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地に雪月、欠けるは狼月、空には砕月  作者: 北方修羅院
3章
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3-3 前の名前は忘れてしまった

「銃についてはわかったし、次は特訓だな」

「特訓?」


 ギルド本部を去った二人は、いつも利用している食堂にやってきていた。蜂蜜を塗った白いパンを飲み込んだナギは、訝しげな顔をするユキに続ける。


「そうだ、特訓だ。鍛えないと技は身につかない」

「それはそうだけど……お前が真っ当な事を言うとびっくりするな」

「そうか? それで場所は、海岸がいいだろう。あそこは人が来ないから」

「海岸が? 行ったことはないけど、そんな危険なのか?」


 とくに何かがある場所とは聞いたことがない。いや、逆に危険だからこそ誰も話したがらないし、近づかないのだろうか。そう予想するユキだったが、ナギは首を横に振る。


「いや、何もないな。けど『海には怪物が居るから』って怖がっている」

「怪物……ああ、大陸間にいたっていう奴か」


 ライロから聞いた話を思い出す。何万もの犠牲を出して討伐したという怪物。そんなモノがいた場所には、例え何もなくても近づきたくないのは当然か。


「お陰で魚も貝も蟹も簡単に捕れる。持って帰れば他の子どもも喜ぶしナギも褒められた」


 懐かしむナギをよそに、ユキは改めて考えていた。それは、自分とは何かという曖昧なものだが、哲学的な意味はない。はっきりとした答えがあるはずのもの――過去についてだった。


 何故あの遺跡で寝ていたのか。それまでは何をしていたのか。両親に関する手がかりも一切見つからない。意識すればどんどん深みに嵌ってしまうからと、避けてきた問題だ。しかし、その結果が先程のライロとの会話だとすれば、向き合うべきときが来たのかもしれない。


「ん、どうした? 蜂蜜ほしいか?」


 じっと自分の顔を見つめるユキに、ナギはほとんど無くなった蜂蜜の小皿を差し出す。ユキは違うと言いかけ、残った蜂蜜をパンで拭って口に運ぶ。口の中の苦いものが和らいでいくような気がした。

 

 そうだ、これまでは自分のパーソナリティというものがわからず怖かった。けど、今は違う。少なくとも目の前に居るナギの相棒というパーソナリティがある。寝食を共にする者がいるというのは、孤独を忘れさせてくれた。


「ナギ、ちょっと訊いてもいいか」

「なんだ?」


 しかし、その相棒のことだってまだまだ知らないことが多い。答えの出ない自分のことよりも、一先ずは身近な彼女のことから知っていくべきではないだろうか。


 ユキは、これまでずっと気になっていた疑問を口にする。


「なんで一人称が自分の名前なんだ? そんな齢じゃないだろ」

「ん、なんだそんなことか。忘れないようにだ」

「忘れないようにって……まさか自分の名前を? いや、それは馬鹿すぎるだろ……いくらなんでも自分の名前を忘れるわけがない」


 軽口を返してから、ユキは内省する。忘れるわけがないのに、それでも忘れまいとするのは大切なものだからなのだろう。その可能性を考慮せず揶揄するのは知ろうとする相手に相応しい振る舞いではない。彼女だって怒るだろう。


 だが、ユキの予想に反してナギが浮かべていたのは、困惑の表情だった。自白しようとしたことを先んじて言われててしまったようなバツの悪い顔をする彼女は言う。


「そう言われてもな……実際前の名前は忘れてしまった」


 ペンを家に置いてきてしまった。そう告げるような気軽さで口にされた彼女の言葉の意味を、ユキは理解できなかった。何らかの比喩や勘違いを疑うが、あまりにも簡潔的な言葉がそれを否定する。


「名前を忘れたって……なんだよ、それ……」


 そんなことは普通ならあり得ないはずだ。自分を自分たらしめる重要な記号の一つ。無くしたからもう一度名付ければいいなんて軽いものではない。だというのに、忘れてしまったというなら尋常ならざることが起こったとしか考えられない。ユキは、無意識に震える体を抱くように抑え込んでいた。


「あっちの山――まあ、ここからじゃ見えないけど――そこで暮らしていたのは言ったな」

「あ、ああ……」

「今は無いけど、村があったんだ。3年くらい前まではそこで暮らしていた。毎日ずっと剣を振り回していたんだが、気がつくと誰もいなくなっていたんだ」

「はっ……? な、なんで?」


 意味がわからない。剣を振り回していたら誰もいなくなっていたと言われて、思い至ったのは残った一人が犯人だという帰結だ。ユキの疑念と怯えが混じった視線を感じたのか、ナギは慌てて否定する。


「ナギがやったわけじゃない。ナギだって人を傷つけるのは良くないことくらい知っている」

「そ、そうか……そうだよな。ごめん……」

「気にするな。それで、ナギはそこで暮らし続けていたんだが、そこに暇な妖精が居着いた」

「妖精?」

「ん、知らないのか? 妖精は、これくらいの大きさで背中に羽が生えている。きまぐれで基本的にはろくでなしだ」


 右手の親指と人差指を広げて見せるナギ。約15センチほどの身長で御伽噺に登場するそれとほぼ同一のようだ。


「その妖精は何を?」

「単なる暇つぶしだろう。あちこちをふらふらしてるそういう生き物だ。そいつは、ナギが剣を振り回しているのを見て『ナギ』と勝手に呼ぶようになった。ナギも、一人でいるうちに前の名前を忘れてしまったし、それでいいかと思った」

「それで……ナギ、か」


 見た目からつけられた単純な名前だ。だから、それに倣ったのか。ユキは、自身の白い髪を撫でながら思い返す。


「そして、その妖精もいなくなった。けど、また忘れたら面倒だから忘れないように口にするようにしたんだ」


 偉いだろうと誇らしげに胸を張るナギ。だが、ユキにはそんなことはどうでもよかった。忘れてしまった名前をつけた者がいるはずで、けれどもナギは気がつけば一人だったという。それは、つまり――。


「お前は、両親に……」

「捨てられたんだろうな。たぶん」


 ナギがはっきりと言葉にしたのは、ユキが口にしたくないことだった。ナギを気遣ったというだけではなく、そんなこともあり得ると認めたくなかったのだ。それは、自分の現状を説明するには簡単過ぎる答えだった。必要ないと手放したものをわざわざ探すことなどしないのだから。


 胸の奥でざわめく感情を堪え俯くユキに、ナギは続ける。


「ババァのところに居た子どもは、殆どが捨てられたやつだった。だから、偶にはあることなんじゃないのか?」

「私も、そのうちの一人だと?」


 内に留めるつもりだった叫びは、抑えきれず口をついていた。これまでにない怒りを見せたユキの姿に、ナギは狼狽した表情で後ずさる。その様子と、周囲に向けられた目に気がついたユキは、悪いと小さな声で言って、少し考えてから続ける。


「つらくなかったのか。親がいなくなって……捨てられて」

「いや? もう顔も覚えていないし、ナギもこうして生きているんだから気にしてないな」


 それは、強がりでも自分に対する嘘でもない。問われた本心を偽ることなく答えているだけだ。お茶を啜りながら喋ることが出来るくらい、彼女にとってはなんてことのない話なのだろう。


 私は、どうだ。ユキは、俯き冷めきってしまったコーヒーを見やる。波打った黒い表面から底はまったく見通せない。いつかは苦渋を飲み干せる日が来るのだろうか。そうしたとして、『私』を見つけることは出来るのか。


「ババァのところにいた子どもは、ちゃんとでかくなって仕事もしている」


 俯くユキの耳に、独り言を口にするようなナギの声が届く。


「ナギより年下で、勉強ができるやつもたくさんいた。そして、そんなナギも今は冒険者をやっている」


 ナギの声は、そこで途切れる。躊躇い、迷い、逡巡。言葉を探し続けていた彼女は、唸りながらもそれを紡ぎ出す。


「だから、ユキも大丈夫だ。ユキは、ナギが見てきた中で一番ちゃんとしているやつだから」

「……大抵のやつは、お前よりちゃんとしてそうだけどな」


 顔を上げたユキは、ぎこちなく笑い返す。問題が解決したわけじゃない。それでも、孤独じゃないと知った心は、少しだけ軽くなった。

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