よし決めた! お前、俺についてこい」
「は?」
「何が起きてるか知りたいんだろ? ならついてこい。協力してやるから。っつーか、お前が俺に協力してくれ。実はこっちも似たような状況で困り果ててたとこでよ。何が起きてるのかサッパリなんだ。……ってな訳で、お互い目的が一致してるならついてきた方が得だと思うんだが」
とても先程まで殺し合っていた者から出る発言とは思えなかった。
しかも、『自分も何が起きてるのか分かってない』というかなり重要な情報まで勢いで明かしてきている。流石に情報量が多すぎて、律は最早何が何やら分からなかった。
「ちょ、ちょっと待って! そんな急に……。だいたい何で私が貴方なんかと……」
「まぁ、あんだけ嫌い発言されちゃったしな。お前が俺の事を気に入らないのは分かる。凄い分かる。でもなぁ……ホントに良いのか? ついて来なかったら大変な事になるけど」
そう言うと誠一は、ニヤニヤ笑いながらパーカーのポケットからある手帳を取り出した。
「ほう、なになに。朝凪高校の一年、成瀬律ね……へぇ~、お前まだ高一かよ。それでさっきの動きはやべぇな。あれは相当訓練を積んで……」
「なッ⁉」
律の学生手帳が、何故か誠一の手に渡っていたのだ。
常に肌身離さず持っていた筈だが、どうやら競り合いの最中に盗み取られていたようだった。
「返せ!」
「へッ、やなこった。お前が協力するなら返してやってもいい」
学生手帳を盗まれたのは完全に律の不覚だった。ナジロ機関の人間とって、個人情報を握られるのはマズい。下手に扱われれば、組織の存続にも関わる為、逆らう訳にもいかなくなった。
「何を考えてるのか知りませんけど。……分かりました。一先ず共に行動しますよ」
「よし、そうこなくっちゃな!」
行動の主導権を握られてしまい、律は仕方なくその要求を呑むことにした。
しかし、それは特に苦しい条件でもなく、寧ろ自分にとっては都合の良いものだった。
この男の言葉を鵜呑みにするのは危険だが、弱みに付け込んだ無茶な要求ではない。
だからこそ、現時点で律が確かめたい事はたった一つだけだった。
「一つだけ、これだけは教えてください。……貴方はこの島の味方なんですか?」
善人でないことは確かだ。ただ、完全に悪人であるとも言い難い気がしたのだ。
そんな彼女の問いに、背を向いていた誠一が振り返って応える。
「お前の言う敵味方ってのがイマイチ分からないが……。複雑な理屈とか理由とか、そういうのはまどろっこしいよな。だからシンプルに言うぞ?」
誠一の目に迷いはない。ただ自分の本心が感じた想いを口に出す。
「俺はこの島が好きなんだ。此処は俺にとっても大事な場所なんだよ。それはお前も同じなんだろ? なら俺は力を貸すってそれだけの話。そっちの方が面白そうだしな。……まぁそう心配すんなって。きっと何とかなるさ。任せとけ!」
その言葉には、どこか期待したくなるような、信じたくなるような不思議な力があった。
言ってる事は無茶苦茶だったが、それを笑顔で口にする誠一に律は懐かしいものを感じていた。
この男の雰囲気が、幼い頃『ヒーローになる』と語っていた――柳和馬にどこか似ていると。
白渡誠一は、この世界を物語の中だと信じ、自分をその主役にしようとしていた。
その為には、ピンチのような『自分を魅せる展開』が必要だと考えている。
しかし、『よりピンチに陥っている者が主役に相応しい』とするなら、この時点においては、彼を主役とは言えなかった。
よりピンチに立たされている者が他に居たからだ。
もっとも、その男は自身を脇役と言っているのだが――。




