8.9月10日 午前1時
弓彦は気が動転していた。まさか帰り道にバスジャックに遭うとは想定していなかった。
「ちょ、ちょっと、どうなってるのよ!バスジャックなんて聞いてないわよ!」
前江田さんが大声を出した。そもそもバスジャックを想定してバスに乗る人間は流石にいないだろう。運転席の横で、前を見ていた犯人が後ろを振り向いた。
「そこのババァ!うるせーぞ!」
「なによ!ババァって人に向かって!地獄に落ちるわよ!」
「うるせー!」
犯人が前江田さんの前にやってきた。そして刃渡り20センチはあろうかという包丁を前江田さんに突き出した。
「次叫んだらぶっ殺す!」
「ひいいいぃっ!」
前江田さんは顔面蒼白になった。乗客はさっきの停留所で確認したが、10人もいなかったはずだ。犯人は運転席に戻りながら乗客一人一人に語りかけるように言った。
「何か変なことをしたら、お前ら殺すからな!殺して高速道路に放り投げてシカの餌にしてやる!死にたくなかったら言うことを聞け!」
「ひ、ひいいい!!!」
「ここに座れ!!」
「ひいいい!!」
前方で運転手が叫んだのだろうか。犯人は驚くべきことに、運転手を運転席から引きずり出して一般座席に座らせた。運転手は太っていたので若干力が必要そうだったが、すんなりと座席に座ったようだった。
「おいって、運ちゃんいなかったらこのバス…」
弓彦が驚く。しかし、バスは何事もなく高速道路を走っている。何が起こっているのだ?犯人は運転席にあった箱のようなものを指さした。さっき前江田さんが気にしていた箱だ。
「これは俺が発明した自動運転装置・Kシステムだ。運転手なしでも目的地に着く。便利だろう?」
運転手がいなくてもバスは変わらず深夜の高速道路を走っている。あの装置のせいなのか?
「お、お前、こんなことをして何が目的なんだ?」
引きずりだされた運転手がふうふう言いながら呻いた。
「このKシステムの性能を、世に広めるため、動画配信するのだ」
「バスジャックをか?警察が黙っておらんぞ?」
「これはバスジャックではない。ちょっとバスを借りてるだけだ。目的地に着いてKシステムの安全性が確保されれば、乗客は全員解放する。わかったか?」
「そういうのをバスジャックっていうってもんよ」
弓彦がつぶやいた。
「何か言ったか?」
犯人が弓彦の言葉に反応して包丁をぬらりと出した。弓彦は押し黙った。犯人が続ける。
「警察に連絡するなんて無駄なことはやめろ。このバスの中で発信された情報はすべて俺のスマホに入るようにハッキングした。SNSで『バスジャックされた』と呟いてみろ。そいつは高速に放り投げてやる」
動画を配信するが乗客が発信するデータは全部犯人のスマホに集約される。そんなことは可能なのだろうか。
バスは深夜の高速道路を走り続けている。車線変更もスムーズだし、前方車両の速度が遅いと減速する。人間が運転しているのとそん色ない。犯人が開発したKシステムはなかなかのものである。そう思うと、この犯人は凄腕のハッカーなのかもしれない。
動画を撮影しているというが誰が撮っているのだろうか。共犯者がいるのか。弓彦が後ろを振り向くと、初老の男性がスマートフォンで車内を撮っているような姿が見えた。さっき喫煙所でタバコを吸っていた男の隣にいた背の高い男である。
犯人は包丁を持って立ったり座ったり、バスの中をウロウロしている。行動に落ち着きがない。小倉のバスターミナルにこのバスが到着するのは朝の7時である。現在深夜1時。あと残り6時間この地獄を耐えなければならないのか。
「…ちょっと、どうするのよ」
「おいって」
いつの間にか隣に座っていた前江田さんが小声で弓彦に聞いた。
「そんなこと言われたってわからないってもんよ」
「…警察に連絡できないの?」
前江田さんは数珠を持っていた。
「そんなことしたら殺されるってもんよ。さっき言ってたってもんよ。送信したってみんなバレるってもんよ」
「…試しに送ってみてよ」
「おいって、そんなことしたら高速道路に投げ出されて、トラックに轢かれてシカの餌ってもんよ」
「…もうお題目を唱えるしかないわ。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」
「おい、何やってる?」
包丁を持った犯人が立っていた。目が充血している。前江田さんが驚いた。
「南無妙法蓮華…、ひいいい。もう何もしませんもう何もしません」
犯人は無言で去っていった。残り6時間。この地獄をどう耐えればよいのか。弓彦は冷や汗をかいた。