1.6.2
◇ ◇ ◇
十二時半 A区画 某路地裏
「……見つけた……」
A区画南端の路地裏で、成瀬律はキャップ帽を被る青年の前に立っていた。
三十分程前、学校を出て独自に動き出そうとしていた律のもとに一本の電話が入った。
その電話の主は、自らをエクスと名乗って、ある取引を持ち掛けてきたのだ。
『実は、折り入って頼みたいことがあってですね。……白渡誠一。おそらく貴女が今探しているだろう男の名です。彼の居場所を教えます。信じるか信じないかは貴女次第ですが……手掛かりが少ない今の状況において、悪い話ではない筈です』
正直、意味が分からなかった。通話相手の事もそうだが、自分にそんな事を伝えてくる理由が思いつかない。しかし、こちらの素性については理解がある様子だった。その辺りの事も詳しく問い詰めようとしたのだが、どうやらこの通話は録音を流しているだけのようで、会話が成り立つ状態になかった。色々と不気味ではあったが、律は、一先ず相手の話を聞くことにした。
『ただ最初に言った通り、一つだけ頼みがあります。その場所へ一人で向かってもらいたい。条件はそれだけです。くれぐれも貴女の上司には知られないようお願いします。万が一破った場合は……そうですね。例えば、貴女の友人――如月君と柳君でしたか?』
その名前が出た瞬間、律の額に冷や汗が流れた。
『彼らがどうなるのか。ご想像にお任せしますが、つまりは『そういうこと』ですので。常に貴女を見ています。期待していますよ、成瀬律さん。では』
エクスはそれだけ言うと、一方的に電話を切った。
罠の可能性も十分考えられるが、それ以上に自分の友人に手を掛けられる可能性を示され、それが律にとって最大の脅しとなり、彼女はこの取り引きを受けざるを得なくなった。
その後、匿名で送られてきたメールの地図を確認し、この路地裏に向かって今に至っている。
「昨日、居ましたよね?」
目の前の男に対し、些か直接的な問いを投げる律。だが、当の相手は迷いなく即答した。
「いいや、何の事だか分からないな。人違いじゃない? うん、人違いだろ。ってなわけで、じゃ」
それだけ言うと、男は背を向けてそのまま場を去ろうとした。明らかに白々しい態度だったが、逆にこの反応で律は確信を抱き――次の瞬間、制服の内に仕込んでいたナイフを取り出し、男へ投げつけた。
致命傷は避けた完璧な投擲だった。しかし、それが命中する事はなかった。
男は、腰に備えるポーチから黒い刃物のようなモノを取り出して、ナイフを弾いたのだ。
やはり一般人でないと理解した律は、すぐさま次の行動を起こす。
手元に残っている二本のナイフを持って、一気に間合いを詰めて刺突する。
しかし、それも男の肌に届くことはなく、ナイフは男が手に持つ黒い刃物で受け止められた。
――これは、クナイ……?
何故クナイなんて持っているのか分からないが、お互いに得物の刃渡りは十五センチ程度だ。
ナイフとクナイがぶつかる鍔迫り合いの中、男は帽子の下でニヤリと笑う。
「人違いだって言ったのに、信じちゃくれねぇんだな?」
「当然です。それに、今の立ち回りで確信しましたから」
「決めつけは良くない。もしかしたらドッペルゲンガーって可能性もあるかもしれねぇぞ?」
当然そんな訳はないが、人違いでないのだけは確かだ。
真っ白な髪色とキャップ帽を被っていた事が印象的で、間違える筈がなかった。
「貴方の名前だけは既に知ってます。……白渡誠一」
「お。なんだよ。そこまでバレてんのか。なら、わざわざ訊いてくんなよな……ッと!」
キャップ帽の男――誠一は律のナイフを振り払って、大きく後ろへ下がった。
「いきなり襲い掛かってくるとか、最近の女子高生は物騒だなオイ……なんて言ってる場合じゃなさそうだけど。……あー、俺もお前の顔は覚えてるよ。うん、すみません。で、何者よ?」
「それを言う必要はありませんッ!」
――この男は確実に何かを知っている。なら、力づくで吐かせるまでだ。
最初から話し合うつもりも、その選択肢を取るつもりも律にはなかった。
誠一を追撃するように、道の壁を斜めに蹴り上げて飛び上り、その勢いで上方から斬りかかる。
狭い一本道を利用した立体的な攻めが、誠一が握っているクナイを弾き落とした。
「ハッ! やるなお前。っつーか、何だその動き。すげぇな、漫画かよ!」
よく分からない称賛を贈りながら、誠一はもう一本クナイを取り出して更に後方へ下がった。
男が防戦一方なのは間違いなく、明らかに勢いは律にあった。律は、そこから続けてナイフの斬撃に、蹴り技を織り交ぜて追い詰めていく。
一息つく暇も与えない猛攻。そこでようやく、これまで余裕を保っていた誠一の表情が崩れた。
致命傷になる攻撃をクナイで受け流していたが、それも次第に限界になり、一瞬だけ完全な隙が生まれた。その瞬間を律は逃さない。
次に振るうナイフが確実に男を捉えると思った律だった――が、結果はそうならなかった。
「なッ⁉」
一瞬だった。ナイフを振るおうとしたその瞬間に、ナイフを持つ腕と右足にワイヤーが巻き付いたのだ。上手くバランスが取れず、身動きが取れない。何が起きたというのか。
見ると、それは誠一の手から伸びており、自分の腕と足には手裏剣に繋がれた細いワイヤーが巻かれていた。律の攻めの一瞬を狙い、ワイヤーを繋いだ手裏剣を投げて巻き付けたのだ。
思えば、昨晩もワイヤーらしきモノで壁をよじ登っていた気がしたが、まさか手裏剣に取り付けてこのように扱ってくるとは思いもしなかった。第一、手裏剣を持っていた事が予想外だった。
だが、それは確かに実現され、その証拠に誠一は傷一つ負うことなく活き活きと笑っている。
「今のはマジで危なかったな。……いやごめん、正直舐めてた。その歳でここまでやれたら大したもんだ。昔の俺なら瞬殺されてたかもな」
それは世辞でも何でもなく、目の前の少女の戦闘センスを本物だと評価する言葉だった。
しかし、傷一つ負わす事の出来なかった律にはただの嫌味にしか聞こえない。
律はナイフで絡みついたワイヤー勢いよく切断し、ゆっくりと息を整えてから誠一に問う。
「何者ですか?」
「何者って、だからそれはこっちの台詞なんだが……。え、何よ? 宇宙人とか言われても驚かないから言ってみな?」
「本当に軽口の多い人ですね。でも、相当な手練れというのは分かりますよ」
「いやいや、これくらい出来ねぇと、俺とっくの昔に死んでるからね」
笑って応えてはいるが、相当な修羅場を潜ってきたのは間違いない。律にはそれが分かった。
律は警戒心を一層強めるが、対する誠一は、戦闘が始まってからずっと笑顔のままだ。
「……何がそんなにおかしいんですか」
その律の問いに、誠一は帽子の下でやはり笑いながら答えた。
「いや、悪い。なんか嬉しくてさ」
「は?」
その瞬間、律から表情が消えた。が、誠一は尚も話す口を止めない。楽しそうに語り続ける。
「こんな漫画みたいな展開がさ、俺を襲ってきてる事が嬉しいんだ。昂ぶる。ワクワクする。……そうだ。待ってたんだ。こんな展開を……俺を物語の主役に押し上げてくれるようなピンチを」




