第61話 夜の独白
◇◇◇
焚き火の火が、最後の薪を舐めていた。
空は深い紺に沈み、星々がまるで呼吸するように瞬いている。
風が一筋、草を撫でた。淡い香草の匂いが夜に溶けていく。
フィンは眠っていた。
よく知っているはずの、静かな寝顔。
けれど、彼女は見てしまった。彼のこれまでの人生を。
いや——この少年は、本当に彼なのか。
彼女は静かに片目を開いた。
紫の瞳が、夜の底で淡く光る。
「……やはり、いくつもの過去が重なっておる。」
紫の瞳が薄く輝き、過去を映し出す。
見知らぬ女性たちが、彼の隣にいた。
学園都市の──卒業の証をその指に嵌めて。
彼女にはわかる。
ゆっくりとその両目を開き、フィンを見た。
エリュシアの知る彼は、確かにここにいる。
だがそれと同時に、まるで幾つもの “刻” を越えた誰かでもある。
「これではまるで……何度も “生” をやり直しておるようではないか。」
にわかには信じがたい話だ。
けれど彼は先ほど、“見たのか” と問うた。
あの言葉は、この過去が事実であることを静かに肯定していた。
そして彼女自身にも、気づき始めていた変化がある。
“転移魔法陣”を潜り抜けてから、何故か彼をより近くに感じるようになった。
まるで “魂” を共有しているかのような感覚——そして、そこから流れ込んでくる “痛み” も。
「前から不思議なやつじゃとは思っておったが……まさか、ここまでとはの。」
会いたい──会えない。
救いたい──救えない。
愛したい──愛せない。
……ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
赦して。赦して。赦して。
怖い。怖い。怖い。
幾つもの言葉が、彼の過去から溢れ出していた。
優しく風が通り抜ける。
額にかかる前髪が揺れ、光がその頬を撫でた。
その光を見て、エリュシアは思わず手を伸ばす。
触れようとして——指先を止めた。
誰かに似ている。
打ちひしがれ、後悔し、未来へ進むのが怖い。
「ああ、これは……わしなのか。」
彼女は再び右目を閉じた。
紫の瞳に、彼女の過去が映し出される。
◇◇◇
世界樹の根の下。
泉が月を映し、枝葉が風に揺れる。
あの郷の夜は、今よりずっと青かった。
鳥の影が水面をかすめ、蛍の光が地を縫う。
巫女の衣を着た少女が、根の傍らで祈っていた。
エリュシア自身——まだ若木のように、あどけなかった頃。
その前に、弓を持つ青年が立っていた。
背は高く、黒髪を風に揺らしながら、少し照れたように笑っていた。
その笑顔を、何度見送っただろう。
未来を覗くたび、彼は遠ざかっていった。
旅立ち、鎖に繋がれ、老い、やがて消える。
それを止めたかった。
ただ、それだけだった。
夜の中で、彼の手を握りしめた記憶が甦る。
「行かないで。」
その一言で、未来は静かに閉じた。
——時は流れた。
世界樹がまた実をつけ、黄金の林檎が輝きを放つ頃、青年は皺を刻み、白髪を混じらせていた。
彼の肩にかけたマントが、焚き火のように赤く揺れる。
その手に、林檎を渡した。
「これを食べてくれ。“願い” は、叶う。」
それは、永遠を乞う祈りだった。
林檎に歯が立つ。
果汁が月光を弾き、雫が地に落ちる。
次の瞬間、彼の身体が震えた。
苦しげに息を吐き、それでも微笑んだ。
——ようやく、旅立てる。
世界が静まった。
風も止み、葉擦れも途絶えた。
林檎が地に転がり、光を失う。
それは、わしが縛った未来の、代償だった。
星が滲む。
頬を伝う雫が、夜の匂いと混じり合う。
エリュシアは目を閉じた。
「……愛とは、未来を閉じることではないのじゃな。」
焚き火がはぜる音で、意識が戻る。
フィンの寝息が穏やかに続いている。
その頬に、火の粉が一粒、落ちた。
指先でそっと払う。
触れた肌の温かさに、心が微かに震えた。
「……すまぬな。」
夜風が彼女の髪を撫でる。
黒と白の髪が交わり、星の光を受けて淡く揺れた。
「次は、“いま” を見よう。——共に、のう。」
空を見上げる。
星の群れの中で、一筋の光が流れた。
まるで彼の笑みのように柔らかく、
夜空を裂いて消えた。
◇◇◇
ここまでお読みいただきありがとうございます。
本作、シミュラクル!は、大幅リニューアルを行い別立てで新作として投稿し直すこととなりました。
これまでの仲間、掛け合い、大きなストーリーラインはそのままに、描写の磨き上げと幾つかの追加ストーリーを継ぎ足しております。
改稿版は、作者ページから探していただければ幸いです。ここまでお付き合い頂けたからこそ、是非リバージョンしたものも読んでいただきたいです。
約4年間、本当に応援ありがとうございました。




