ビターいちごと秋の風
夜の恋愛物のドラマを観て、恋愛なんて自分には完全に遠い世界のお話のように感じていた。自分にそんな甘い道は進めない、そう言い聞かせてきた。
彼女を一度も作らずに26年生きてきて、いつか自分も結婚するんだろうかという漠然とした客観的思考が脳内を支配しかけていた。
会社でミスした後輩を俺がフォローしてやった事が一度だけあった。名前をユカと言う。それきりユカは俺に懐いてくるようになった。偶に社内で会ってはたわいもない世間話をするくらいに。
ユカは地味目で目立つ所があまりないものの、そこそこ可愛くて、真面目ないい子だった。あまり社内で可愛い子としての話題に挙がらないのは、その地味さ故なのだろう。
俺に近づくようになったのは彼女なりに恩を感じていたからだったようだ。
彼女とメアドも交換した。そこからはとんとん拍子で距離を縮めていった。
「あの、今度の土曜日お出掛けしませんか?」
とある秋の日、転機が訪れた。
お誘いは彼女からだった。プランも何も練っていないということだったので、詳しくは今夜メールして決めるということになった。行き先未定、つまりは自分とどこか出掛けたいということだ。
その日はウキウキ気分だった。いつもは発泡酒のところを冷蔵庫でキンキンに冷やしたモルツを2本飲む程。シャワーを浴びながら明日何処に行くんだろうとか、上手くエスコート出来るだろうかとか、色々と考えた。
なんせ自分の初デートなのだから。
「デート…」
果たして本当にそうなのか。彼女が自分の事をどう思っているかはさて置き、まず自分が彼女の事をどう思っているのか、自分でも良く分からない。
酔いから覚めた。
土曜日、俺は待ち合わせ場所に30分早く着いた。
「待った?」
「今来たところ」
とりあえず定番であるだろう台詞を言うことが出来て、幸先の良さを実感していた。
自分より後とはいえ、彼女は待ち合わせ時間より10分早く来た。俺を待たせまいと思ったのだろう。相変わらず真面目なやつだ。
彼女の普段着を見るのは初めてじゃなかったが、それでもいつもより新鮮な気分になった。
交際経験が一切ない自分には、どこに行けば相手が喜ぶかはわからないが、知識が無いなりに行く場所も頑張って考えた。その日は映画を観て、ショッピングモールで買い物したりした。
おやつ時になって、2人でカフェに寄った。俺はサンドイッチを、彼女はストロベリーサンデーを注文した。
意外にもサンドイッチよりも先に彼女のサンデーの方が早く運ばれてきた。彼女を待たせないためにサンドイッチを頼んだのだが、どうやらアテが外れたかもしれない。
「いちご好きなんだぁ」
ふふ、と幸せそうにスプーンでサンデーをすくって食べている彼女の姿が非常に微笑ましく感じられた。自分に縁のない青春という物に出会えて、こそばゆい気分になった。
じきサンドイッチが運ばれてきた。1分で食べきった所を見て彼女は、
「食べ物は逃げないから、そんなに焦らなくていいのに」
とにこにこしながら言った。彼女に心を見透かされたようで、何だか恥ずかしくなった。
彼女と付き合って、あわよくば結婚出来たら、どれほど幸せなことだろうか。
はい、と彼女はスプーンをこちらに向けてきた。上にはチョコレートソースのかかったいちごが1つ乗っていた。多分食べろということなのだろうと瞬時に悟った。間違いなく関節キスだ。進めてくれた彼女にも悪いと思った為、素直に食べることにした。
ぱくりと一口でいちごを頬張った。その時彼女の顔が見えて、妙に意識してしまったために顔をそらした。そこまで顔が赤かったのか、彼女にクスクスと笑らわれて、前にも増して恥ずかすくなった。
いちごにかかっていたチョコレートソースがビターでほろ苦かった。
彼女のサンデーの器が下げられ、俺がお冷を流し込んでいると唐突に彼女が言った。
「浩次くん。今までありがとう」
俺は彼女が言い放ったそのフレーズに違和感を覚えた。
「俺感謝されるようなこと何かしたっけ?」
「色々してくれたでしょ?私のミスをフォローしてくれたところから始まって、それから色々面倒見てくれた…」
脈絡からして、彼女は自分に別れの言葉を言っているとしか思えない。
「…じゃなくて、何でいきなりそんな…」
「私ね」
ユカが俺の言葉を一蹴した。
「私、結婚するんだ」
彼女のその言葉を聞いて、頭が真っ白になった。
「専業主婦になるから退職するの。会社でも挨拶をする予定だったんだけど、浩次くんには個人的にお礼がしたくて」
そう言いながら薬指にはめた指輪を見せてきた。その表情は心なしか少し寂しそうだった。
俺はおめでとう、とか良かったね等の月並みの言葉でしか祝福出来なかった。とてもめでたい場面の筈なのに、俺たちの間には愁傷な空気が流れていた。
別れた後、一人で夕闇迫る道を歩いた。残暑が厳しかった昼頃と裏腹に、冷たい秋風が吹いて肌を刺した。
その日は帰ってそのまま着替えもせずに布団に潜り込んで、密かに枕を濡らした。
それから俺は2日間の有休を取って、何も考えずにテレビばかり観ていた。
有休明けて水曜日、彼女のデスクには何も残っていなかった。それきり彼女の顔を一度も見ていない。
時折あのカフェに行ってみたりする。特別美味しい訳でも安い訳でもない、至って普通のカフェ。行くと必ずテラスでサンドイッチを食べるのだが、その度にユカの事を思い出してしまって情けなく涙を流した。あの日と同じ冷たい風が吹き抜け、さらに涙腺を刺激した。
恋愛物のドラマは前にも増して避けるようになった。自分に理解できないからでなく、とても共感出来て辛くなってしまうから。
ただし俺の青春は、甘くも酸っぱくもない、あのほろ苦いいちごの味だった。