夏の桜
真夏の青空に浮かぶ白雲が、風に流されて、向かいの山々に動く影を作っている。
その景色を、あきこはいつものように家の縁側に寝転がり、アイスを食べながら眺めていた。
青く青い空。濃い陰影を作る夏雲。緑生い茂る山々……
縁側から見える夏の景色が、あきこはとても好きだ。
毎日おなじように見えて、微妙に違っている風景は、見ているだけでなんだか楽しくなる。
「……まぁ、たまに飽きるけどさ……」
あきこはひとり呟いた。
*
面積だけは広いY市。
そのY市“北部”にある山間部……ひとことで言うなら『ド田舎』と呼ばれる地域に、あきこは家族とともに暮らしている。
わざわざ“北部”と言ったのは、Y市は北部と南部では、なにもかもが違うからだ。
南部はそこそこ開けていて、田舎なら必ずあるだろう大手スーパーはもちろん、有名なチェーン店もいくつかある。
電車だって通っている。
中都市ですらないものの、暮らすのに不便はない。
しかし、そこから北上すればするほど、民家や平地は減り、その代わりに山が、緑が、2倍どころか2乗の勢いで増えていく。
電車はもちろん通っておらず、公共交通機関はバスのみ。
国道は山間を縫うように走っていて、直線の道は滅多にない。
平地が少なく、あっても山と川の間に少しある程度……という場所であるから、ほとんどの民家は山の斜面に建っている。
もちろん、その北部にあるあきこの家もそうだ。
しかし、山のすそ――ではなく。
決して小さくはない山の中腹、国道が見下ろせる(・・・・・)場所に建っている。
飛ぶ鳥の背を見下ろすこともある――と言えば、あきこがどんな場所に暮らしているか、わかってもらえるだろうか。
まぁ、要するに、あきこはド田舎、過疎地、僻地……いろんな呼び方をされる地域に暮らしているということだ。
気軽に買い物に行けない、通学が大変、坂の上り下りが嫌になる……文句を言い出したらきりがない。
しかし、
(見晴らしだけは良いんだよね……)
本当に、景色だけは良いのだ。
あきこの家の縁側から見える山は一つではなく、こちらの山よりも高い山がいくつも重なって見えている。
もちろん“未開”で、民家はもちろん道路も鉄塔もなく、向かいの山は、さながら緑のスクリーンだ。
――平地で見るよりも近い雲が、風に流されてその深緑の表面に動く影を作る。
あきこは、雲と、その下の影がのんびり流れていく様子を眺めるのが、とても好きだ。
だから季節が良くなると、あきこはよく家の縁側に――いちばん見晴らしの良い場所にいる。そこに座って景色を眺めたり、眺めなくても寝転がって漫画を読んだり、昼寝をしたり。勉強したり。
近所には田舎ならたいていあるはずの大手スーパーすらなく、そのスーパーにまともに(・・・・)行こうとすれば車で45分ほどかかる。
ついでに言えば、南部にある高校まではバスで1時間ほど。往復を考えると2時間を超える。
クラスメートには“山奥から来ている”と思われている(間違いではないけれど、なんだか癪に障るのだ)。
夏休みのいま、フットワークがもともと軽い方ではないあきこは山を下りる気にもならない。
なんでこんな田舎に、と文句を言いたくなるときもある。実際に言うときもある。
ちょっと惨めな思いをすることもある。
落ち込んだり、八つ当たりしたくなるときもある。
それでも、季節によって表情を変えるこの景色を見ていると、あきこは、ま、いいか、と思うのだ。
春は山のあちこちに山桜が咲いて、山の一部が薄紅色に変わる。
夏は広葉樹が生い茂り、あたりは驚くほど鮮やかな緑色に染まる。
秋は葉が紅くなったり黄色くなったりして、山に濃淡をつくる。
冬の山は寂しいけれど、山の木々が雪で覆われたときのあの美しさは何年見ても見飽きることがない。
――山も生きている。
心からそう実感するのだ。
自然は美しい、とても……愛しい、と。
そして、そんなことを考えていると、たまに、
『山の神さま、いつもおおきに。ありがとう。これからもみんなを頼んます』
この景色を眺め、パンパンと両手を叩いて合わせていた祖父のことを思い出す。
――『なぁ、あきちゃん。いろんなもんに神さまは宿るんやで』
あきこの父方の祖父は、昔、よくそう言っていた。
父方の祖父母の家は関西で、そう頻繁に会うことはなかったけれど、夏休みや連休にはよく遊んでもらった。
そのときに、祖父はよくそう言っていたのだ。
土、空、山、川、草、花……ありとあらゆるものに、神さまはいるらしい。
――森羅万象、あらゆるものに神は宿る。
神道の教えらしいが、詳しいことなどあきこは知らない。そこまで興味がないから。
あきこの祖父も特に何かを奉ったり、信心深い人というわけではなかったようだが、『いろんなところに神さまがいる』ということは信じていたようだ。
たまにこの家に遊びに来た時、祖父はいまのあきこのように縁側に座って景色を眺め、「尊い景色や。山の神さま、これからもみんなを守ったってください」と拝んでいた。
その様子を、幼いあきこは不思議そうに見ていたのだろう。
『なぁ、あきちゃん。いろんなもんに神さまは宿るんやで』
祖父は笑ってそう教えてくれた。
そして、神さまは山や川だけでなく、家や玄関、台所、トイレ、細かく言えば、お箸やお茶碗にもいる、と。
あきこはいまでも祖父と交わした会話を覚えている。
『だからな、ものは大事にせなあかんで。それに、たとえばや、あきちゃん。自分のもん――特に大事にしとる宝物、誰かに壊されたらごっつう腹立たんか? 悲しないか? 自分だけやない、父ちゃん母ちゃん、姉ちゃんらの大事なもん、誰かに無茶苦茶にされたらどない思う?』
『おこるー! あのねーおじいちゃん。このまえ、おとーさん、よっぱらって、おかーさんのだいじなおさら(・・・)わってすんごく――』
『せいぃぃぃぃおまえちょっとこっち来んかい!!』
(あ、これじゃなかった)
『まぁ、形あるもん、いつかは消えてなくなるんやけどな。大事にしとっても、不注意で無くしたり、壊してもうたりする。……でもな、出来る限り、なんでも大事に使たってな。使えるもん、簡単にポイポイ捨てたらあかんで。知っとるか、あきちゃん。自然や家だけじゃなくてな、古いもん、長いこと大事に使とるもんにも、神さまが宿るんやで』
――神さまを悲しませたり、怒らせたりしたらあかんで。なんでも大事にしぃな。
祖父がなぜそう思っているのか――思うようになったのかは――知らない。
父の醒は、「親父は戦争を……なんにもなかった時代を越してきてるからな。なんにもない辛さは身に染みてるんや。俺も子供のころ、ものは大事にせぇって、いーっつも言われた」と言っていたから、祖父の言葉はそこが原点なのかもしれない。
ただ、詳しいことはわからない。
聞こうと思っても、もう聞くことができないのだ。
……祖父は、あきこが小学生の時に亡くなったから。
しかし、祖父との記憶は、薄れながらもあきこの中にちゃんとあって、あきこが高校生になったいまでも、彼女のなかに根付いている。
(……でもさ、おじいちゃん)
あきこはアイスを頬張りながら呟いた。
「いまの時代には合わないんだよね。イマドキ、なんでも大事に仕舞ってる人なんか少ないって。使わなきゃホコリかぶるだけだし、ほんとに使うかなんてわかんないし。
今ってさ、使い捨て上等、刹那主義万歳、その場限りでなにが悪い、みたいなかんじでしょ。
直せば使えるって言っても、手間だってかかるし。買った方が安くつくことだってあるし。見かけすんごく悪くなるし――って、吉鷹」
あきこはそこまで言って、体を起こした。
いつのまにか庭先に、微妙な表情をしたジーパンにTシャツ姿の青年……吉鷹がいたのだ。
「おまえ、この前、ズボン引っ掛けて破ったって、継ぎ当てしてたよな?」
「なんでそういうとこ見てるかな!」
「指に思いっきり針ぶっ刺して――」
「そこまで見てたの!? というか、知らない! 私、吉鷹が見てたの知らないんだけど!」
「あまりにも真剣な顔して裁縫やってたから帰ったんだ」
「ふつう帰るかな!? 気遣われる方がつらいって! というか、あれは家着! 気に入ってたズボンだから! 外出着は格好悪すぎてそんなことしないから!!」
「そうしたほうがいい。おまえ裁縫不得意だもんな。いつだったか、入口のない袋作ってたときはどうしようかと――」
「あれは中学生の時! あれからは進歩してる!! ……というか、ちょっと待って。吉鷹なに持ってるの? トマト?」
あきこは目を剥いて叫んだあと、吉鷹が片手にナイロン袋を持ってるのに気付き――中には、どう見てもトマトが入っていた――首を傾げた。
「あぁ、“おそなえもの”だ。いるか?」
「アイス食べてるときにトマトはキツイよ」
「それもそうか」
吉鷹は頷き、あきこの隣に腰かけた。……すでに、彼の手にトマトはすでにない。
あきこはそれに気にすることなく、ミニタオルで汗をぬぐいつつ、ちょうど食べ終えアイスの棒を吉鷹に向けた。
「先に言うけど、宿題がまだまだ残ってるから遊べないからね」
あきこは自分の周囲に視線を向けた。そこには、夏休みの宿題が――英語、数学、化学…高校の教科書とノートが散乱している。
あきこは、それらの戦いに敗れてやさぐれていたところなのだ。
「吉鷹、手伝ってくれる?」
「手伝ってやりたいのは山々なんだけどな。そうじゃない。――なぁ、あき。ちょっとだけ付き合ってくれよ」
いつになく晴れやかな笑顔の吉鷹に、あきこは直感した。
「まさか……」
「ご明察。ちょっとばかし付き合ってくれよ」
「待っ――」
「それ行くぞ」
吉鷹はあきこの手を掴んで無理矢理立たせ、その場で引き戸を開ける仕草をした。横にがらっと。
そして、あきこの手を引っ張ったままその中に“入る”。
――途端、二人の姿が消えた。
*
あきこが連れて行かれたのは、どこかの小山のふもとだった。
民家や畑はまばらにあるものの、他はほとんど手入れがされておらず、夏の今、雑草が見事に繁殖している。
聞けば、あきこが暮らすY市の東のはずれらしい。
「あき、この辺りは来たことあるか?」
「全然知らない。東の方って滅多に来ないし」
あきこは、真昼であっても通行人ひとりいない、がらんとした道の真ん中で――吉鷹が出た(・・)のは、珍しく道の真ん中だった――首を横に振った。
すると、吉鷹は「だろうな」と、あっさり頷いた。
「このあたりも(・)不便だからな」
「“も”ってどういうこと」
「この先は行き止まりで、どこに抜けられるわけでもないしな」
「完全スルー!」
「それでも、昔はこのあたりにも民家はあったんだ。いまじゃあ、近くの奴らも寄り付かないけどな。……まぁ、これだけ荒れ放題になったらな。 ――でもな、あき。あそこに桜の木があるんだ」
吉鷹はそう言って、道の先、山のすぐそばにある荒れた空き地を指差した。
しかし、背丈ほどの雑草に塗れて、なにがなんやらさっぱりよくわからない。あきこは目を細めてそちらをじっと見つめた。
すると、雑草や蔦に絡まってややこしいことにはなっているが――
「あ、言われてみればなんかある」
山のすぐそばに、緑の葉っぱが生い茂る大きな木があった。吉鷹は頷いた。
「桜だ」
「あれ桜なんだ……」
桜と言えば、誰もが『春に見る満開の桜』を……薄紅色の花が咲く桜を思い浮かべるだろう。
しかし、“春以外”で桜の木を気にする人はどれほどいるだろうか。
……言われなければ、あんまり気にしないだろう。
少なくとも、あきこは今まで気にしたことがなかった。吉鷹にそう言わなければ、それが桜の木かどうかもわからなかったかもしれない。
あきこは、遠くからしげしげとその木を眺めて、ふと気付いた。
「ねぇ吉鷹。なんかあの木……でっかくない?」
「桜にしてはけっこう古いやつだからな。――だけど、あの桜、近いうちに切られるらしい」
「え、こんなに立派なのに?」
「このあたりは土地が安くて買い時なんだってよ。ここを平地にして、マンションを建てるそうだ。あの桜は邪魔なんだってよ」
吉鷹は淡々としていた。
淡々と、じっと、桜を見つめていた。
「でも、あんなに大きくなったのにもったいないなぁ……」
あきこが思わずそう言うと、吉鷹が苦笑した。
「あき、もったいないって全部残してたら、こんな世の中になってない。まぁ、だからこそ、どんどん進歩して便利な世の中になっていったのかもしれないけどな。――あの桜を大事にしてたジジイが何年か前に死んで、受け継いだ息子はこの土地には未練がなかったらしい。業者にあっさり売り飛ばした。……ここも、これでもう昔の面影がなくなる」
そう言ったときの吉鷹の顔を、あきこはなぜか見れなかった。
なんと声をかければ良いかもわからない。あきこは口を閉じて、視線を落とした。
「まぁ、それはともかく」
俯いたあきこの頭に、ポン、と手が乗った。
顔を上げれば、吉鷹がいつもの調子で笑みを浮かべていた。
「長い間、ここでみんなを見守って来たやつなんだ。このままいなくなるのはどうにも不憫だ。あき、少しでいい。話を聞いてやってくれ」
「ほんとに話を聞くだけだけどね」
「十分だ。……悪いな」
吉鷹の言葉に、あきこは小さく首を横に振った。
……吉鷹と出会って3年。
あきこは、こういうことには随分と慣れてきた。
遠くからだといまいちわからなかったが、その桜はそばで見ると本当に大きかった。高校の正門にもなかなか立派な桜が何本か植えられているが、この桜はそんなものではなかった。
これほど大きな桜を、あきこは知らない。
こんな誰も来ない所にあるのがもったいない――そう思うような、立派な桜だった。
いま、遠くから見ている時にはあったはずの雑草や枝に巻き付いていた蔦はない。本来ならありえないことだが、“ここ”はそういうものだ。
あきこは気にせず、桜に近づいた。
すると、桜のそばには紺色の着物を着た小柄な老人がひとり、ぽつんと座っていた。
「あの、」
声をかけると、老人はあきこをじろりと睨んだ。睨んだが、「隣に座ってもいいですか」と聞くと、無言で頷いてくれた。
あきこはおとなしくその隣に腰を下ろした。
そのまま、なにを言うわけでもなく、そのまま景色をながめる。
いま、あきこたちがいる場所は、あきこがいつもいる世界からは少しだけずれた(・・・)位置にあるが、“層”がずれただけで、他は変わらない。
背後の山からは木々のざわめきや虫の鳴き声、蝉の声が絶え間なく聞こえているし、山から涼しい風も吹いている。
(ここもクーラーいらないっぽいかも)
うちとおんなじだ、とあきこは思った。
あきこの家は、登り下りに関しては高齢者どころか、若者にもまったく優しくない仕様であるが、直射日光にさえ当たらなければ、かなり涼しい。
真夏であっても、朝方、寒いと感じる日もあるのだ。
山際だからだろうか。ここも、同じような涼しさがある。
「うち、もっと北にあるんです。直射日光の厳しさは町を上回る勢いなんですけど、それでもやっぱり涼しいみたいで。こういう涼しさに慣れていると、町に行くときつくてきつて……」
あきこのいう町は、市街地のことである。
土の道に慣れていると、アスファルトは暑くてたまらないのだ。以前、バスを待っているときに暑さにふらついてバス停で座り込んだことがある。
「町はほんとに暑いんですよね……。むっとしてるっていうか」
あきこがそう言うと、意外なことに返事があった。
「……昔は、夏になるとここに涼みにくる子供もいたがね」
老人はそう言ったあと、
「いまは全然来ない」
ぼそりとそう呟いた。
あきこは頷いた。「クーラーの時代ですからね」と。老人もまた、頷いた。「時代は変わるものだ……」と。
「……わかっている。時代は変わったんだ」
老人はもう一度そう呟いたあと、
「昔はこんな世の中になるとは想像すらしていなかったよ。……あの頃が懐かしい」
そう苦笑いした。
老人は、最初から“形”をとっていたわけではないため、はじめの頃のことはあまり覚えていないらしい。誰が植えたのかも、なぜ植えられたのかもわからないようだ。
ただ、立派に育てよ、と撫でてくれた人がいたことだけは覚えているらしい。
「忘れたくないものが、たくさんあるんだ……」
耳を傾けるあきこに、老人はそう言った。
水不足で喘いでいたとき、残り少ない水を、近くに暮らす村人たちが分け与えてくれたこと。
雨が降れば、ちょっとだけ雨宿りさせてくれな、と誰かが駆けこんできて、夏になると、ちょっとだけ休憩させてくれよ、と、人が涼みに来たこと。
いつにない大雪で埋もれかけていたところを、みんなが必死に掘り返してくれたこと。枝が折れないようにと、自分たちは雪をかぶりなからでも、枝の雪を払ってくれたこと。
春になると、綺麗な桜だ、今年も立派だなぁ、と、自然とみんな集まってきたこと。
「あの頃は、楽しかったなぁ」
老人はそう言ったあと、声を震わせた。
「いつからだろう。……もう、誰も来ないんだ」
寂しいなぁ。悲しいなぁ。
誰にも顧みられないことは、こんなにも辛いことなんだなぁ。
老人のひとりごとのような言葉に、あきこは泣きたくなった。
けれど、あきこは泣かなかった。拳をきつく握り、持ったままだったタオルを老人に差し出す。
「さらっぴん(・・・・・)じゃないけど、よかったら」
「ありがとうよ、お嬢さん」
老人はちょっと笑って受け取ってくれた。
「きみは桜は好きかい」
「もちろん好きですよ。というか、桜が嫌いな人って、あんまりいないんじゃないですか?」
あきこは振り返り、緑の葉が生い茂る桜を見上げた。これだけ立派な木だから、春にはすごく綺麗な花が咲いたのだろう。すると、あき子の視線に気付いたのだろう。
「おまえは立派な花を咲かせるなぁって、昔はよく言われたもんだよ」
老人は誇らしげな顔をした。
見てみたい――あきこはそう思ったが、
『だけど、あの桜、近いうちに切られるらしい』
吉鷹の言葉を思い出し、口に出すことはしなかった。できるはずがなかった。
あきこに出来たのは、ただ、静かに頷くことだけだ。
(……私はほんとに無力だ)
そのことを噛みしめながら。
「聞いてもらってすまなかったね」
しばらくしたあと、老人はそう言って、少し吹っ切れたような顔であきこを見た。
「きみは吉鷹が連れて来てくれたんだろう? あいつの気配がしてる。悪いが、吉鷹にありがとうと伝えてくれるかい? あいつはきっと、そばには来ないから」
「呼んだら来ると思いますけど」
あきこはそう言ったが、老人は首を横に振った。
「これでいいんだ。看取らせてばかりだからな。あいつも辛かろう。……いまのは内緒にしておくれ。きみも話を聞いてくれて嬉しかったよ。本当にありがとう」
老人は優しい顔で笑って、「さぁ、もう行きなさい」と、あきこを促した。
――こういうとき、あきこはなんと言ったらいいのかわからず、いつも困る。
今も、ゆっくりと立ち上がりながら、なんと声を掛ければいいだろうかと、考えた。
しかし、やはり答えは出ず。
あきこは深く頭を下げ、その場から離れた。
しばらく歩くと、あたりは道の両脇に雑草が生い茂る道に――元の景色に戻っていて、そこには吉鷹がいた。
「吉鷹」
「あき」
「うん」
2人は、そのまま人気のない道をしばらく歩いた。
道には単に人がいないだけなのか、それとも紙一重ほど違う世界なのか、あきこにはわからない。――その表現が正しいのかさえ。
あきこが知っているのは、
「ねぇ、吉鷹ってさ」
「ん?」
「あのおじいちゃんよりも長生き?」
あきこが知っているのは、『吉鷹は人ではない』ということだけだ。
吉鷹は、あきこの質問にちょっと笑って頷いた。
「まぁな」
「じゃあ、吉鷹もおじいちゃん?」
「俺達に年齢なんかあってないもんだって何回言ったらわかるんだよ」
呆れた顔の吉鷹に、あきこは唇を尖らせた。
吉鷹は、見かけは人だが人ではない。本人がそう言っていたし、あきこもそう思う。
しかし、それ以上のことは、あきこもよく知らない。聞いても、「当ててみろ」と言われるだけなのだ。
ただ、吉鷹がなにかの神さまなことは確かだ。
祖父の言葉を借りるなら、『いろんなもんに神さまは宿る」――吉鷹は、その『いろんなものに宿る神さまの一人』なのだろう。
あきこは吉鷹がなんの神さまなのかいくつか予想を立ててはいるものの、どれもしっくりこない。
……きっと、まだ正解にはたどり着けていないのだろう。
「教えてくれたっていいのに。ケチ」
「神さまってのはケチなんだよ。安売りはしない」
「ふーんだ。……ねぇ、吉鷹」
「あん?」
「あの桜のおじいちゃん、吉鷹にありがとうって」
そう言うと、吉鷹がピタリと動きをとめた。その顔はくしゃりと歪んでいる。
あきこは吉鷹が泣くのかと思って、思わず手を伸ばそうとした。しかし、それより先に腕を引っ張られ、抱きしめられた。……強く、つよく。
「人間ってさ、身勝手だよね。私も含めて」
あきこがそう言うと、吉鷹はあきこの肩に顔を埋めたまま、声を震わせ、それでも言った。
「……だけどな、あきこ。良いところだってあるんだよ……」
一週間後、桜の木は予定を早め切り倒された。
あきこがそれを聞いたのは、全てが終わった直後のことだ。家にやってきてそう告げた吉鷹の目はうさぎのように赤かった。
「私も行きたかった」
思わずそう呟けば、
「ごめんな。でも、これ以上はおまえに背負わせたくないんだ」
吉鷹にそう言われ、あきこは渋々黙った。
けれど、
「でも、今日は連れて行っても良かったかもな」
「どういうこと?」
付け足された言葉に、あきこは首を傾げた。吉鷹がそう言うのは珍しいのだ。
「桜は春が一番似合うと思ってたけど、夏の花見も悪くはないな」
「え?」
聞き返すと、吉鷹が笑って詳しく教えてくれた。
あきこは驚き、そして笑って……ちょっと泣いた。
*
「真夏に桜が咲いたらしいな」
あきこの父がそんなことを言ったのは、それから数日が経った夕飯時のことだった。
「なぁに、それ?」
母の夜子が首を傾げると、父親の醒が心得たりと頷き、詳しい話を聞かせてくれた。
なんでも、キノモト――市の東にある地名だ――で、老桜が真夏にも関わらず満開の花を咲かせたという。
「狂い咲きの桜っつっても、今年は最初こそ冷夏だったけど、あとはずっと猛暑だっただろ。土地の持ち主の遠縁が切る数日前に下見に行ったときだって、葉っぱも普通にあったらしい。花が咲く感じなんか一切なかったって。不思議だよな。……その桜にも、なんかいたのかもな」
祖父の息子はそう言って笑った。
その息子と結婚した母親も、不思議ねぇとのんびり言った。
あきこは、両親にもう少し正確なことを教えてあげたかったけれど、追及されても困るので、そうなんだ、とだけ言って頷いた。
――桜の花が咲いたのは、ちょうど木が切られる日の早朝だったそうだ。
あまりに見事な桜に、伐採を頼まれた男は――吉鷹が言うには、土地の持ち主の遠い親戚にあたる市外の人らしい――切るのを躊躇ったそうだ。
あまりにももったいない、これはここに“必要”なものじゃないのか、と。
しかし、持ち主は首を縦に振らなかったようだ。
電話での長いやりとりのあと、結局、午後になって桜は切られたという。
ただ、その昼、桜の木の周囲は綺麗に草が刈られ、近くに暮らす人たちも集まって、小さいながらも夏の花見がされ、桜にはお清めの酒と塩とは別に、地元の酒が振る舞われたという。
そして、
「こんな立派な木なのになぁ。すまない。人間の勝手を許しておくれ」
誰かがそう呟いた途端、――薄紅色の花がゆっくりと、はらはらと散って行ったそうだ。