2.9月9日
伊豆弓彦が大阪発小倉行きの夜行バスに乗ったのはまだまだ暑い9月上旬のことだった。出発時間に乗り遅れてしまって、たまたま空いている便に乗ったのだった。乗客は数名しかいない。外国人らしき男が喚いているのが見えた。うちのバイトも中国人だ。国際化がこんなところまで進んでいるのか。そんなことを思った。
ふと、旅に出ようと思った。特に動機はない。
1泊2日で目的もなく行き当たりばったりに大阪の街をふらふらと歩いた。通天閣を見て、串カツを食べて、住吉大社を参拝して、大阪城を眺めて、たこ焼きを食べた。満足な旅行だった。
なぜ旅に出たのか。明確には答えられない。
ひょっとしたら疲れていたのかもしれない。
いや、きっと疲れていたんだ。
喚いていた外国人もおとなしくなったのか。物音が聞こえなくなった。バスにはくたびれたサラリーマンや老夫婦、アフロ頭のファンキーなお兄さん、オタクっぽい男など数名が乗っていた。ガラガラである。
これでは赤字だ、大丈夫なのだろうか。
そんなことを思いながら、窓に映る大阪の夜景を眺めていた。
弓彦は仕事についてから、ゆっくり一人旅をしたことがなかった。県外を出るのは10年ぶりである。それだけ毎日が忙しかったのだった。
弓彦はコンビニの店長である。
北九州市内に3店舗を持つ、大手コンビニチェーンのフランチャイズ加盟店である。母が1号店、弓彦が2号店、妹が3号店の店長となり、父がこれらの店舗のオーナーとして経営を統括する家族経営のコンビニだった。日中はパート従業員に任せ、夕方の16時ごろから勤務に入る。朝7時ごろに荷物がやってくるのを見届け、帰宅する。ドラキュラのような生活だ。休みは月に3回あれば御の字だ。経営者なのできっとそんなものだろう。その休みもほぼ寝るだけで終わってしまう。
そんな毎日に問題が起きたのは2ヶ月前、7月のことだった。
「おはようございますってもんよ」
弓彦はいつも通り日も傾き始めた16時に2号店に出勤した。目の前に県道が走っており、道を挟んで正面には大きな郊外型スーパーが見える。この県道はかなり交通量が多く、上下4車線ある大きな道である。弓彦の勤めるコンビニは下り車線に面しており、上下車線の間には事故防止のための路側帯が設置されている。つまり、弓彦のコンビニには下り車線の車しか入らない。周りには集客が見込まれる集合住宅地や団地などはなく、戸建住宅がまばらにある程度。しかも店の後ろは崖である。崖の上には住宅が見えるが、流石に崖を降りて買い物に来る源義経のような客はいない。隣には24時間営業のゴルフの打ちっぱなしがある。深夜、たまにくたびれたサラリーマン客が買い物に来るぐらいである。
入口から店に入る。店内に客はいなかった。暇そうに立っているバイトの中国人留学生が挨拶をした。
「おはようございます。ご了承ください」
「お客さんいないってもんよ」
「朝からいますけどずっとこんな感じですよ。ご了承ください」
「お客さん少ないと売れなくって困るってもんよ」
弓彦はぐるりと店内を見渡してため息をついた。開店して10年経つがずっとこんな状況である。
「そうですね。先ほどオーナーと3号店の店長が来てますよ。ご了承ください」
「おいって、その『ご了承ください』はいらないってもんよ」
この中国人留学生は、変な日本語を使う。
「もう癖になってしまってるのでご了承ください」
「…それが正しい使い方ってもんよ」
弓彦はレジの裏の事務所に入った。休憩室と毎日の売上の計算をするパソコンが置いてある殺風景な場所である。そこに辛気臭い顔をした妹・由美と、だらりと口を空けた、何も考えてなさそうな父・宏明が座っていた。父はもう70を過ぎている。日中の勤務を母と妹に任せ、ずっと夜勤専従で働いてきた。そろそろ引退を考える年齢である。ゆくゆくは自分が1号店のオーナーになるのであろうと弓彦は考えている。
「おお、弓彦か。ちょっとこれを見てくれ」
父はくしゃくしゃになった2枚のA4の用紙を弓彦に渡した。弓彦の2号店と由美の3号店のここ数年の売上推移がグラフになっている。
「おいって、これなんだってもんよ?」
「本社から届いたんだが、この店が赤字なのはお前でもわかるだろう?」
何年コンビニで働かせているのだ。そんなことは客のいない店内を見ればわかる。
「だから何だってもんよ」
「累積赤字が2店舗合わせて3000万円なんだと」
弘明が由美に用紙を渡した。由美は虚ろな目でそれを眺めた。
「もう閉店よ。閉店」
「おいって、話がよくわからないってもんよ」
弓彦がそう言うと父が珍しく真面目な顔をして言った。
「このまま2店舗を続けて赤字を垂れ流すぐらいなら閉めろって本社の人間が言ってきてるんだが、お前、どうする?」
「おいって……」
「この赤字が4000万、5000万になって、返せるか?10年たったら俺は80だ。流石に夜勤はできんなぁ。俺が死んで全部一人で抱え込める借金か?」
「おいって……」
「閉店よ。閉店」
由美がA4用紙をくしゃくしゃにして投げつけてきた。
「おいって。痛いって」
由美は痛がる兄を虚ろな目で眺めた。弓彦は落ちたA4用紙を拾うと、由美をにらみつけたが、妹は虚ろな目で兄を眺めるだけだった。父がそれを見て言った。
「夢美の3号店は閉店。この店は売りに出す。売れるかどうかはわからんがな。弓彦はどう思う?」
「おいって、店閉めたらどうなるってもんよ?」
「違約金が発生するだろうけど、この店の契約期間は10年だ。来月でちょうど10年になるからこの機会に本部に説明しようと思う」
そうか。もう10年もこの店で働いてきたのか。
「あと3000万の赤字は借金で持ち出しだな」
「持ち出し?」
「この分は俺たちがなんとか1号店の利益で返済していくしかないな。まあ、仕方ないか」
「おいって、父さん辞めたら返済は俺っちたちがやらなきゃいけないってもんよ?」
「そういうことだな」
父はへらへらと笑った。きっと近いうちに引退し、後は自分に任せて逃げるつもりだ。そんな魂胆が見え見えな態度だった。それを由美が虚ろな目で眺めた。
「閉店よ。閉店。売ってすっきりするのよ」
この店を売りに出したとしてこんな赤字店舗を誰が買うというのだ。しかもこのご時世、年中無休24時間営業、天変地異が起きても営業を停止できないコンビニ経営は非常に評判が悪い。
「まあ、そんなわけで俺たちは帰るから」
父と妹は立ち上がった。そして、レジの留学生に話しかけているのが聞こえた。
「おお、史銘陽くんか。今日も暇だなぁ」
「さっきからお客サン誰も来ません。ご了承ください」
「そうかそうか。ご了承くださいは不要だぞ。ははは」
「ご了承ください」
「ははは。それで正解だ!ははは。ああ、今日もいい天気だな」
父は笑いながら去っていった。
弓彦は一人事務所に残って、夢美に投げつけられてくしゃくしゃになったA4用紙を眺めた。赤字で書かれた3000万円が大きく見えた。ああ、だから赤字ってもんよ、そんなことを思いながら、明日の発注作業を始めた。
閉店問題が急展開したのはそれから1ヵ月後のことである。
いつも通り日の傾きかけた16時に弓彦は出勤した。
細身の厚化粧の女性と中国人男性が立っているのが店のガラス越しに見えた。嫌な予感がした。一瞬立ち去ろうと思ったがあきらめて店に入る。
「あら。店長」
「お疲れ様です店長。ご了承ください」
レジには母・喜美子と中国人バイトの史銘陽が立っていた。
「おいって、どうしたってもんよ」
「どうしたもこうしたもあんたが人が足りないから来てくれっていうから来たんでしょう?そしたら史銘陽君いるし。もう3時間もお客さん来ないのに2人でずっと立ってるのよ。こんなことなら家に帰るわ。今からでも」
「店長、シフト作成間違ったようですね。ご了承ください」
史銘陽が笑った。
「もうアタシ帰るわ」
母が更衣室に着替えに入った時、3時間ぶりのお客が入ってきた。スーツ姿の初老の男だった。史銘陽が挨拶した。
「いらっしゃいませご了承ください」
「店長はいますか?」
体格のいい男が話しかけてきた。
「俺っちってもんよ」
弓彦は出勤してきたばかりなのでユニフォームに着替えていない。ヨレヨレのTシャツとジーパンである。
「あなたが店長様ですか。私はこういう者です」
そう言って男は名刺を差し出した。
『株式会社 日本商業バス振興協同組合 理事 桂浜真一郎』
弓彦が名刺を見ていると男が話しかけてきた。
「伊豆店長様ですか?」
「そうだってもんよ」
「弊社、このお店を買収させていただきたいと思っておりまして」
「バイシュウ?」
突然とんでもない話が出てきた。桂浜は続ける。
「ええ。本社様から内々にお話をいただいておりまして」
そういえば店の売却の件を本社に相談すると父は言っていた。
「その旨、先ほどオーナーのお父上ともお話をさせていただいております」
「おいって。じゃあ買収は決定ってもんよ?」
「実はそういうことになるのですが。流石にご子息の伊豆店長に話を通さずに本社とオーナー、私共で決めてしまうのはよろしくないとお父上に叱られまして、こうしてご挨拶に伺った次第です」
そこまで話が進んでいるなら弓彦としては何もいうことはない。ただ、少し気になることがあった。
「いくらで買うってもんよ?」
「500万円で買わせていただきます」
桂浜は金額を提示した。
たしかこの店は2000万円かけて開店したはずだ。それを半額以下の500万円で売り払うとなると割に合わないのだが、このまま赤字を垂れ流す店舗を持っていてもしょうがない。
「おいって。この店、どうして買うってもんよ?」
「どうして?そうですね。それは…ちょっとお答え辛いです…」
桂浜は遠い目をした。諸事情あるのだろうか。
そのとき、着替えの終わった母が更衣室から出てきた。桂浜が聞く。
「御母堂様、1号店の店長ですか?」
「そうだってもんよ」
「あら、背の高い、いい男じゃない」
母は舐め回すかのようにじろじろと桂浜を眺めた。
「私はこれで」
少しいやそうな顔をして桂浜は店を出ていった。母は父と同い年だ。70になるおばあさんに色目を使われては初老の男とはいえ困るだろう。
「あの人、1号店にも来たわ。なんかあちこちのコンビニを買い取ってるみたいね」
「ここ以外もってもんよ?」
「何の目的か知らないけど、そうみたいよ。父さんの知り合いの店も買い取ったみたい」
「店長、ご了承ください」
ずっと黙っていた中国人大学生の史銘陽が尋ねた。
「どうしたってもんよ」
「この店閉店したら私はクビですか?ご了承ください」
「史銘陽くんは1号店で雇うわよ」
母が言った。そんな話になっていたのか。
「ありがとうございます。この店なくなったら働くとこがなくなります。ご了承ください」
「この店の従業員に1号店で働くかちゃんと確認するのよ。アタシ帰るから」
母は去っていった。
弓彦と史銘陽が店に残された。少しは休みが増えるかな、だったら旅行にでも行こうかな、そんなことを弓彦は考えていた。
弓彦は高速バスからぼんやりと車窓を眺めていた。
あれから2か月後、無事に弓彦のコンビニは買収された。今は別の人間が経営しているらしいが、詳しくはよくわからない。引き継ぎもなかった。どこの店もやっていることは同じなので、マニュアルさえあれば誰でも経営できるようになっているのだ。そのあたりは大手コンビニチェーンの強みであるのだろう。
買収価格は500万だった。由美の3号店の撤去費用が500万円かかった。開店する際にかかった2000万円はなんとか返済できたが、赤字の3000万円は埋めることができなかった。結果的に弓彦一家は3000万円の借金を抱えることになったのである。この借金は1号店の売り上げでなんとか返済していかなければならない。
これからのことを考えると頭が痛いが、まあ何とかなるだろう。
弓彦はふと用を足しに席を立った。乗客の目が弓彦に向かう。ただならぬ殺気だったが、弓彦は何も感じなかった。バスの運転席に小型の箱があり、それとスマートフォンを睨みつけている男がいたが、弓彦は気づくはずもなかった。