第2話 転入生
足を引きずり通学路で靴を削る。月曜日は神が現代人に与えた原罪の罰である。創世の7日目に休んだ事によって、同時に月曜日も生まれたのだ。呪わしや月曜日。最後の審判の暁には真っ先に地獄に落とされるのは貴様であろう。
そう考える神谷定の聖書知識はアニメ経由に過ぎない。理不尽は大抵無知から生まれいずるものである。
昨晩は散々な目にあった。部屋でパソコンをいじっていたら脳獣が出現。画面を粉砕され刀を折られて 、必死の思いで生還したら隣人にうるさいと文句を言われる。
まあ寝ている間は脳獣は現れないので、必然的に夜更かしを怒られたのではあるが。
寒空の下、刀を買いに行けばまさかまさかの2戦目である。全くついていない。これから夜更かしは止めよう。
これで二桁目の決意を固めつつ、月曜日の朝期講習へと急ぐ。だがどうにも気分が重い。定が脳獣に襲われた報告は学校にも伝わっているはずであって、朝期講習でそのことをネタにされるのはほとんど確定なのだ。
校庭では真面目な連中が学校指定のジャージを着て、脳獣を模した布の塊を運んでいる。
まだ随分と余裕があるはずだが、ご苦労なことだ。そう独りごちて、今日は転入生の紹介があるから10分早く集合しろと言われていたことを思い出し、直ちに教室へと疾駆していった。
「あー、うん。お前らも聞き飽きたと思うが、先生もいい飽きたけど説明せんと怒られるからまあ聞け」
体育教師である担任の軽口に幾つか笑い声が漏れた。
人間が脳獣を発生させる能力を得るのは、個人差はあるが10~15歳の頃である。そこから20代まで出現確率が増えて、中年になると徐々に落ちてくる。
よって小学校の高学年になると学校で脳獣に対する戦闘訓練を受ける。
高校2年にもなるともう6年間はやっているのだ。週の初めになるたび繰り返される対脳獣の心得に少年少女が退屈するのも当然であった。
「脳獣が現れ出したのは約20年前。その前までは脳獣なんて言葉も無かったし、コンビニで刀を売るのは禁止されてた。先生が小学生の頃は脳獣なんて都市伝説扱いだったからな。見えない怪物なんて確認しようがないから仕方なかったんだが」
そう言いながら隣りに置いてあった不気味な縫いぐるみを持ち上げる。樽のような体に、変な方向にねじれた手足。技術は稚拙だが不気味さは良く再現されている。
「で、これが脳獣。脳獣だぞ。笑うなよ!結構頑張って作ったん だから。獣と言っても動物じゃない。人間の能力が創り出した力の固まりみたいなもんだ。だから本人にしか見えないし触れない。しかも何故か襲いかかってくるもんだから、自分で倒すしかないわけだ」
ばんばんと継ぎの入った布袋を叩く。ここの説明を聞くたび、定は何とも言えない気分になる。
他人にとって当たり前の事が自分だけ当てはまらない。自身が特別だと優越を覚えるのも確かだが、年月が経つに連れて不安の方が大きくなっていた。
自分にかかる視線が、異常者を監視しているのではないかと不意に恐怖が湧く。実際は所々にすり傷をこさえた阿呆を好奇の目で眺めているのだと分かってはいるのだが。
「で、どうやって倒すかといえば簡単だ。思いっきり殴るか斬るかしてやれば消える。見た目はとんでもない怪物に見えるけど、結局は自分が創り出したもんだ。落ち着いて戦えば楽に倒せる。寝不足でネットやってる所を襲われたりすれば別だけどな!神野!誰のことかは分かるな!」
押さえられていた笑いが爆発する。憮然とした顔で教師を見つめるが、内心は少しの安心があった。
戦闘訓練というと何やら物騒に聞こえるが、やることといえば素振りとサンドバッグ替わりの縫いぐるみを叩く作業だけである。
脳獣は生まれた瞬間から宿主に飛びかかっていくだけなので、細かい技より反射的に全力の一撃を叩き込むことが必要なのだ。とそうありがたいお言葉を頂戴しても、つまらないし疲れることには変わりない。
教室は新たなクラスメイトがイケメンか美少女かで、普通の子が来て胴元総取りが目に見えたトトカルチョに興じている。
定はそんな不健全な遊びに惑わされない。睡眠の遅れを取り戻そうと机に突っ伏し快眠に励んでいた。
春眠暁を覚えず。日本一有名な寝坊の言い訳を脳裏に泳がせ、意識は春のうららに溶けていく。
何やら先生が話し始めた気配もあるが、あとで誰かに聞けばいい。どうせ当たり障りない歓迎の挨拶に決まってる。
突っ伏した頭のすぐ先で、何かが動く気配があった。人、ではない。前足を机に載せて、反応を窺うように揺れている。まるで犬のような、獣のような。
がば、と顔を上げる目の前には細長く突出した口。並びの良い歯がぬらりと光った。
「うおおおお!?」
絶叫して椅子ごと後ろに倒れる。あり得ない。
脳獣が連続で2度も。 こんな頻繁に出てくるものではないのだ。どんなに多くとも月に1回。普通は年に2、3回しか現れない。なのに昨日の今日で。
そこで気付く。襲いかかってこない。脳獣は現れたら全力で宿主を食い殺そうとし、他のどんな行動もとらない。机の上からじっと見つめるなどという知性は存在しないのだ。
周りを見渡す。呆気に取られた視線が体中を貫通し、青少年の自意識を蜂の巣に変える。
笑い声が教室の大気圧を一分ほど押し上げた。寝呆け眼に浮かんだ脳獣の記憶から逃げ出したと推測したのだろう。
おおよそ間違いではない。机の上からこちらを見下ろす脳獣が、紛れもない本物であることを除けば、だが。
教師は一瞬心配そうに定を見やったが、脳獣が暴れている様子が無いと見てさっさと紹介に戻る。不意に妄想の獣に対して逃げたり攻撃したりすることは、人々が脳内の敵と戦う時代では珍しいことではない。本物か幻か見分けるのは簡単。パントマイムをしていれば偽、見えずとも物理的な影響を及ぼす共演者がいれば真である。
黒板には白チョークででかでかと名前が記してあった。”古戸 凛花”。新参者の氏名であろう。ずぼらな者なら覚えるのに幾ばくか時間を要しそうな、爽やかゆえにパンチの効いていないそうめんのつゆのような名前だというのが定の感想であった。
しかしそんな考えも、教師が躊躇いながら口にした固有名詞によって吹き飛ぶ。おそらくこの教室に生息する全人類が、古戸凛花の四文字を生涯記憶するに違いない。
「あー、みんな。まず初めに言わなければならないことがある。とても大事なことだ。……これから一緒に学ぶことに なる古戸さんは、いわゆる超能力者だ」
絶句。猫背気味に談笑していた女子の背中が竹のように正され、頬杖をついた男子はぽかんと口を開け顎のずれた変顔を披露する。教師が突然オカルトじみたことを言い出したからではない。生徒達の間に畏れの空気が漂う。
超能力者。前時代のエセ科学ではない。どちらかといえば野球選手やスナイパーのような特殊技能を持つ人間とみなされる。しかしその希少性はけた違い。八千万人に一人。日本では公式に一人の存在しか確認されていない。
四半世紀近く前に70億人が目覚めた能力、脳獣の招来は自傷行為にしか役立たない欠陥品であった。だがその能力が解明される途上において例外が発見される。
サイコキネシスト。意識的に脳獣を呼び出し、使役できる存在。不可視の魔物使いである。
「驚くのは分かる。先生もびっくりした。だが超能力者といっても、脳獣を操れることを除けばただの高校生だ。そんなびびることじゃない。仲良く接していればほら、体育館のネットに挟まったバトミントンのシャトルを取ってくれるかもよ?」
努めて明るくした冗談に反応は無かった。ドアの裏に立つ異邦者への忌避を、教師は責めることはしない。ただどこか祈るように招き入れる。
「えー、それでは、古戸さん。入ってください」
大部分の生徒が身構える。超能力といっても扉を爆発させたりは出来ないのだが、未知の存在であることが危機の意識を無用に高めていた。
当然ながら爆音も熱も光も無く、がらりと引き戸が開いた。
肩までかかる髪が、気圧差の影響を感じ取ってなびく。身長体型に特筆すべき点はない。丹念にアイロンがけしたスカートは、校則の規定を守った長さ。良識ある人間だと証明するための努力であるはずだが、ある種偏執的なほどの端正さが、逆に普通からかけ離してしまっている。
強い眼をした少女であった。自身を受け入れきれない空間にまっすぐ切り込む視線。ぱちりとした瞳は鉄筋が入っているかのように動かない。
標準より長い脚で、大股に教壇へと昇ると、深く礼。まるで大名行列のように、生徒達が、教師までも頭を下げる。顔の標高が少女より高いことが罪であるかのようであった。
ただ一人、定が頭を下げなかったのは反抗心からではない。未だ机に居座っている脳獣が誰のものか理解したからだ。
少女、古戸凛花が静かに上体を上げる。長いまつげの影が、額に焼き付きそうな視線。時期が掴めないのか、皆はまだ90度腰を折ったままだ。荒野に二人立ち尽くし、岩の上から見下げられる。
漆黒の瞳が十六夜に陰った。笑っている。見つけた。そう言われた気がした。