1.2.4
『律、どうした? 何があった?』
数秒間通話が途絶え、ミリアムは部下の身を案じていた。何かがあったのは間違いない。
それから更に数秒後、イヤホンから聞こえてくる声に気付いた律は半ば呆けた意識のまま応えた。
「カゲナシが今、目の前にいます。声を辿ったらその先に。それにもう人が……」
一先ず応答があった事に対しミリアムは安堵すると、同時に『既に殺人が起きている』事も理解して、冷静に指示を出す。
『分かった。死体はこれから桐原を向かわせて対処させます。貴女はまずカゲナシを――』
しかし、律はカゲナシの放つ雰囲気に完全に呑まれ、ミリアムの声は届いていなかった。
カゲナシとの相対はこれが初になるが、ここまでプレッシャーを感じた事は今までない。
自分を見つめる視線に気付いたのか、カゲナシも振り返って律の方を見つめている。
死体の返り血がカゲナシの纏う白いレインコートに斑点模様を描き、表情のない真っ白な仮面が、更にその不気味さを際立たせていた。
『しっかりしなさい。律!』
イヤホンから響くミリアムの声。その一言で、呆けていた律が目を覚ます。
律は、地に足が付いていることを確かめるように一度大きく息を吸って心を落ち着かせた。
『いい? 今貴女の目の前にいるソレは普通じゃない。無理して一人で相手をしないで』
「……わかりました」
『それで、カゲナシに何か変わったことはない?』
じっとこちらを向いたまま動かないカゲナシ。そんな相手の様子を観察し、律はある事に気付く。
「何かを持ってます。鞄のような……アタッシュケース? 銀色のアタッシュケースです」
カゲナシの右手に握られている長方形の物体。それがアタッシュケースである事を確認する。
厚みもなく、サイズもそれほど大きくない。小物を入れる用途で使用されるものだった。
過去に組織が相対した報告では、カゲナシは常に両手を空けていると、律は聞いている。
――何かが妙だ。
疑問を抱きながらも、律は少しずつ冷静さを取り戻していった。
だが、そんな彼女を再び恐怖に落とし込むように――カゲナシは遂に動き出す。
一本道の路地裏。その行き止まりにカゲナシと二つの死体があり、律はその反対側に立っている。
つまり、律を正面から突破する他に逃げられない状況なのだが――
そんな中、カゲナシは、一切の迷いなく律の方へと駆けだした。
突然の動き出しに、律の対応は一瞬遅れたが、すぐさま左手に持つ拳銃を構えて照準を合わせる。
距離は十五メートル程。場は暗いが、夜目の効く彼女にとっては大した問題ではなかった。
銃声が一つ響き、弾丸がカゲナシに向けて放たれた。だが、カゲナシはそれを予知していたのか、銃声音が鳴ると同時に身を屈めてそれを躱してみせた。
完璧なタイミング。律もその身のこなしに驚きはしたが、想定外という程ではなかった。
身を屈めたカゲナシは体勢が僅かに崩れている。そこを狙い、律は続けて銃弾を撃ち込んだ。
だが、カゲナシもこれだけでは止まらない。
身を屈めた姿勢から膝のバネで大きく跳躍し、飛んできた銃弾を跳び越えたのだ。
――組織が手こずる程の相手だ。やっぱりこれでも止まらないか。
カゲナシとの距離は残り三メートル。彼の手があと二、三歩でこちらに届く距離。
律は後ろに下がりながら、右手に持ったナイフを正面に構える。
近接戦で仕留める。その意図を見せつつ、カゲナシが次の一歩を踏み出そうとしたその瞬間を狙って、次に足が着く先に銃弾を放った。
至近距離での不意をついた一撃。確実に命中する。律はそう確信していた。だが、目の前の怪人は更に彼女の想像を越える動きを見せる。
なんとカゲナシは次の一歩を踏み出す足をピタリと止め、地についているもう一方の足を軸に、身を回転させることで着弾のタイミングをずらしたのだ。
明らかに常人離れした動きだった。思いつきで出来る事ではない。
何故この距離で……しかも高速で動きながら今の銃弾を躱せるのか?
律がその疑問を深く考えるよりも早く、カゲナシは更に次の一歩を踏み出す。
――ダメだ、殺られる。
自分では手に負えない。すれ違い際に確実に殺される。律は直感で死の予感を抱いた。
しかし、その予感すらも外れる結果となる。
――え?
一瞬だった。カゲナシは、そのまま律の真横を素通りしただけだった。ただそれだけだったのだ。
呆然とその場に立ち尽くす律。そんな彼女の内心には様々な感情が湧き上がっていた。
――何で……私は生きている? 何故殺さなかった? 何で? どうして?
律の思考は既に限界にあった。そのギリギリのところで律はなんとか我に返り、『極秘任務』のことを思い出した。状況を見ること。ミリアムから与えられた最も優先すべき任務だ。
――違う。状況はもう終わったんだ。『何か』は終わった後でカゲナシは逃げたんだ。
――そうだ……追わないと……! 追わなきゃ……!
ミリアムの『深追いはするな』という言葉も最早頭に残ってはいなかった。
ただ『カゲナシを追わなきゃいけない』というその一心で、律は足を動かす。
そして、カゲナシの後を追って路地の角を曲がった瞬間、彼女はその現場を目撃した。
「すまん。出遅れちゃった。待たせて悪いな……って、え? 何でそんなに真っ赤なの? まさかお前……また殺ったのか? ハァ~、もうやめとけつったろ。ったく、……まぁ今言っても仕方ねぇな。とりあえず打合せ通りコレは受け取るから後は俺に任せとけ。……おう、じゃあな」
カゲナシが一人の男と会話をしていた。キャップ帽を被る白髪の青年だった。
その男は、全くこの場に相応しくない明るい口調でカゲナシに話しかけていた。まるで友人同士の会話のようであり、カゲナシはアタッシュケースをキャップ帽の男に渡すと、それから直ぐに場を去っていった。
「……え?」
状況が見えない。そんな感情を表す声が漏れ、その声にキャップ帽の男も反応した。
「はい?」
互いの目が合い、数秒間沈黙が流れる。どうやら男の方もこの状況は想定外のようだった。
「えっーと……。え? うわ、マジかよアイツ。つけられてんじゃねーかクソッ!」
男は焦った様子でそう言うと、懐からワイヤーで繋がれた何かを取り出し、横にある建物の頂上目掛けて投げ放った。それが屋上に引っかかったことを確認すると、巻き取るようにして一気に壁をよじ登っていく。
そして、男は瞬く間に地上から八メートル程の地点に辿り着くと――
「じゃ、そういうことで」
とだけ言い残し、アタッシュケースを持ってその場を後にしたのだった。
現場に残された律は、もう何が何やら訳が分からず、溜息をついて落ち着くように一言呟く。
「……なんなの一体……」
それから律は徐々に冷静さを取り戻し、ミリアムからの連絡を受けた。
『律、聞こえる? 途中から連絡がなかったけど無事ね?』
「すみません。カゲナシを逃がしました」
『深追いはしなくて良いと言ったでしょう。まあいいわ、無事ならそれで』
「それがその……カゲナシの後を追ったのですが、その先で帽子を被った男が奴と一緒にいて……」
『……? とりあえず一度落ち着きなさい。その辺りの事は後で聞きます。それで、死体があるのよね? 桐原を向かわせてるから詳しい場所を教えて』
カゲナシによって作り出された二つの死体。
これからその処理を行う為、律はカゲナシと対峙した場所まで戻ったのだが……。
彼女はそこである異変に気付いた。二つあった筈の死体が一つだけになっていたのだ。
「え? どうして? 確かに二人殺されてた筈……」
――実は一人生きていた?
――いや、確かに流血はしてたし、仮に生きてたとしても、あんな重傷で動ける筈が……。
死体が一つ消えているという事実。次から次へと謎が増えていく。
――とにかく、もう一つの死体の方を確認しよう。
律が残った死体の傍に歩み、うつ伏せに倒れる死体を恐る恐る動かしてその顔を確認した。
そしてこの夜、最後の衝撃が彼女を襲う。
「……前田……くん……?」
その死体は、律の通う高校のクラスメイトのものだった。




