43.過去からの足音
エミリオが育ったのは古い町だった。由緒ある歴史があるわけではない。元々ゴミの山だった場所が埋め立てられて、低所得者層の集合住宅に姿を変えただけだ。そんな貧困対策も今となっては昔の話。いくつかの箱が造られ、住人を強制的に移住させて、それで唐突に終わりを迎えた。
当時建てられた集合住宅は長い年月を重ねて至るところで朽ち果ててはいたが、住人たちの涙ぐましい努力によって、何とか崩壊せずに形を保っていた。水道からは赤茶けた錆臭い水が噴き出し、電圧が安定せずに電球は時々明滅を繰り返す。そんな町だった。
父親は小さな雑貨屋を営んでいた。日雇い労働者が多いこの町で、個人経営とは言え一軒の店を構えていることは、かなりのステータスだった。父親は店先で酒を売り、タバコを売り、そして麻薬を売っていた。たまにパトロールで訪れる汚職警官に賄賂さえ渡していれば、家族四人がなんとか暮らしていける程度の収入はあったようだ。
ラクウェルを連れてきたのは一歳年下の妹だった。その頃のラクウェルはがりがりに痩せて小柄だったので、とても妹と同じ歳だとは思わなかった。目だけが大きく常に周囲をうかがうようにせわしなく動いていたことを覚えている。父親の店からくすねてきたチョコレートバーを食べさせると、目を丸くして驚いていた。
幼い頃は素直だった妹が生意気ざかりになって、閉口していたエミリオはどこにでも文句を言わずについてくる小柄な少女を可愛がった。その内にラクウェルとの関係は友達以上、家族未満というペットのような扱いに落ち着いた。
それが恋愛に発展したのは、いつの頃だっただろうか。ラクウェルを取り巻く環境は大きく変わり、今やエミリオが逆立ちしても勝てないような資産家の娘となった。
ラクウェルは食生活が改善されて女性を意識させるような体つきになっていた。エミリオが告白すれば、ラクウェルは有無を言わさず全てを受け入れた。童貞を捨てたのもラクウェルとだった。焦るエミリオを自分の中に導いて、終わった後にコンドームを処理する姿を見て、今度は目を丸くして驚かされる番だった。
その頃のエミリオには夢があった。警官になる夢だ。父親の店に来る汚職警官に憧れたからではない。弱者から金を吸い上げる奴らの鼻を明かしてやろうと思ったのがきっかけだった。だが、警官になるために進学しようとすると、それなりに金が必要だった。
エミリオは夢を諦めた。いくら父親が店を持っていると言っても、この町から抜け出せない程度だ。たかが知れている。住人はこの町に縛られていて、抜け出せるものは極僅かだった。幸運が舞い込まない限りは。
ラクウェルはエミリオを応援すると言った。ラクウェルの父親から金を引き出せば、難しいことではないだろう。しかし、エミリオはその申し出を断った。青臭い考えだが、恋人の父親の金をアテにすることが、関係を汚してしまうように思えたからだった。
ラクウェルはエミリオに従った。ラクウェルが逆らうことなど一度もなかった。エミリオは夢を諦めて、それで終わりの話だった。ラクウェルが金を持ってくるまでは。
エミリオはラクウェルに金の出所を問い詰めた。ラクウェルは恋人に褒めてもらいたくて嬉々として語った。自分の身体を使ってどうやって金を稼いだかを。エミリオは滂沱の涙を流しながら、気が狂わんばかりに叫び声を上げた。ラクウェルは壊れていたのだ、とうの昔に。
エミリオはラクウェルに別れを告げた。ラクウェルは逆らうことはなかったが、一言どうしてと聞いた。エミリオは自分の傷ついた心を継ぎはぎすることで手一杯だった。ラクウェルには冷淡に拒絶することで、その問いに答えた。
その一週間後、エミリオが自宅に帰って来ると、暗い部屋の中でラクウェルが待っていた。一見してひどい精神状態だとわかった。髪はぼさぼさだし、目の下には隈もある。エミリオは自分が傷つけた影響を見つけて少し気が晴れた。
ラクウェルは帰ってきたエミリオを見てすっくと立ち上がった。
「私の身体も、心も、何もかもがエミリオのものなの! エミリオに捨てられたら、私は生きている意味がない……」
隠し持っていた包丁を逆手に持ち、ラクウェルは自分の腹を刺した。
その後は大騒ぎになった。ラクウェルは病院に担ぎ込まれて命を取り留めた。救急病院からそのまま精神病院に移送されて顔を合わせることもなかった。ラクウェルの父親からは口止めを含んだ迷惑料として少なくない金を渡された。結局、ラクウェルが最初に言っていた通りになった皮肉をエミリオは笑いたくなった。そして逃げるように故郷を後にしてエミリオは学園に入ったのだった。
「先輩がエミリオを引きずり落としたんだ! 私はそんなこと認めない!!」
ラクウェルがペンを手に取って胸の前で構えたのを見て、みんなが驚いて動けない中、エミリオには微かな予感があった。ラクウェルが絢斗に気がありそうな態度を見せる理由。
――俺を妬かせたかったのか、ラクウェル?
エミリオは絢斗を押し出すと共に、自分の身体を滑り込ませた。ペンはエミリオの腹を突き破り、おびただしい血を噴出させた。
「エミリオ、エミリオ!! なんで、なんでなの?!」
エミリオは血だらけの手でラクウェルを抱き寄せた。
「そんな顔するな、可愛い顔が台無しだぞ」
「私、私なんてことを……」
狼狽えるラクウェルを落ち着かせようと頭を撫でたが、血だらけの手に髪の毛が絡みついて大変なことになった。
「いいんだ、俺の覚悟が足りなかったんだ。もう、お前のことを離さない。だからバカなことは止めろ」
エミリオは知っている。ラクウェルが自分の言葉に逆らうことはない。
この壊れた関係の結末がどうなるかわからない。だが、寂しそうにたたずむ少女にお菓子を渡したときのように、哀れみからの行動ではない。エミリオはラクウェルへの溢れんばかりの愛おしさを感じて、静かに目を閉じた。




