第29話 不吉の “バグボール”
◇◇◇
セリエとフィンが城塞都市に到着する数日前──夜露の匂いがまだ草いきれの底に残る、郊外の耕作地にて。
薄藍の空が東端からほんのり白むころ、二人の農夫が犂の柄を肩に、胴の詰まった褐毛の牝牛を引いて畦道を進んでいた。黒土は水をよく含み、踏むたびにぬちりと靴底が沈む。道の両側では、風に撫でられた穂波が青みを帯びて揺れ、葉の先からは朝露が珠となって滑り落ちる。
「いんや〜、この分だと今年の収穫量はちょっと例年より少なくなるんじゃねぇべや?」
線の細いほうの農夫が、牛の鼻面を優しく押しやりながらぼやく。額には蓬髪が張り付き、夜明け前の涼しさに混じる冷夏の冷えが骨身に沁みた。
「んだなぁ。今年の冷夏じゃ仕方がねぇけんど、まあ三年前に起きた大干魃ん時ほどじゃねえべ? まあ、その後の二年は嘘みてぇに豊作だったかんなぁ」
恰幅のいいほうが頷き、背負った麦藁籠が軋む。視界一面、穂はまだ軽く、肝心の首垂れが心許ない。本来なら稲架の準備が始まる頃合いだというのに、田はまだ夏の名残の緑に覆われている。
「だけど、そろそろ水を完全に止めて収穫の仕度に入らねえと、いつまでも待ってたんじゃ冬支度もできねえからな。……ただ、うちのカミさんちっと羽振りが良くなり過ぎちまってよ、今から節制思い出させんのはきっついわぁ」
恰幅のいいほうが、帯の結び目をきゅっと締め直して苦笑する。
「……そりゃおめえもでねぇか。しっかしこの二年でよく肥えただなぁ。まぁ、それはそれでええダイエットになるだよ」
二人は顔を見合わせ、わははと破顔。笑い声が田の面に転がって、遠くの水車のギィという音とまじった。
畦の上はまだ薄暗く、転がる小石の角も見分けがつかない。早生の蜻蛉が一匹、先走るように飛んでは葭の茎に止まり、羽を震わせる。
──ぐちゃり。
細い農夫の靴裏に、柔らかい抵抗がまとわりついた。
「ん? なんだ?」
足を持ち上げると、ねっとりとした黄緑色のものが糸を引いて垂れた。鼻を刺すのは金気と腐臭、そこへ混じる獣脂の重い匂い。
「どしたぁ? そりゃおめえの連れてる牛の糞でねぇのか?」
恰幅のいいほうが顎で牝牛を示す。牛は尾をぱたりと一つ振って、鼻輪を鳴らした。
「馬鹿言うんでねぇべさ。後ろにいる牛っ子がどうやってオラの前に糞をするだ。こ〜りゃ何か他の獣の糞だべ?」
「そりゃ違えねぇな。オラ達の村の牛は、まだ他は牛舎の中におったし……いったい、何の糞だべなあ?」
二人が身を屈めた刹那、東の地平から日が顔を出し、畦道に長い影を落とした。斜光が彼らの足元をざっと洗い出す。
そこには──
黄緑の体液に、ぐしゃぐしゃにほぐれた獣毛と黒赤い血が混ざり合い、殻片や脚の棘がごろりごろりと埋もれたどろどろの“塊”がいくつも転がっていた。ところどころで泡が弾け、微細な幼虫が蠢く。
「ひ……ッ!」
細い農夫は悲鳴を呑み、牝牛の綱を手放すや、相棒の袖をわしと掴んで村の方へ一目散に駆け出す。
「おい! あ、あれ……見たべ!?」
「み、みみ見た。間違いねぇ! ありゃ“蟲玉”だ! あんな量、これまで見たことねえぞ!」
恰幅のいいほうも蒼ざめ、脂汗がこめかみを伝う。
「大不作と豊作を繰り返して、この辺りの生態系が狂っちまったんだ……。こりゃとんでもねぇ被害が出るかもわからねえぞ!!」
言葉が終わらぬうち、後方で牝牛がのけぞり、喉の奥から絞り出すような断末魔が響いた。
ン゛モォォオオオオオオー!!
畦の草がばさと割れ、複脚で土を掻くざっざっという音と、甲殻の擦れるシャリという音が重なる。見えないものが群れで動き、泥の上に細かな孔が穿たれていく。
「やべえ! ちくしょう、もっと早く走らねぇか!」
「そんなこと言っても、これが限界なんだよ!」
二人は肺が焼けるほど走り、息も絶え絶えに畑の端を抜け、村落へ続く柳並木の影に飛び込んだ。
◇◇◇城塞都市⦅フィリス⦆・騎士団本部「黒獅子の咆哮」──
黒革張りの高背椅子に身を沈めた男が、卓上の地図板から目を上げた。周辺村落に刺した赤い鋲。流路と堰の位置に走る墨線。壁には黒獅子旗が垂れ、窓格子から午前の光が格子状に床へ落ちる。
「なに、大量の“蟲玉”だと?」
団長の低声が板壁を震わせる。部屋の隅で砂時計が静かに砂を落とした。
「はっ! その通りであります」
報告書を抱えた副官が進み出る。髪は淡褐、顔立ちは整い、制服の真鍮釦はよく磨かれている。
「発見した農夫達によれば、フィリス郊外の農道一面に夥しい数のそれを確認とのこと。加えて──“蟲玉”を目にした直後、彼らは連れていた成牛を置き去りにして退避。程なく断末魔を聞いた由。既に大型の蟲まで発生していると見て相違ございません」
副官は紙面を叩指で整え、息を潜めて上官の指示を待つ。
「……ふむ」
団長は指先で顎鬚を梳き、短く考え込む。硝子壜に入った黒い封蝋が机角に並び、開封された書簡の香が微かに漂う。
「この件はまだフィリスの住民には伝えるな。団内に箝口令を出せ。周辺の農村には収穫期を一月伸ばすよう布告。表向きは冷夏で遅れた登熟を促すためとでも言っておけ。一月以内に我ら“黒獅子”で虫どもを掃滅する」
「はっ! 巡察隊を増員し、火手と燻煙用の樽、香草油を前線倉庫へ前倒しで回します。堰の止水は──」
「堰は夜半のみ。日中は流しておけ。死に水は孵化床になる。……とはいえ、遠村は間に合わぬかもしれん。まずは追加の調査だ。その任務にはお前を当てる。頼んだぞ、キース」
副官は踵を揃え、胸甲の縁が小さく鳴るほどに深く敬礼した。
「はっ!」
踵を返しかけたところで、団長の声がもう一度背に落ちる。
「キース、我が子よ。決して深追いはするな。学園都市を“首席”で卒業したお前の実力はわかっているつもりだが、今回の件は少しばかり危険が過ぎる」
その眼差しには、統率者の厳さと、父の影が同居していた。
若者は肩越しに振り返り、口元に爽やかな笑みを浮かべて前髪を払う。右手の指輪が光を拾った。そこには「98」の刻印──学園都市第98期の卒業証。
「ははっ、分かっていますよ、父上。私とて、自分の力だけで何かを為せるなどと過信はしておりません。ただ──目の前で苦しむ民を放っておけるほど、私の騎士道も堕ちてはおりません。危険を避けてばかりというわけにも、ね」
団長の頬に、わずかな綻びが走る。
「……頼もしい。では、行け」
「はっ!」
扉が重い蝶番で低く鳴り、若者の足音が廊下を遠ざかる。残された静寂の中、団長は黒獅子旗を仰いで一度だけ深く息を吐いた。
「……どうか、この懸念が外れていることを祈る他あるまい。“昆蟲大戦”など、そうそう起きてたまるか」
窓外では、城壁の上を風旗が鳴らし、遠く穂波が再び青く身をくねらせた。




