雪降らしの魔女
私が王子として生まれた国には晴れた日がなかった。
いいや、晴れだけではない。曇りも、雨も私の国では見たことがなかった。
雪。そう、私の国では雪がずっとずっと降り続いていた。
王である父が王子だった時も、今はもういない大王だった祖父が王子だった時でさえもその雪は私の国に降り続いていたそうだ。
積もった雪は氷になり、さらにその氷の上に雪は積もる。
氷と雪でできた大地にある私の国は、当然のように貧しかった。
草木は凍り、作物どころか牧草も育たない。
南の国から分けてもらうことでなんとか私の国は成り立っていた。
雪が降り続けていたのは私の国がずっと北にあるのも原因の一つだったが、さらにもう一つ理由があった。
それはこの国よりもさらに北にある、深い深い谷。そこには魔女が住んでいたのだ。
彼女はそれこそ何百年も生き続け、こちらに構うことなく、時には穏やかに、時には激しく雪を降らし続けていた。
だけど、皆は何も言わなかった。
谷に住む魔女はとても恐ろしくて、人を食べてしまうので有名だったからだ。
文句を言いに行って自分が食べられてはたまらない。
だから、皆は我慢をして細々と暮らしていた。
父も、家来も国民もただ黙ってわずかにお金になる藁を編む。私が理由を訊くと首を振り、これが一番利口だと誰もが口を揃えてそう言った。
私は、そう思わなかった。
むしろ、どうして皆が黙っていられるのか不思議だった。
たった一人の魔女のせいでこの国の大勢の人々が苦しんでいる。私はそれだけで胸が痛かった。
私一人が食べられるだけでこの国の皆が助かるのなら。
私はそう考えると居ても立ってもいられずに、皆の反対を押しのけて城を国を飛び出した。
皆が幸せに笑う顔を見たくて、何より暖かな春の風をこの国に吹かせたくて。
私は魔女と刺し違える覚悟だった。
魔女の谷への道のりは遠い。
歩いても歩いても何も変わらない白い大地は私の心を疲れさせた。
空も、周囲もどこも変わらない、白、白、白。
気が狂ってしまいそうに何もなくて平淡な世界だった。
「こんなところに魔女なんて……」
そう呟いた私の声は吹雪く風と雪の唄に消える。
私は一人、ただ歩いていた。
だいぶ歩いたその時だった。
高い笑い声と一緒に辺りが真っ暗になってしまったのだ。
どうしてしまったのだろうと私は辺りを見回す。上も下も右も左も何も分からない黒の世界でただ、女の笑い声だけが響いていた。
声の主は他でもない、雪降らしの魔女だろうと私は思った。
緊張が走ったが、彼女はまだまだ遠くにいるようで、声はぼやけて聴こえていた。
私は急いで声の元へ走る。初めから覚悟は出来ていて、問いかける言葉もそれなりしかなかったから、私はもう、別に彼女に質問することは止めた。
苦しむ私たちを笑う魔女に、私は怒りしか出なかった。
でも、声が近くなるにつれ、私のかける足の速さは段々段々遅くなった。疲れたなんて単純な話ではなくて、心の問題で、怒りが疑問と不安に変わったから。
魔女は笑っていたわけではなくて、大きな声で泣いていた。
人食いと言われた魔女が、大きな声で泣いている?
私は信じられなかった。
しばらく行くとその先に、小さい明かりと人の姿が見えた。近寄ってみると私の考えていた魔女の姿ではなくて、年端もいかない可愛らしい女の子が大きな声で泣いていた。
一体どうして泣いているのか、問いかけようとしたときだった。
彼女の腕に目が止まる。
黒く滲んだアザの中に赤く滲んだ吹き出物が膿を溜めてあちこちに出来ている。
よく見てみれば、その腕も娘のものとは考えづらい、膨れ上がったものだった。
当に悪魔のような腕をもって可愛らしい娘は泣いていたのだ。
彼女の涙は頬を離れる瞬間に崩れて凍る。たちまち雪になった彼女の涙は風に吹かれて私が進んだ道へ向かった。
彼女が泣く度に雪が降っていたのだろう。
「何をしにこんなところまで来たのでしょう?」
気がつき彼女を見てみると、彼女が泣くのをやめてこちらを見ていた。
私は首を横に振り、
「貴女こそ、ここでどうして泣いているのです?」
そう訊ねると彼女はまた泣いて、嗚咽混じりに話始めた。
「私は、ここより南の小さな国で生まれました。
私は決して裕福ではありませんでしたが、優しい両親に恵まれ、暖かな隣人に恵まれ、穏やかな友人に恵まれました。
自分で言うのもなんですが、私の生活はまるで絵にかいたように幸せで毎日がとても楽しいものでした。」
でも、と娘は続けた。
「それが壊れたのは小さな黒い点でした。
黒い黒い小さな点。
私の人差し指にできたそれは、少しチクリといたんだけれど、最初は気に止めるものでもなかったことを覚えています。
でも、それは一瞬で、私から幸せを奪いました。
人差し指にできたそれは光の速さで私の指を飲み込み、そして手のひらを飲み込みました。
膨れ上がった真っ黒な肌にはこのように所々腫れては膿み、痛みました。医者は揃って匙を投げ、これを治すことはできませんでした。
形をみるみる変えた私のては悪魔の化身と皆が恐れ、陰口しました。
穏やかな友人は、私に石を投げました。祖母たちは腕を切ろうとしました。
優しい両親は、簡単に私を捨てました。
雪の降る小さな国より遥か北、何にもないこの黒い場所に、私を置いて、
それから二度と帰ってきませんでした。
私は、いらない子になったのです。
いいえ、それとも最後の優しさだったのでしょうか?
死なせてあげるのが一番だと両親は考えたのでしょうか?
今の私にも分かりません。
いずれにしても悪魔が宿った私の体は、もう、簡単には死ねませんでした。
寒い外で体に雪が積もっても、お腹が減っても、辛くても私は何もない世界で生き続けました。誰も、私を心配する人もいません。
そして、私がいなくなったおかげで皆は幸せになりました。
私一人、残して皆は行ってしまったのです。
それから今まで私は、一人ぼっちで泣きました。
乾いた紫の唇を切らして、血だらけになるほどに。
指があかぎれして凍りつくくらいに氷を抱きしめて、ずっとずっと泣いていました。」
「ずっと、ずっと泣いていたのですか?」
私が聞き返すと彼女は頷いた。
「ええ、ずっと。誰かが来てくれるまで。」
そこまで彼女は言い終わると、また大声を上げて泣き始めた。
泣きすぎてしまった声は掠れ掠れで、まるで獣の鳴き声のよう。
こぼれる涙は頬伝っては雪になり、風に乗って運ばれる。
彼女の体は涙を雪にするくらい、ひどく冷えて凍っていた。
それは予想にしてない境遇な不幸せだった。
私はなんて声をかければいいのか分からなかった
目の前の彼女に触れようと手を上げるも、憚られ、無力に手を下した。
すると、私の手に何かが触れる。
そこには魔女のために用意していた短剣が腰に掛けられた鞘に納まって、静かに出番を待っていた。
長い長い旅路を終えて、久々に私は故郷の土を踏む。
暗い雲からは暖かな光が差し込んで、雪が溶けて出来た水溜まりが国のあちこちに出来ていた。
本の数日前のことなのに、国は見違えるように変わっていた。
雪が止み、春がやってきたのだ。
「王子様が戻ってこられたぞ!」
私の姿を見て、門番は大声を上げて皆に知らせた。
驚きと歓喜の声が湧きあがり、皆なぜか涙ながらに私と握手をしたり、抱きしめたりする。
どうやらあまりにも帰りが遅いので、魔女に食べられてはいまいかと心配していたようだった。
春を与えた勇者として私は盛大に称えられる。
国中がお祭り騒ぎの大騒ぎで、皆幸せそうに笑っていた。
玉座までの赤い絨毯を歩いて、私は王に跪いて労いの言葉を貰った。
「よくぞ、魔女を倒し、国を救ってくれた。」
わしも父として鼻が高いわいと、大きな声で彼も笑う。
私はぼんやりとどこか浮かなかった。ふと見れば窓の外で風に飛ばされた花弁が舞う。
風は今までにないほどに心地が良くて、緑の香りがした。
「いいえ、父上。」
上機嫌に話を弾ませる父を遮って私は言った。
「魔女は、どこにもいませんでした。」
あの日、私は音もたてず、名前も知らない娘を殺した。
不治の病で不幸になったその娘は、悲しさのあまりに冷たくなっていた。
でも、切り離した首から出てきたのは、悪魔と呼ばれたものでもなく、悲しい涙の雪でもなくて、
まるで春のように暖かい、甘い花の香りをさせた風。
「ああ、なんていい香り。」
最後に私が見たあの子の顔は、
木漏れ日のように眩しかった。
今日もどこかで春がやってくる。
目を通して頂き、深く感謝します。