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猿(ましら)くらべ

作者: 作 Sebastian Salami Rodoriguez 訳 庭野 緑

あの先生の続きが読みたくて

 密偵の伊佐次が、盗賊改方の役宅にある長屋の自室を出てきたのは、特に何か用事があってのことではない。

 昨日まで降っていたみぞれ交じりの雨が上がり、幾分温かくなった風に乗って梅の香りに誘われた気がして、外に出たまでである。

(今日はひとつ、小房の兄いのところでも寄って、いっぺえ、ごちになるか、兄いが都合がわるきゃ、五鉄まで足を伸ばしてもいいや)

と、そこは独り身の気軽さで、気ままなことを考えていると、役宅の裏木戸で一人の男に会った。

 その男、雨引の文五郎である。

 文五郎は、まだ、密偵になってから日も浅く「歳も近いことから、伊佐、ちょっと目を掛けてやってくれよ」と何度か平蔵からも言いつけられている。

 この時、文五郎は伊佐次より三つほどは年長であったが、何分、密偵の中でも古参の部類に入る伊佐次であるから、文五郎も「よろしくこのいぬ(密偵の隠語)を引き回しておくんなさい」などと舌を出し、すぐに打ち解けて二人きりで呑むような中になった。

「おう、文五どん、お役目かい」

 伊佐次の呼びかけに、文五郎はすっと振り返ると、口元に笑みを浮かべた。

「いや、御頭様にご機嫌伺いだよ。何しろ、みぞれが続いたんで、すっかり出不精になちまったから、体ならしに出てきたんだ。伊佐どんはお役目かい」

「いやぁ、こっちも同じよ。買い置きの酒もなくなっちまったんで、ひとつ、小房の兄いにでもお呼ばれしようかと思ってさ」

「お、そいつはいいねぇ」

 と二人して、小房の粂八が営む船宿・嶋屋に向かって歩みだした。

 江戸の街は、降り続いたみぞれの跡はすっかり乾いてしまい、むしろ春の匂いが立ち上ってくるように、暖かかった。

 嶋屋に着くと、果たして、粂八は他行中であった。

 なんでも、浅草の船宿・加賀屋にいる友五郎に会いに行ったらしい。

 その昔、浜崎の友蔵の名で、飯富の勘八親分の右腕とか左腕とか言われた友五郎だけに、諸方に伝手も多く、今も加賀屋で船頭を勤めながら、平蔵のお役に立っている。

伊佐次は「なんなら浜崎のとっつあんにも甘えようじゃねえか」と文五郎を誘い、浅草までの途中で入った蕎麦屋で、文五郎が「御頭様に小遣いをもらったから」と卵焼きを土産に焼いてもらい、加賀屋に着くと、ちょうど友五郎と粂八が船に乗り込もうとしているところであった。

手を振りながら駆け寄った二人に気がついた粂八が「よう、色男が二人でどうなすった」と声を掛けた。

「いやなにってわけじゃねえんですが、たまにはとっつあんの顔で肴にね」

 友五郎は、しゃがれた声で「へっ」と横を向いた。伊佐次の後ろで文五郎が笑っている。

「まあ、みぞれも上がったんで、虫が穴を這い出すように外に出てきたってとこだ。二人も乗りねぇ。いいでしょう、とっつあん」

「勝手にしねぇ」

 二人は、船に飛び乗った。

 すでに、船には料理と酒が運び込まれていた。

 その上に文五郎が買い求めた卵焼きを乗せると、友五郎はゆっくりを船を大川に進めた。

 川面を流れる風は冷たいものの、春の匂いが混ざって、大きく息を吸い込んだ伊佐次の気分も軽やかになってきた。

「なあに、おれもおめえたちと一緒よ」

 ゆっくりと煙草の煙を吐き出した粂八は、伊佐次たちに語りかけた。

「でな、とっつあんに春を見せてもらおうと思ってよ」

「なんでぇ、兄い、春を見るって」

 伊佐次は膝を乗り出した。

「さあ、そいつはとっつあん次第だ」

 粂八の肩越しに、友五郎のとぼけた顔が見える。

「まあ、久しぶりに懐かしい話でもできればと思ってよ」

 粂八は、また、煙管に煙草を詰め火をつけると、大きく煙を吐き出した。

 しばらく、三人が春の匂いを思うままに吸い込みながら、川縁の景色などを眺めていると、船は大川から横にそれ、更に細い掘割に入っていった。

 二度、三度と船は右、左と折れ、すーと止まった。

「おう」

「こいつは」

 三人が、大きく目を見開いた。

 目の前に、小さいがたくさんの花をつけた白梅が、あふれんばかりの梅の香を漂わせていた。

「ここにくるのは丘からじゃ無理さ。なんとかって言う旗本の下屋敷の裏手なのさ」

さすがに船頭をしているだけあって、友五郎はいろいろな名所や迷所を知っている。

「やっと暖かくなろうかってぇのに、こんなに咲き盛ってるなんて」

 そう言うと、おもわず文五郎は立ち上がって船が揺れた。

「おいおい、初めて船に乗った小僧でもあるめえし。さ、粂どん、ここいらでどうでぇ」

「おう、とっつあん、じゃ、始めようかい」

 これを、合図に用意した料理と酒が広げられ、元盗賊たち四人の宴会が始まった。

 始めは梅の香を肴に呑んでいた四人だったが、酒が進むに話は、最近の畜生働きの盗人どもへの文句へ変わっていった。

「しかし、何だな、近頃の盗人どもの芸のねえことといったら」

 粂八が口火を切ると伊佐次もあわせる。

「まったくでぇ。無理矢理押し込んで皆殺したあ、乱暴にもほどが過ぎらあ」

「本当に伊佐どんのいうとおり。盗まれた側が盗まれたことに気づかず、何日も経ってからお上に届け出るぐれいの芸当ができねぇようなら、手なんか出すもんじゃねぇ」

 文五郎が茶碗の酒を煽った後ろで、友五郎が大きくうなづいた。

「あっしなら、そのぐれえの芸当はすぐにもできようもんさ」

 この文五郎の台詞に、粂八と伊佐次が顔を上げた。

「おう、文五どん、あっしならとは。おれたちじゃ無理ってことかい」

 粂八が茶碗を片手に文五郎を睨んだ。

 その茶碗に酒を注ぎながら、伊佐次が続ける。

「おうよ、言っちゃあ悪いが、歳ならおいらが一番若い。そりゃあ、文五どんが足を洗ったのが一番後だと言え、まだまだ、十分動けるぜ」

「いやぁ、二人とも、そんなつもり言ったんではねえ。気に障ったなら許してくれ」

 文五郎は、頭を下げた。

 それを見て、粂八と伊佐次は顔を見合わせて大笑いをした。

「悪かった、文五どん。冗談だよ」

「そうだよ、文五どん、粂兄いもおいらもふざけただけさ」

「おいおい、かんべんしてくれよ、二人とも」

 今度は三人の馬鹿笑いの声が響いた。

「でもね、伊佐どん、そうは言うが、おれだって隙間風と呼ばれた男さ。身のこなしのすばしっこさにかけちゃ、ちょっとは名の知れた男よ。盗人の器量はともかく、身軽さに掛けちゃちょっとやそっとじゃ引けねえぜ」

「おっと、そいつは待った。そりゃ、雨引の文五さんの名は知れ渡ってますよ。でもね、おれも小房の粂八と呼ばれた男だ。元は軽業小屋で綱渡りの芸も売っていたんだ。おれだって身軽さに掛けちゃ」

「いやいや、待っとくれよ、小房の兄いに雨引の。おいらだって朝熊の伊佐次だ。清洲の御城下で味噌問屋に押し入った時にゃ」

 三人はそれぞれに、己の身が如何にすばしっこいかを言い始めた。

 友五郎は、それを眺めて笑っている。

 そのうち、一人が「おれは六尺の屋根にも飛びつける」と言えば「おれは七尺」「おれは八尺」と言い始め、とうとうその高さが三十、四十となった時に、堪らずに噴出した友五郎が、顔を真っ赤にしている三人に言った。

「なら、やってみればいいじゃねぇか」

 三人がいっせいに友五郎に向いた。

「やるって、なにをやるんだ、とっつあん」

「おいおい、粂どん。なにも鼻からそんなに熱い息を吐かねぇでも。三人とも自信があるなら、その技を競ってみればいい」

「お盗めのかい」

「馬鹿を言ってはいけねぇよ、伊佐どん。そんなことをしてはすぐに長谷川様のお縄にかかっちまう」

「じゃぁ、何を」

「そこよ、文五どん。三人が三人とも身軽さに掛けちゃ右に出るものはいねぇと言ってるんだから、その技を競ってみねぇ。どっかの屋根に飛びつくとかしてよ」

「どっかにそんな場所があるけぇ」

「おう、あるとも粂どん。本所から深川に抜けた先にな、潰れちまった屋敷があると思いねぇ」

「ほう」

「で、その塀がな、そうさなぁ、一町はあろうよ。ところがちょうど道が崩れちまって、こっちの端では道から四尺くれえなんだが、反対の端では十尺は超えようって高さなのよ。だから、こっちの端から飛びつき始めて、どこまで飛びつけるかやってみなさるがいい」

「へえ、そいつはおもしれぇ」

「やろう、やろう」

「すぐにでも行くかい」

「いけねぇよ、伊佐どん。おれは、今日の夕方には船頭の仕事が入ってるんだ。また、今度だな」

 そう言うと、友五郎は茶碗を呷った。

 粂八は、その茶碗に酒を注ぎながら、「面白いじゃねえか、なあ」と若い二人を見回した。


 その日は、なんだかんだと己の技を自慢しながら呑んだ三人だったが、身軽さ勝負はすぐに実現はしなかった。

 三人が早咲きの梅の下で宴会を催した翌日、日本橋小網町の薬屋・鎌形清兵衛方に賊が押し入り、主人夫婦、番頭から小僧まで八人を惨殺して、金八十二両を強奪して逃げた。まさに急ぎばたらきの典型であったが、この賊、この家の一人娘と手代のひとりに止めを刺しておらず、また、この二人はそれぞれ浅手を隠して死んだ振りをしていたため、助かっていた。

 この二人から一味が五人であり、一人娘が息を殺して聞き及んだところによると、頭は「竜虎のお頭」と呼ばれていることなどが分かった。また、「千住のなにがし」との地名も手代が聞き取っていて、与力の天野甚助が同心、密偵を引き連れてすぐに千住宿に向かった。

 こうなれば盗賊改方の探索は直ちに進められ、三日ほど後に、千住宿はずれの百姓家を改造した賭場で、酔っ払って女郎の股座に顔を突っ込んで眠りこけていた竜虎の三太郎とその一味が捕らえられた。

 これには、伊佐次と文五郎の働きが大きかった。

 はじめ千住宿に散った盗賊改方は、宿や居酒屋、賭場などで聞き込みを続けたが、「すでにどこぞへ逃げ落ちているに違いない」との思いが払拭できなかった。

 江戸の街であのような惨たらしい事件を起こしても、当時はまだ、新聞もテレビもない時代のことだから、人の口々に事件が伝わるまでは時間がかかる。

 逃げる側としては、その噂話が追いつく前に、話の届かぬ土地まで逃げてしまうことが、必定だからだ。

 しかし、伊佐次と文五郎が、互いに聞き込んだことを確認しあうために、また、一日中足を棒にして歩き回った体に、一杯の酒を流し込むために入った居酒屋で、思わぬ拾い物をしたのだった。

 二人は店に隅の、しかし、出入り口が一目で届く席に腰を下ろし、額を寄せ合ってひそひそと口を聞いていた。

 すると、派手な半纏を肩に掛けた、いかにも遊び人の三人連れが入ってきた。

「なんだな、あの賭場も人目がつかずいいところだったんだが、あんなのが居座っちゃ」

「まったく落ち着いて遊べやしねえ。大金をばら撒いて威張り腐りやがって」

「なにが竜虎だぁ」

 伊佐次と文五郎の表情が固まった。

 三人連れの酒量が増える頃を見計らい、二人は言葉巧みに賭場の場所を聞き出すと、天野与力と連絡を取った。宿場役人にも夜のうちに手配りし人手を出してもらって、翌朝、まだ暗いうちに、天野以下二十二人の同心や捕り方たちが踏み込んだ。

 一味は酔っ払って眠り呆けてい、捕り方にもろくに歯向かうこともできずに、一網打尽にされた。


 「竜虎の三太郎」一味が捕らえられてひと月たち、伊佐次と文五郎は平蔵の呼び出しを受けた。

「そんなところに畏まっていないで、こちらに上がりなさい」

 庭先で頭を下げていた二人に、久栄が手ずから茶を運び、声を掛けた。

「いやぁ」

「あっしたちはこちらで十分で」

「そう言うな。話が遠いじゃねえか」

 平蔵が、昔の本所の頃のような鉄火な口調で言ったのを、文五郎が目を剥いたのは、まだ、付き合いが短いことから無理のないことであろうが、長年、平蔵のために命を張っている伊佐次も、慣れることはなかった。

 二人は渋々、縁側の端に腰掛けた。

「この度は、二人ともご苦労だったな。まあ、やってくれ」

「へい」

 二人が、茶碗に手を伸ばすと、中身は茶でなく冷酒で満たしてあった。

「のう。うちの奥方様は気の利くことよ」

 立ち去ってく久栄の後姿に掛けた平蔵の笑い声に、引きつった笑いを顔に張り付かせた伊佐次が口を開いた。

「あ、あのう、竜虎の一味の、お調べはお済みになられたんで」

「おう。今日、小伝馬町へ送ったよ。近頃はああいった手合いが増えて困るのう」

 平蔵は愛用の湯飲みを口に運び、取調べで分かったことを話し始めた。

 竜虎の三太郎こと、高塚三太郎は、元は奥州のきこりの出で、腕っ節が強かったことから、福島の剣術道場の高塚何某もとで修行をした。上達も早かったことから高塚の信頼を受け養子となったが、そのうちに己の手練に慢心を抱き道場へも寄り付かず、諸方で暴れまわるにいたり、破門となった。

 その時、三太郎は「こんな田舎剣術道場は、こっちから願い下げだ」と息巻いたと言う。

 その後、奥州から常陸、下野あたりまでをぶらつきながら、その腕力にものを言わせ、土地土地で強請や盗みを繰り返しながら、荒くれの無頼者を手なずけ手下に加え、五人ほど集まったところで「竜虎の三太郎」一味を旗揚げした。

「いっちょう盗賊改の鼻を明かしてやろうかい」

と江戸へ出てきたのが、鎌形清兵衛方へ押し込んだ五日前のことであった。

 本来であれば、直ちに常陸なり下野なりの隠れ家に逃げ帰ればいいものを、千住あたりで飲み潰れていたのは、盗賊改方を舐めきってのことであり、また、盗賊としては二流以下であることの証であった。

 件の賭場にて盗み金で、やれ女だ、やれ酒だ、料理だと大盤振る舞いを重ね、はじめは「親分、親分」と持ち上げていた賭場のものたちも、「なんでえ、あの田舎もんはよ」と裏で舌を出しつつ、持てあますようになっていたという。

 取調べで、薬屋鎌形清兵衛へ押し込んだ理由を問われた三太郎は、江戸の街のにぎやかさに気後れし、おろおろと通りを歩くうちに、手下の者たちに、その胸のうちを悟られまいと、手っ取り早く目に入った鎌形清兵衛へ押し込んだものと、判明した。

「何より二人の聞き込みのおかげでこんなに早くに下手人を捕らえることができた」

 平蔵は立ち上がると手文庫から白い包みを取り出し、二人の前に放った。

「少くねぇが、取っといてくれ。」

「いけません」

「御頭様」

「たまにゃ、お白粉臭いのでも抱いて憂さを晴らしてくれ。わしも十も若ければ、一緒に出かけたいところだがな」

「どちらへお出かけですか」

 久栄が、小鉢を持って戻ってきた。

「いや、なに。あはははは」


 その二日後、長谷川平蔵は、剣友・岸井左馬之助を伴って、本所にあった高杉道場に向かっていた。二人が青春の日々を剣術と酒と女に打ち込んだのがここ本所である。おふさにまつわる淡い恋の思い出は、「本所・桜屋敷」の巻に記したとおりである。

 着流しの平蔵は、途中で白鳥に酒を詰めさせると、肩に背負い、ぶらぶらと高杉道場に歩を進めた。

「こうして歩いていると、若いころを思い出すなあ。暖かくなったね、平蔵さん」

 左馬之助は袴を着け、両手を懐にいれて歩いていた。

「ああ、すっかり春になった。もう俺は冬の寒さも夏の暑さも堪らんよ。この時期が一番よい」

「それだけ、歳を食ったってことですな」

 などど話しながらも、二人きりで歩んでいくことが、幾分か気を若やいだものにしていた。

 高杉道場の隣には、おふさのいた屋敷が主もないままに残っており、今も大きな桜を咲かせている。

 今日は、その桜を見ながら酒でも飲もうかと出てきたのである。

 さて、次の角を曲がれば、高杉道場かというところで、平蔵は足を止めた。

「どうした、平蔵さん・・・」と問いかける左馬之助の口を制し、軒下に身を寄せた。

 見知った顔が、高杉道場に向かって歩いているのを見たのである。

 にやりと笑った平蔵が、左馬之助に「黙って着いて来い」と手で合図した。


 密偵の友五郎を先頭に、粂八、伊佐次、文五郎の四人は、それぞれに、酒の入った徳利や料理の詰まった重箱を提げて、本所の裏通りを急いでいた。

「おう、こいつは見事だ」

 友五郎が、ここだ、と案内した屋敷跡には、大きな桜が咲き誇っていた。

「さすがはとっつあんだ。いいところを知っていなさるね」

 三人が、荷物を崩れかけた屋敷の濡れ縁に降ろし、桜の木を見上げて、口々に褒めていると、こっちだ、と友五郎が呼ぶ。

 屋敷の外に回ると、一町ほど先の塀の上から桜の大きな枝が張り出している。

 そして、その下にあるところどころ崩れかかった塀は、確かにこちら側では、地面からの高さは四尺ほどしかないが、先に行くにつれ道が崩れていて、一町ほど行った桜の枝の下では、高さが十尺ほどもあった。

 四人は、一番高さのあるところ迄行き、それぞれに高さや足場などを確かめながら、塀の内側に戻ってきた。

「で、どうやるんです」

 伊佐次が、肩をぐるぐると回しながら、言った。

「そうだな。まずはこちらの低い側から飛びつき始めて、出来たなら、少しずつ高けえほうへずれて行っちゃどうだい。最後まで飛びつけたやつが勝ちってことだ」

 粂八が、膝を曲げたり伸ばしたりしながら言った。

「そいつはいい」

 文五郎は、着物の裾を端折り始めた。

「でな、兄い。一番になったやつには、こいつをご進呈さしあげようと」

 伊佐次が懐から、先だって平蔵から受け取った紙包みを取り出した。

「なんでぇ」

「この間、長谷川様からいただいたご褒美よ。文五どんと二人して頂いたが、こんなもんが合ったほうが張り合いが出るだろう」

 文五郎が頷いた。

「味なまねを。だからといって手加減はしねえぜ」

「当たり前よ。この三人の中で誰が一番身が軽いかの腕だめし。兄いたちとは言え、俺だって負ける気はしねぇ」

「俺だって同じよ」

 文五郎も顔が紅潮している。

「とっつあん、しっかり見届けてくれよ。じゃあ、俺から行くぜ」

 粂八が、そう言うと、にやにや笑っていた友五郎のしゃがれた声が聞こえた。

「待ちなよ、粂さん。お前さんたちが塀の外側に行っちまったら、どこから飛びついたかなんて見えやしねぇ」

「だったらとっつあんも、こっちに来なさるといい」

「いいや、待ってくれよ。こちら側からでも良く見える所があらあ」

と言うと、友五郎は屋敷の角で咲き誇っている桜の木の下に近寄ると、よいさ、と声を発して、三尺ほど高さにある桜の木の瘤に右足を掛け、塀の上に左足を掛け、右手で桜の太い枝を掴むと体をくるっ、くるっと回して、地面から十二尺もあろうかと言う枝のひとつに腰掛けた。

 七十を超えたであろう老人の身のこなしとは思えない早業である。

 粂八、伊佐次、文五郎の三人は、あっけに取られて、友五郎を見上げている。

「どうしてぇ、お三人。こんな爺に出来ることだ。小房の、隙間風のと異名をとるお前さんたちにゃ訳のないことだ。早くおやんなさい」

 友五郎は、桜の枝を揺すって、子供のようにはしゃいで言った。

「あははは」

 口を開けてぽかんとした顔をしていた三人と勝ち誇った友五郎が、ぎょっとして笑い声のするほうに振り返った。

 徳利や重箱を置いた濡れ縁に、平蔵と左馬之助が笑っている。

 平蔵は、濡れ縁の端を、二、三度払ってから腰掛け言った。

「話は聞こえてしまったわ。とっつあんの身のこなしの軽さには驚いたが、これで当分はお迎えの心配をしなくてもよいうのう。なあ、とっつあん、その桜には、俺も左馬之助もたくさんの思い出が詰まっているんだ。枝を折ったりしないでくれよ。さあ、早く花見と洒落込もうじゃねえか。お、弁当もあるじゃねえか。あは、あは、あははは」

なんとか記録に残せればと

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