自由について
本来ならば、『(社会的)責任について』と銘打ちたかったのですが、この題名にした事が、私が世の中に問いたい事であり、大袈裟かも知れませんが、遺書のつもりで書いています。読者のほとんどの方は、社会的にも大人と呼ばれる方がほとんどとは存じますが、内容は物言いは別として、この国の未来を託す子供達の心に留めて欲しいと願っています。
『自由とは何ぞや?』ですが、私なりの見解を述べて行きます。
自由とは、世の中に対して自分なりの考えを練り上げ、推敲し、結果を想像した上で、誰を巻き込む事もなく、行動して行く事で、自分の思想なりを世に示す事です。それを今の人は、自分の思い通りに行動し、誰かに大して迷惑をかけなければ、若しくは責任を取れば(ここで言う責任とは、裁判を受けて、それなりの制裁を受けるなり、刑に服すれば良いと言う考え方の事です)何をしても咎められる事のない、当然の権利だ!と勘違いしているのです。
この事を良く踏まえた上で、これからの文章を読んで頂きたい。
芸能人が不祥事を起こし、謝罪会見をする。→
当たり前です。だって誰かに影響を与える事を飯のタネにしているのだから、社会的責任は、一般人よりも大きくなるんだもの。
一般人が不祥事を起こしたが、ニュースにも取り上げられない。→当たり前です。だってその人の事を知っている人なんてほとんど、いないんだもの。
一般人が社会を揺るがすような事件を起こす。また世間で『社会全体で取り組んで行こう』と言う事と反する事件、事故を起こし、ニュースになる。→当たり前です。だって社会的影響を及ぼす大きな出来事をしてしまったんだもの。
分かるでしょうか?責任の意味が。
自動車の免許を取り、自動車を運転する。免許を持っている人であれば当然の権利です。しかし自動車を運転するのに、免許を持っていれば当然知っているでしょうが、ハンドルを握る人間は責任を持たなければいけない。
なのに、飲酒運転をする、アオリ運転をする、大きくスピード超過する、脇見運転をする、あってはならない事故が後を絶ちません。
アルバイト先で面白可笑しく動画を撮り、投稿する。スリルが味わいたくて、お金を持っているのに万引きをする。その先にいる死ぬほど苦しまなければならない人々がいる事も知らずに…
アルバイト先の、万引き先のお店が、その事で原因で倒産して、自殺するかも知れないのに…
本当にそんな事(それなりの罪を償った事)くらいで責任が果たせていますか?大袈裟に言うと、殺人と同じですよ。
良く言います。『無知は罪だ』と…
法律には、知っていたか、いなかったか?若しくは分かっていたか、いなかったか?により量刑が変わるものもあります。それは知っていたのにも関わらずと言う事なのです。
では、知っていて当然の事を知りませんでした!と言って罪を逃れよう、軽くしようとするのはどうなのでしょう?人の頭の中や心の中の事を立証するのは大変な事です。それを踏まえて知らなかった振りをするのは、責任逃れをしているだけで、もはや大人とも人間とも言えません。
本題に移りましょう。自由とは何なのでしょうか?
私としては自由と言えば"アメリカ合衆国"を思い起こします。何故なのか?ですが、アメリカ大陸と言うもの自体が、かつては先住民であった"インディアン"達の自由の楽園であった訳であり、ヨーロッパ大航海時代に、インドを目指すコロンブスや、新大陸を夢見たアメリゴ・ヴェス・プッチ等により発見され、やがて群雄割拠の時代を迎えていたヨーロッパ人により占領されて行ったのです。
そう言った歴史の中、やがて文化的に低かったアフリカ大陸より、大勢の人間が奴隷として連れて来られ、黒人差別が横行して行ったのです。
そんな中、立ち上がったのが、後に第16代大統領となる"エイブラハム・リンカーン"だった訳です。
リンカーンにより奴隷開放運動が広まりを見せ、アメリカは自由の国の象徴となったのです。
ちなみに自由の女神はこの運動を支援したフランスが、アメリカ独立100周年記念として、リンカーンの死後、20年ほど経って送られた物です。
一方で、我が国はどうなのでしょうか?諸説ありますが、19世紀後半まで、鎖国を行い、一部の諸外国との交易を除いて、外交を断っていたと言う歴史があります。その原因が江戸幕府にあり、我が国の将来を憂いた幕末の志士達により、倒幕が成されました。しかしながら、倒幕を果たした新政府の余りの傲慢なやり方に我慢がならなかった一部の志士達(一般には、土佐藩や佐賀藩の志士と言われています)が立ち上がり、当時の新政府の中核を担っていた、長州藩、薩摩藩の中から、異議を唱えて新政府を離れた西郷 隆盛を担ぎ上げ、西南戦争へと突き進んで行きました。この西南戦争は、日本に於いての最後の内戦となりました。
結局は新政府軍に潰された形になった賊軍ですが、その後も土佐藩士であった板垣 退助も自由民権運動を展開し、暗殺されかけます。その時に板垣が言ったと言われる言葉が「板垣死すとも自由は死せり」でした。
こうやって世界の様々な歴史には、侵略者と自由を求める者との壮絶な戦いが数々行われて来ました。もちろん、書き切れませんので書きませんが…
ただ、私が言いたいのは、敵にしろ味方にしろ皆んなが自由の為に命をかけて戦ったのだと言う事です。
現在の我が国は平和で自由です。しかし本当に先人達が命をかけて作り上げたかった、平和で自由な国が、今現在あるのでしょうか?
私は否と言いたいです。何故ならば、先人達は自分が自由になりたかったから命をかけたのではなく、我が国を、国民達を守る為に戦ったのです。何の根拠があってそう言うのか?と言われる方もおられるでしょう。それならば問います。
「あなたは自分の自由の為だけに命をかけられますか?」
自由と言うのは、誰か自分の大切な人の為に戦う事でしか得れないのです。
今の我が国は『平和で自由な国』なのではなく、『平和ボケしたエテ勝手な愚民が集まる国』なのです。
自分勝手に色々書いて来ましたが、私なりに表現の自由の元に書いて来たつもりです。決してエテ勝手に書いたのではありません。何故ならば、これを書く事によって、私は何も得ていないからです。もしかしたら、この文章を書籍化したいと言う出版社が現れるかも知れません。しかし、その時には、当然このまま出す事はないでしょう。誤字脱字がないか校正を受けて、表現的に適切かどうか、校閲を受けた上で出版されるでしょうから。これはあくまでも、素人作家の戯言集なのです。そんな事は素人と言えど、百も承知です。
それでは皆様、この国が、この世界が平和で平等で誰しもが幸せに感じられる世の中になる事を願って…
岡上 山羊
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