思考の限界
「はぁ..はぁはぁ.....」
彼は彼女を犯した。彼は彼女で完全に事を終えたので、疲れ切っていた。
(そもそもなんで俺はこんなこと...)
彼は犯され、身も心もボロボロになってしまい、床に倒れていた彼女を見てちぶさにそう思った。
(彼女、殺してしまおうかな...)
実際問題、生きている者を犯すより、死んだものを犯したほうが余計な力を使わないでいいような気さえする。
考えることを努めれば、それが道徳の原理になる。そうパスカルは言っていたが、考えることこそつらいものはないだろう。
考えすぎるのは、もはや病気だと、俺には思えて仕方がない。
人間の思考には限界がある。人間は本当に賢い生き物なんだろうか。人間は原則、自分の見たものしか考えられないじゃないか。
死んだら辺獄に行くとされているが、それだって想像によって作られたものかもしれない。
無駄に考えるだけ考えて、人間はつらいものだ。
この世に神がいないから全てが許される。
(だからこそ、俺は彼女を殺す。)
彼は決心をした。
彼女の首を絞めた。
そして彼女は...死んだ。
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彼女の死体を見て、彼は笑った。
人を殺した罪悪感など彼にはなかった。
あったのは、ただこれから死体を犯せるという無限の快楽が得られるという、喜び。
死体は美しい。
人間は死んで初めて、美しくなる。
理性や意識などは人間のはじまりなんかあじゃない。人間の終わりだ。
トロイヤ戦争だって、事のはじまりは人間を減らすことだったじゃないか。
意識するから、人は恐怖する。意識することが恐怖のはじまりであり、それゆえ人間は自分の幸福を感じられなくなる。人間は恐怖に縛られ、自分を抑制する。
だが逆に人間が自由になれば、苦しむ別の人間は確実に存在するだろう。
全ての人間を救いたいと本当に思うのならば、人間そのものの存在を否定しなければならない。
キリスト教の隣人愛は人間には重すぎるのだ。
罪を認め法廷に出されたとしても、人間は決して裁かれない。それは、国家は人間の善を絶対に裁かないからだ。
人間は必ず、嘘をつく。自分のためなら、必ず嘘をつくのだ。人間は決して更生なんてしない。
法廷に出されなかったとしても、他人を貶めたい。そういう感情は誰しもが持っているのだ。
人間は自由の代わりに、他人を必ず犠牲にしてしまう。
我々の行為は、それを生み出す自由意志の故に我々自身のものであり、しかも我々の意思をしてそれを生み出させる恩寵の故に神のものである。
自由意志なくして、この世における事物は発生しない。
だけど、人間は人間だから不幸なんだ。
俺が生きてきた社会は腐っていた。
欺瞞に満ち溢れていた。
どんな罪を犯して法廷に出されても、嘘をつき許される。
愛がないからこそ、簡単に夫婦は破局し、産まれてきた子供たちは不幸な目にあうしかなかった。
どんな人でも子供を産めば親になれる。それゆえ、我々は必ず不平等になるしかないのだ。
生まれつき、障害を持つものに対しても、国はなにもしてくれない。
人間は人間同士で争い合い、何度も戦争を繰り返す。犠牲になるのはいつも、なにも罪がない子供たちだ。
女は目先の金のために、自分自身を売り、そして他人も騙す。
金のためには人を簡単に蹴落としてしまう。
金は自由の行使だからだ。
事物は自由意志の上に存在するのかもしれないが、自由こそがもっとも人間を不幸にするのだ。
俺の生きてきた世界を見てみろっ!
自由故に我々は不平等になるしかなかったんだ。
イエスは、なぜ石ころをパンに変えなかったんだ。
パン一つで人間は生きられるものじゃないだと。
自由を与えた結果、世界がどうなったのか見てみろよ。
人間に自由はいらない。
考えることさえ、いらない。
パスカルの言う「人間は考える葦」というのは、人間に自由を与え人間を不幸にしてしまう。
なにもない世界こそがもっとも、素晴らしい。
意識することは病気だ。
だからこそ、俺は考えることをやめた。
イデアを人間は決して知覚できない。
だったら、俺はイデアに行く。
俺は...考えることをやめた。
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彼は死んでいる彼女を犯しまくった。
犯したあとで彼は考えた。
意識がなければどう世界を捉えるのだろうか。
観念というのは、意識からきているもの。
なら、他人を理解するには他人が持つ観念を知ればいいんじゃないだろうか。
疑うことは必ず、信じることのあとにくる。
子供はどのように勉強を学んだのだろう。
もしかしたら、信じていたのかもしれない。
彼女はきっと信じていたのだろう。彼のことを
そして、彼は信じられなくなった。
テーゼとアンチテーゼ、人間はこの2種類に分かれるしかないのだ。