転生窓口
気がつくと、エヌ氏は白い部屋にいた。
床も壁も天井も、まっ白だった。どこから光がさしているのかわからず、自分の足もとにさえ影がない。かすかに、紙とインクのにおいがした。
遠くのほうで、ポン、ポン、と判を押す音が聞こえる。見ると、白い部屋はどこまでも横に長くつづいていて、同じような事務机がずらりとならんでいた。どの机の前にも、ぼんやりした顔の人間がひとりずつすわっている。
エヌ氏の前にも、机が一つあった。
その向こうに、長い金色の髪をした女がすわっていた。背中には大きな白い羽がはえている。しかし、目には細いふちの眼鏡をかけ、両腕には黒い腕カバーをはめていた。机の上には、書類が山のように積まれている。
「エヌさんですね。どうぞ、おかけください」
女は、役所の窓口の係員のような口調で言った。
「わたしは、この窓口を担当している女神です。まことに残念ですが、あなたは先ほど、お亡くなりになりました。残業帰りの横断歩道で、トラックに」
*
エヌ氏は、しばらくぽかんとしていた。それから、胸がどきどきしてきた。
白い部屋。女神。トラック。毎晩、通勤電車の中でスマートフォンで読んでいた小説と、まったく同じではないか。
「あの、もしかして、これは……」
「はい。異世界への転生です」と女神は言った。「転生先の世界と、特典をひとつお選びいただけます」
エヌ氏は、身を乗りだした。
三十三年の人生だった。朝は満員電車で知らない人の肩に顔を押しつけられ、昼は上司にどなられ、夜は残業のあとでコンビニの弁当をかきこんでねむる。そのくり返しだった。何ひとつ、特別なことは起こらなかった。
それが、いま、ようやく報われるのだ。
「剣と魔法の世界にしてください。わたしは勇者になって、魔王をたおしたい。特典は、だれにも負けない力です。それから、美しい仲間たちと旅をして、世界じゅうの人から感謝されたい」
女神は書類に何か書きこみかけて、ふと手を止めた。そして、眼鏡を指で押しあげると、机のわきから、辞書ほどもあるぶあつい書類のつづりを引っぱりだした。
「エヌさん。前回とほとんど同じご希望ですね」
「前回?」
*
女神は、つづりをめくりながら、淡々と読みあげた。
「前の人生で、あなたは剣と魔法の世界の勇者でした。だれにも負けない力をお持ちでした。十五歳で旅に出て、美しい仲間たちと、数えきれないほどの魔物をたおしました。三十三歳で魔王をたおし、世界じゅうから感謝されました」
聞いているうちに、エヌ氏の頭の奥で、何かがかすかにうずいた。
鉄のよろいの、骨までしみる冷たさ。血と煙のにおい。城のバルコニーから見おろした、地平線までつづく歓声の波。
「ただし、そのあとが大変でした。魔王の残党に毎晩命をねらわれ、食事には三日に一度は毒が入っていました。国王たちはあなたの力をおそれて、たがいに取りあいをはじめました。仲間のうち二人は、あなたをめぐって決闘をし、ひとりが亡くなりました。あなたは剣をにぎったまま、ベッドに入らずに夜を明かすようになりました」
ねむれない夜。窓の外の、かすかな足音。銀の皿の上で、黒く変色したスプーン。
「そして最後は、祝いの宴の席で、感謝のしるしにと国王からさしだされた杯で、亡くなりました」
女神は、つづりの一ページを指さした。
「そのとき、この窓口であなたが出されたご希望が、これです」
そこには、まぎれもない自分の筆跡で、こう書いてあった。インクが、ところどころにじんでいた。
『朝起きて、電車に乗って、仕事をして、家に帰ってねむるだけの、何も起こらない人生をください。だれにも命をねらわれず、だれにも期待されない人生を』
「それで、地球という世界にお送りしたのです。特典は『平凡』でした」
*
エヌ氏は、しばらく言葉が出なかった。
「では……わたしの、あの人生は……」
「はい。かなりの上位特典です」と女神はうなずいた。「三十三年間、一度も魔物におそわれず、毒も盛られず、だれにも命をねらわれなかったでしょう。あれだけ平凡に暮らすのは、なかなかできることではありません」
女神の指が、さらにページをめくっていった。
平和な村の農夫の人生。希望の欄には、ふるえる字で『勇者になりたい』。その前は勇者で、『静かに暮らしたい』。その前は商人で、『冒険がしたい』。その前は冒険者で、『家族と穏やかに』。
ページは、どこまでもつづいていた。どのページにも同じ筆跡で、前の人生とは反対の希望が書きこまれていた。ていねいな字のときもあれば、なぐり書きのときもあった。
エヌ氏は、それを長いあいだ見つめていた。
勇者になれば、また毒の杯で死ぬのだろう。平凡を選べば、また満員電車で勇者を夢見るのだろう。そして三十三年後、またこの机の前にすわって、反対のことを書くのだ。
やがて、エヌ氏は顔をあげた。
「ひとつ、おたずねします。前の人生の記憶を持っていくことは、できますか」
女神は、少しだけ眉をあげた。
「できます。ただし、それが特典になります。力も、平凡も、ほかの特典はつけられません」
「かまいません。行き先は、さっきまでいた世界に。生まれるところから、同じ人生をもう一度」
女神は、しばらくエヌ氏の顔を見ていた。それから、だまって書類に判を押した。
*
三十三歳の春の朝、エヌ氏は満員電車にゆられていた。
知らない人の肩に顔を押しつけられ、まわりの乗客はみな、うんざりした顔をしていた。エヌ氏は、目をとじて、深く息をすった。この車両の中に、自分の命をねらう者はひとりもいない。こんなにたくさんの人に囲まれて、それでもだれも剣を抜かない。
会社では、上司にどなられた。エヌ氏は神妙に頭を下げながら、竜の咆哮を思いだしていた。それにくらべれば、上司の声はずいぶんかわいらしかった。
夜おそく、残業を終えて、コンビニで弁当を買った。公園のベンチで、ひとくちずつ、ゆっくりとかみしめた。毒の入っていない食事は、どうしてこんなにうまいのだろう。
帰り道、横断歩道の前で、エヌ氏は立ちどまった。
信号は青だった。それでもエヌ氏は、右を見て、左を見て、もう一度右を見た。
遠くから、ヘッドライトが近づいてきた。大きなトラックが、信号を無視して、目の前をごうっと走りぬけていった。
エヌ氏は、トラックの赤いテールランプが小さくなるのを見送ってから、ゆっくりと横断歩道をわたった。
その夜、エヌ氏は、朝までぐっすりとねむった。
*
それから五十五年がたった。
白い部屋の机の前で、腕カバーの女神は、ぶあついつづりを広げた。
「エヌさん、お帰りなさい。転生先と、特典をお選びください」
八十八歳のエヌ氏は、しわだらけの顔で、にっこりと笑った。
「前と同じで」
女神はペンを持ったまま、しばらく動かなかった。それから、つづりのいちばん新しいページに、はじめて、前の人生と同じ希望を書きこんだ。




