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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
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黒い犬

作者: きぬごま
掲載日:2026/10/28

「一琉(いちる)……一琉だけは、ずっと変わらないでいてね」


 すやすやと寝息を立てる妹に、僕は小さな声で話しかけた。

 もちろん返事はない。それでも僕の声が聞こえているように、一琉は嬉しそうに口元を緩める。


「……にい、ちゃ」

「ここにいるよ」

「えへへ……」


 どんな夢を見ているのかわからない。

 けれどその夢は、今の現実よりも幸せなもの。そうに違いなかった。


 僕の家には父さんがいない。

 前は居たけれど、僕が小学3年の頃に姿を消した。

 あれからもう3年。卒業式の日も、父さんは来なかった。

 母さんの怒鳴り声と暴力は一層酷くなって、今は一琉にまで手をあげる。

 僕はそれが、心底憎い。一琉を傷つける母さんも、それを助けられない僕も。

 昔より背は延びたけれど、平均以下の体つきの僕は、結局大人になんて敵わない。


「もっと力があれば……こんな家から、一琉を守れるのに」


 布団がはだけ、捲れた服の隙間から見える、複数のお腹の青アザが痛々しい。

 一琉を起こさないよう、僕はそっと布団をかけ直した。

 

 母さんは、僕らのことが嫌いなんだろうか。

 ふと小さい頃のことを思い出してみても、母さんの怒っている顔しか浮かんでこない。

 ごみ袋が散乱する狭い部屋で、僕は眠れずに暗い天井を見つめていた。


 ◆


「大丈夫か? 体痛くない?」

「平気。でも兄ちゃんこそ……その顔」


 一琉は心配そうに僕の顔を見上げる。

 母さんに殴られた頬の傷は、昨日よりも腫れて色が変わってきていた。

 ホームルームが始まる前に、保健室でガーゼを貼った方が良さそうだ。

 

「あぁ、これくらい何ともないよ。ほら、早く学校行こ?」

「うん……」


 母さんは一日中ほとんど家から出ない。

 学校から帰ると時々知らない男の人がいて、何故か家を追い出される。

 それは決まった人じゃなく、毎回違う知らない人。

 最近になって、何をしているのかが僕にも少しだけわかってきた。


「……兄ちゃん?」


 アパートの部屋を見つめ立ち止まる僕に、一琉は不思議そうに声をかける。


「ごめん、何でもないよ!」


 僕は適当に誤魔化し、ふざけて一琉のランドセルを押して歩いた。


「わわっ、兄ちゃん押さないでってー! 溝、溝にハマっちゃう!」

「ははは! よっと」

「きゃー」


 両脇を抱えて、体を持ち上げると、一琉は高い声で叫びながら笑っていた。

 どんなに嫌なことがあっても、一琉といれば楽しくて、僕はそれだけで生きていける。

 けれど願うなら、誰にも邪魔をされないところで、一琉と二人で暮らしたい。

 そして、ずっとずっと、一琉に笑っていて欲しい。


 そうだ、この日はちょうど、そんなことを考えていて、授業なんかほとんど耳に入っていなかった。


「えぇ、最近学校の周りで不審者の目撃情報がありました。可能な人はご両親に送迎を頼むように。そうでない人は、なるべく集団で下校してください。通学路には地域の見守りボランティアの方が滞在していますので、過度に不安になる心配はありませんからね」


 帰りのホームルームが終わった頃、何故か教室内はざわついていた。


「不審者ってなんだろうな。露出狂とかかな!?」

「馬鹿、何嬉しそうにしてるのよ」

「だって、ちょっと見てみたいじゃん」


 いつもは足早に帰っていくクラスメイトは、まだ席に着いたまま話を続けている。

 不審者? 物騒だけど、特に気にすることでもない。

 この時代、一人もいない方が逆におかしいくらいだろう。


「笹木くん? 一人で帰るの?」

「うん。どうして?」

「どうしてって……先生が集団で帰りなさいって」

「あぁ、そうなんだ。でも早く帰らないと、妹が待ってるから……それじゃ」


 委員長は心配そうな顔をしていたけれど、僕は気にせず教室を出た。

 本当に不審者がいるとしたら、自分の体よりも一琉の身の安全の方が心配に決まっているから。


 10月31日

 今日は午後から天気が崩れたせいか、もう外は薄暗かった。

 雨はもう止んでいる。

 ひんやりと湿った空気。時々吹く風が、冬が近いことを教えているようだった。 


「一琉、もう帰ってるかな。もしかたら、追い出されていつもの公園にいるかも」


 不審者の話が頭の片隅に引っ掛かり、僕は無意識に小走りで家へと急ぐ。

 その時だった。前方の曲がり角から突然、黒い影が飛び出して来たのは。


「ひっ」


 僕は咄嗟に足を止め、その影を見つめる。

 そこにいたのは、黒い大きな犬だった。


 (大きいな……というか、この辺でこんな飼い犬見たことない)

 

 犬はリードも首輪も着けていない。

 真っ黒で、近所で見たゴールデンレトリーバーよりも遥かに大きい。

 薄汚れた毛並みから、人に飼われているようにも見えなかった。 


「もしかして……野良犬」


 目を逸らさずに後ずさった瞬間、犬は低い唸り声をあげて飛びかかってきた。


「あっ」


 僕は体を動かすことも出来ず、あっという間に視界は真っ黒に、頭には強い衝撃が走る。

 そこからの記憶は一切ない。


 ポタポタと指先から落ちる雫の音で、僕はようやく意識を取り戻していた。


「か……かず……ま」


 目の前に横たわる真っ赤な体。

 腕と足をが変な方に曲がった体。恐怖と苦痛に歪んだ顔。

 汚れた呻きみたいな声は、確かに僕の名前を呼ぶ。


「……かあ、さん?」   


 僕は自分の両手を見た。

 その瞬間に、人間じゃないと思った。

 だって、体は真っ黒で、爪は獣みたいに伸びてていたから。


「何だこれっ……化け物」


 両手は面白いほどに震えが止まらない。

 浅く速くなる呼吸は、自分でも制御できない。

 目の前の母親の惨状など、もう頭にはなかった。


 トンと、後ろで何かが落ちるような音が聞こえた。


 後ろを振り返ると、腰を抜かしてお尻をついた一琉がいた。

 一琉の顔を見た途端、僕は自分の体のことも忘れて近寄っていく。


「いや!! 来ないで!! ば、化け物……化け物!!」


 聞いたことのないような叫び声と、涙と恐怖に歪んだ表情。

 妹へ差し出した僕の手は、行き場をなくしたように宙で止まった。


「助けて……助けてお兄ちゃん! お兄ちゃん!!」  


 (何言ってるんだよ……お兄ちゃんはここにいるだろ?)


 言葉は出なかった。

 その代わりに聞こえたのは、自分の声とは違う獣の唸り声。

 そして一琉は、益々恐怖に怯えてずりずりと後ずさっていく。


 力が欲しかった。

 理不尽な暴力から妹を守って、助け出す力が欲しかった。

 ただ、そう思っていただけなのに。


 僕は、一目散にその場から飛び出した。

 ベランダの窓から飛び降りても、僕の体はほぼ無傷。痛みすら感じない。

 それどころか、重力が無いみたいに体が軽い。

 

 目的もなにもわからないまま、僕は屋根の上を駆けて回った。

 見上げた空は真っ暗で、満月だけが明るく地上を照らしている。


 それは言葉で言い表せないほどに綺麗で、たまらなく胸が締め付けられる。

 僕はその満月に向かって、ただひたすらに遠吠えを繰り返していた。 

  

 一琉は変わってしまった。


 いや……変わってしまったのは、僕の方なんだ。


 

 

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― 新着の感想 ―
お初ですm(__)m なんか、おっかない終わり方の作品ですね。 それだけ作者の力量があるって事かな
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