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006 御主人様の誤登録?

 イヴが行った『実験』による混乱は、翌日にはおさまっていた。

 朝もダイヤ通りに電車はホームに来たし、車だって渋滞することはなくいつもどおり流れていく。そこにはこれまで見てきたようないつもの日常、いつもの毎日があった。

『セキュリティシステムは、一日や二日という短期間の間にすぐにアップデートされる可能性は低いと判断できます。私は源蔵氏の部屋で話していたその裏で、ハッキングしたシステムの復旧作業を行っていました。この『実験』により、現在よりも堅牢なシステムが構築されることでしょう』

これは俺が談話室に戻った時にイヴから聞いた話だ。あの重要な話の横でそんなことをしていたとは……。

まったくもってイヴという「ALの凄さ」というものに驚かされてしまう俺だった。

混乱は「おさまった」とは言うものの、それはあくまでも「事態が収束・終結した」というだけだ。翌日から「あの混乱は何だったんだ?」という疑問について、テレビや新聞、果てはネット上でも様々な意見や憶測が飛びかった。

意見は種々様々で、「単なるシステムの障害だったのではないか」というものから、「どこかよそからやってきたサイバーテロなのではないか?」などといったものまで幅広い。

俺はそんな意見や見解を紹介しつつ、テレビの向こうでくっちゃべっているコメンテーターをぼけっと見ているだけだった。俺はそんなことよりも阿久津重工の社長、阿久津源蔵氏――つまりは、美夏先輩の親父さんがどんなことを言うのかが気になっていたが、何もコメントというコメントは出なかった。

「企業っつうのは常にリスクを考えるもんさ。今回の事件は『責任を認める』ことがリスクをかえって大きくすると判断したんだろうさ」

 これは姉ちゃんの言葉だ。それが本当なのかどうかは当事者ではないので俺もよくは分からない。

「モロロ、もう時間ではないのか?」

「うあっ! お姉様、私の厚焼き卵を取らないで下さい!」

 今日も(俺が朝早く起きて準備した)朝御飯をがつがつと元気に食べる葛葉と結。その姿を見て我に返った俺は、「それじゃ二人とも。大人しくしているんだぞ!」とまったくもってウチの神様には無意味な言葉を適当に投げ、いつも通りに学校へと向かった。


 ――何だったんだろう、アレは……。

 ふとそんな考えすら思ってしまうほど、あの日起きた事件は実感というか「リアリティ」が持てない俺だった。

いや、別に記憶がないとか飛んでいるっていうワケじゃないんだ。

 ただ、「本当に起きたことなの?」と一瞬自分に問いかけて確認してみないと……といった感じのものだ。その日にどっかの誰かにヤバイ薬をブチ込まれて記憶がメルヘンにトリップしてしまった、ということではないのでご安心を。

 まぁ普通に考えれば、「あの日の事件」とは『人間の俺(正確には俺達)が、デジタル世界で四苦八苦した挙句、イヴという人工生命(AL)であり葛葉の友達を救った』ということだ。

いろいろはしょって簡単にしてまとめればこうなる。ただ、他人に話せば「泣ける話やね」と一蹴されるような類のものだろう。

 つーか、俺なりにここまで考えてみたが……。実感なんて持てるわけなんてねえだろ。

 だって人間がデジタル世界に行ったんだぞ?

 俺がバイク乗ってサメに襲われそうになったんだぞ?

 そんなこと、おいそれと話せるワケないだろうがっ!

こんなことを話した瞬間「お、お前……ホント(頭が)大丈夫か?」とマジで心配されて、病院に搬送されるルート、いうなれば〝バッドエンド〟が見えてならない。

何度も言うが、コレはギャルゲーではないのでバックログ機能はない。ご了承ください。

「はぁ……なんだかなぁもう」

 そんなため息にも似た声をもらしつつ、俺は校門へと続く坂道――通称、地獄坂と呼ばれる難所に挑み始めた。



 あの事件から先輩は学校を休んでいた。

「なぁモロロぉ~、美夏がいないとつまらんぞ!」

 いつものように保健室から(相変わらず保険の先生が泣きながら訴える不倫相談を受けていたらしい)葛葉と結を引き取った俺は、廊下を歩いて学校から帰るところだった。

 あの人は不倫をしたいのか、それとも誰かに自分の話を聞いてほしいだけなのだろうか?

 俺が訊いても無駄なことなのであえて訊こうとは思わないけど……。いいのかそれで?

「つまらん、って……。あのなぁ、ここは保育園じゃねえんだぞ? お前の都合でコロコロ変わったら困るんだよ」

「うるさい黙れ。私は面白いことがあればそれでいいのだ!」

 一蹴ですか。しかもなんなんだよ、その清々しいまでの自己中心的主張は。

 そんな葛葉からどこぞのアニメで聞いたようなセリフを耳にしつつ、俺達三人は誰もいなくなった廊下を歩いていた。夕陽を浴びた廊下がオレンジ色に染まり、まるで絨毯の上を歩いているようだった。時折キュッと鳴る上履きと廊下のタイルが擦れる音がどこか心地いい。


やってきた人物に最初に気づいたのは葛葉だった。

「あっ美夏だ!」

「あぁそう……って、えぇっ!」

 俺が驚くよりも早く、葛葉は駈け出し、目の前の女子生徒に飛びついた。「きゃっ!」と一瞬声を上げたその女子生徒がちらりとこちらを見る。

 それは紛れもなく美夏先輩だった。

「せ、先輩……?」

「み、瑞希君……」

 見つかった先輩はバツが悪そうに苦笑しながら俺を見つめていた。あの日の事件以来、学校ではまったく会っていなかった先輩は、俺を見るとサッと軽く身だしなみを整えた。

 ついでに言えば、その動作もどこかぎこちない。……何でだろ?

「ど、どうして……? 学校休んで何やっていたんですか?」

「ごめんね。突然学校休んじゃって……。この子を造るのに今日まで時間が欲しかったの」

「この子? 造る?」

 まるで意味が分からない。そんな頭に「?」を浮かべていた俺を見かねていたのか、先輩は俺の目の前に、一人の女の子を連れてきた。背は葛葉や結よりも高いが、かといって俺や先輩と比べれば低いだろう。たぶん、中学生ぐらいの女の子だろうか。

「ど、どうも……」

 恥ずかしそうにぺこりと頭を下げたその中学生っぽい少女に対して、俺は不思議と「今初めて出会った」感じがしなかった。

黒い光沢のある髪を肩で切りそろえ、すっと通った鼻筋にくりくりの目が印象的な女の子だ。肌は白く、芸者が化粧をする時に使うおしろいでも塗ったかのような白さが眩しい。その白い肌が夕焼けの陽の光に当てられ、今はほんのりと赤く染まっている。

「あのぅ……先輩、こちらは?」

「えっ?」

 先輩が「見て分からない?」と意外そうな声を上げるが、俺にはこんな女の子と出会っていた覚えはなかった。現に、脳内に溜まっている(はずの)データをいくら検索してもその姿の片鱗どころか影も形も出てこない。

「美夏、私は以前のタイプとは顔を変えているのですから、改めて紹介が必要なのではないかと判断します」

うん? ……なんだろう、この口調。どこかで……。

「あぁっ! ごめんなさい。改めて紹介するね。これは――」

 先輩は俺に向かって隣に立つ女の子を、


「この子は――イヴよ」


 そう紹介したのだ。

「「「……………………はああああああああああああああぁぁぁぁぁ?」」」

 先輩の言葉に俺だけではなく、葛葉も結も揃って同時に声を上げた。



「取引だったの」

「取引?」

「そう。『イヴを引き取り、私が家から出ていく』ということを条件に、『今回のイヴの実験については、何も関与していない』という取引をしていたの。あとは細々とした手続きや、イヴを引き取る準備をしていたらいつの間にかこんなに日にちが経ってしまったのだけれど」

「それって、責任を全部先輩に押し付けたって言うことじゃあ……」

 それは誰でも聞いたらそう思うだろう。先輩はイヴのために家へも捨てて自分で歩くということなのだから。

「そうかもしれないわ。でも、後悔はしていないから」

「はあ……」

「それに、もう住む場所も確保しているし、イヴも私と一緒に住む予定よ。イヴは理事長とかけあって、協力してくれる大学の研究機関と提携することもできたの。だからイヴのメンテナンス体制も整えることができた、というわけ。今日はその御礼も兼ねて理事長に挨拶しに来たのよ」

「凄い……そこまで……」

「あら、当然でしょう? 今まではお父様の会社が用意した研究施設を使っていたけれど、この取引で私は部外者になりましたからね。もっとも、その研究施設で使っていた機器は大学の方に移送させてもらいましたけれど」

「は、はぁ……。なんだか話がややこし過ぎてついていけてなくてよく分からないですけど、とりあえず良かったですね」

「そうね。これで一段落、といったところかしら」

 先輩は明るく笑っていた。まるで硬い殻を破った雛鳥のように、その嬉しさが見える。

「そうですね。それに、美夏は以前と比べて随分と笑うようになり、自分の意見をしっかりと言えるようになりました。こういったことを『性格が変わった』と呼んでいいのではないかと私は判断します」

「ちょ、ちょっとイヴ!」

 隣で淡々と告げるイヴに、先輩は焦ったように取り繕う。その様子を見ていると、確かに以前の先輩のような『高嶺の花』といったイメージはない。どこか俺と同じ目線に立った等身大の普通の女の子、とったイメージだろうか。

「でも、問題があるの……」

 一瞬暗い顔をした先輩に、俺はまた「なにか面倒な事態がおきたのでは……」とついつい身構えてしまう。

「問題? 問題って?」

 俺は首をひねった。イヴはこうして実験を止め、壊されることもなくなったわけだし、問題は起きていないはずだ。先輩も家から離れるとはいえ、住む場所もイヴのことも対処している。別に先輩が心配するようなことは起きていないように思うけど……。

 すると、その俺の疑問に答えたのは先輩ではなく、その隣に立っていたイヴだった。


「はい。瑞希――貴方を私の御主人様(マスター)としたいのです」


「マスター……? それってつまり……」

「はい。文字通り、私が仕えるべき主人、という意味です」

「あぁ、その意味のマスターってわけね……って、はああぁぁ? 御主人様だああぁぁ?」

 何で? そもそもイヴを造ったのは先輩でしょうに。なんで俺がイヴの主人にならなきゃいけないんだ?

 目がテンになって呆けていた俺に、イヴは静かに現状を報告する。

「美夏は私を造っただけであり、正式な『主人である』とは登録しておりません。現在、私の『主人』という項目は空欄になっており、未だ決定していない状態にあります」

 イヴの言葉を受け、先輩は事の経緯を話してくれた。

「本来、ここはお父様の名前が入るはずだったの。けれどこの前の実験によって、イヴはいわば処分されてしまったと同じことなの。そして今も主人のことは宙ぶらりんの状態なのよ」

「なるほど……」

 つまりはあれか。イヴはもともと美夏の親父さんが主人として登録されるはずだったのだが、この前起きた事件によってイヴは親父さんの手から離れてしまった。当然登録予定だったはずの「主人」という項目も白紙になり、今は誰が主人としてなるかも不明……と。

「あれっ? ……でも、先輩の名前で登録しちゃえばいいじゃないですか」

「それでもいいんだけど……」

 先輩は言葉を濁しつつ、ちらりと隣にいるイヴに目線を配った。うん? 何だ……?

「私が『瑞希を御主人様(マスター)に』と望んでいるのです」

「へっ? 何で?」

「私が『貴方の傍で感情を理解したほうがより興味深いデータが得られそうだ』と述べた際、貴方は『それじゃあそうしてみれば?』と言いました。ですから、その言葉通り、私が貴方の傍にいるためには貴方が私の御主人様(マスター)として登録していただけなければならないのです」

 ……つまり、『お前の言ったことだろうが!』とか、『言ったことには責任持てや!』というワケですか?

「俺、そんな事言ったっけ?」

 首をかしげながら空とぼけた俺に、イヴは静かに頷き「はい、確かにそう言いましたが」とあっさりと返答した。

「もしよろしければその時の会話を再生して確認致しますか? 私のメモリの中にも録画していますのですぐにでもできますが……」

「いや、いい」

 俺はイヴの申し出を丁重に断る。そんな言質を取られているとは思いもよらなかった……。

「ダメでしょうか……?」

 イヴは前かがみになり、くりくりとしたその瞳を上目遣いで俺の顔を覗き込む。精巧に人間の目を模倣しているのか、少しばかりうるんだようなその瞳は、相当な破壊力を持って俺を見つめていた。

「いや、ダメ……というわけじゃあないんだけどさ……」

 御主人様って、仕える者を管理するもんだろ? お前はそれでいいのかよ。せっかく自由になったんだ。どう生きたってそれはイヴの自由だ。何を考え、何を思い、どう行動するかはイヴ次第だ。「主人を決める」ということは、手に入れた自由を手放すということじゃないのか?

 俺はまだ思いあぐねていた。他人から見れば、「本人がそう望んでいるんだからいいだろ?」と言うだろう。

けれど、イヴは単なる機械じゃない。命令されて動くロボットでもプログラムでもない。

今ここに、この瞬間に、現実に「生きて」いるんだ。

自分で思考し、行動することもできるALだ。

そんな簡単に割り切れる話じゃない、と俺は思う。

「瑞希君、イヴのことで悩んでいる?」

 不意に先輩の声が聞こえてきた。

「もし、君が『イヴは自由になったんだから』って思っているのなら、それは大きな間違いよ。イヴの『御主人様を瑞希君に』って申し出たのは、他ならぬイヴ本人なの」

「――えっ?」

「イヴは確かに私やお父様の手を離れて自由になった。それは間違いない。けれど、イヴのこの願いはイヴ本人の意志からなの。自由になったイヴの意志、瑞希君は無碍に断れる?」

 話を聞いていた葛葉も、理解しているのかいないのかは分からないが口を挟んできた。

「モロロ。イヴは――他でもない私の友達なのだ。その友達がモロロに頼んでいるのだ。私からも重ねて頼む」

 服をギュッと握り、小さく呟く葛葉。それは紛れもない葛葉の本心だった。

「――わかったよ」

 もうそこまで言われたら俺もどうすることはできなかった。これほど周りから頼まれて、その上逃げたとなったらカッコ悪いっていうもんじゃない。

 カッコ悪さを通り越して、情けなくも思えてくる。まぁ、この状況自体ほとんど脅迫に近いものがあるけど。

「では……っ!」

「ただしっ!」

 嬉しそうに手を合わせて喜びを表現するイヴに、俺はビシッ! と指を突き立て、一つだけ条件を付けた。

「お前はもう自由なんだ。だから、俺からああしろこうしろって『命令』することはしないぞ? わかったか?」

「――はいっ! ありがとうございます、我が御主人様(マイ・マスター)

 その瞬間、イヴの頬がかすかに緩んだように見えたのは俺の気のせいだろうか?

 いや、気のせいではないと思いたい。



 イヴの「御主人様(マスター)」としての登録はすぐに行われた。先輩の「すぐに終わるから」ということで、俺達は放課後の空き教室を借りて作業を行っている。

「指紋認証、声紋、網膜パターン……認証終了、と。あとは……」

 先輩が慣れた手つきで登録作業を終わらせていく。俺は先輩に言われるがままにパネルに両手をついたり、差し出されたマイクに声を発したり……とまるで何かの検査を受けている患者のような気分だった。

先輩はそんな俺の様子をちらりとも見ることはなく、モバイルPCに映し出される画面を操作していた。PCをケーブルでイヴに直接つなぎ、そこからイヴの「主人」を登録しているのだ。モバイルPCは普段のA4ノートPCやディスクトップ型のPCとは違い、その小ささゆえにキーボードが狭く打ちづらい。

熟練者でもタイプミスするようなキーボードを、先輩はワンミスもすることはなく精確にコマンドを打ち込んでいた。

「それじゃあ、最後に瑞希君のDNAをもらいたいんだけど」

「DNA? それって血液のことですか?」

「別に血だけじゃなくてもいいの。例えば皮膚や毛髪でも問題ないわよ」

 毛髪、と聞いて俺は一瞬心の中で苦い顔をした。その原因は、最近異様に気になり始めた頭の毛である。髪の毛を洗うたびにはらはらと抜けていく黒い髪は、不気味なものを残していくようでなんとも後味が悪い。

 う~~ん、どうしようか……。

 そんな俺の心情が顔に現われてしまったのか、イヴが先輩の言葉に加えて説明してくれた。

「まぁ、登録だけですので、該当者のDNA情報さえあれば問題はありません。ぶっちゃけて言ってしまえば、傷を負わなくとも――」


「滋養強壮剤と精力剤を飲んだ挙句、『限界までオスの力を溜めて吐き出される白濁液』でも私としては全然オッケーというわけです」


「ぶっ!」

 なんつーことをいうんだコイツは! 今さらっとアブない発言しなかったか? 

これって放送コードに引っ掛かるんじゃねえのか?

「ちょ、ちょっとイヴ!」

 先輩もイヴの言わんとしていることが分かっているのか、かあああぁぁっと顔がトマトよりも赤くなっていく。聞いている俺だって恥ずかしくて湯気が出そうだ。

 そんな先輩を見ていたイブは、恥ずかしがる(機械だからしょうがないけど)そぶりを見せず、平然とした顔で逆に先輩に問いかけた。

「美夏、貴方は何を恥ずかしがっているのか私には分かりません。私はただ『例えば』と例を挙げただけで、『ください』とは依頼していません」

「それはそうかもしれないけれど……!」

「まぁ、男性には『俺のアレを喰らえ!』などといった変態的趣向が好きな方は少なからずいるようですし」

 イヴの言葉を受け、先輩が白い目で俺を見つめてくる。顔はオホホ、と笑ってはいるがその目は笑っていない。完全に軽蔑のまなざしだ。

「いやいやいや! 俺にそんな趣味はないですって! 」

「それに、私は御主人様のものならば血液だろうが唾液だろうが何でも大歓迎であります」

「「…………」」

「なぁなぁ、さきほどから言っている意味が分からんのだが……」

ぐいぐいと俺の服の端を引っ張る葛葉に構っている余裕は当然なく、俺と先輩はしばらくお互いに言葉が出なかった。

「つまりですね、葛葉――私は瑞希の身体の一部がもらえるのなら、なんでもオッケーということです」

「身体の一部?」

「それはですね――」

「だあああああぁぁぁ! 詳しく言わんでよろしいっ!」

 これ以上イヴが喋ると、葛葉の情操教育に悪いわ!

「ほらよ。これで勘弁してくれ」

 俺は頭から一本の黒い毛髪をプチッと引き抜くと、イヴの前に差し出した。こんなものでこの場が収まるのなら安いものだろう。

「……ちっ。もっとエロいものが欲しかったのですが」

 イヴが小さく呟いた言葉はしっかりと俺の耳が捉えていたが、聞かなかったことにした。


「――対象のDNA情報を確認、登録……完了。御主人様(マスター)登録における全行程の完遂を確認」

「おめでとう、これでイヴの御主人様(マスター)は瑞希君よ」

「はぁ、どうも」

 先輩は笑って喜んでくれたが、俺は先輩とは対照的に素直に喜ぶことはできなかった。これで本当に良かったのか、と疑問すら思うのだ。

「瑞希君、まだ喜べないかもしれない。けれど、これはイヴ本人が望んだことだから」

「わかっていますって」

先輩に笑いかけた俺は、その隣に立っていたイヴに、初めて「主人」として挨拶した。

「んじゃ、改めてよろしくな――イヴ」

「はい、我が御主人様(マイ・マスター)

こうして、始まった俺の新たな「主人」としての立場は幕を開けたのだった。

「なぁ、呼び方は普通にミズキでいいんじゃないか? 『御主人様(マスター)』って呼ばれるのはちょっと恥ずかしいっていうか、こそばゆいっていうか……」

「それについては断固拒否します。それに、御主人様は『命令』はしないのでは?」

「そりゃそうだけど。……っていうか、これは普通に『お願い』のレベルだと思うんだけど」

「それでも拒否します」

 イヴは完全にNOを突き付けた。まぁ、俺だって別にもうなんて呼ばれようが気にはしない。

「うん? どうした、モロロ」

 葛葉なんて最初からこうだしな。今さら何を言っても無駄だろう。

……でもどうしてだろう。イヴがさっきから俺のことをじっと見ているんだが。

何か俺の顔についているのか?

「いつか必ず、ご主人様自ら白濁液を……。ぐふふ……。じゅるり……」

 どこからか聞こえてきた舌なめずりに、「このAL、異様にエロいんじゃあ……」と思うのは俺の妄想なのだろうか?

 なぁ、そろそろいいだろ? 言ってもいいだろ?


 …………つーかさぁ! こんなにもエロいALなんてアリなのかよ!



「そうだったわ。瑞希君、申し訳ないんだけれど、今度の週末って空いているかな?」

「何ですいきなり……」

 俺達は西の空に沈もうとしているオレンジ色の陽光を浴びながら地獄坂を下っていた。まだ部活動をしている運動部の掛け声がグラウンドから時折聞こえてくる。

「うん、ちょっとばかり引っ越しを、ね。もう私はあの屋敷から出ていくから……」

「あ~、なんかそんな事言っていましたっけ」

 俺は先輩の言葉を聞きながらその時の様子を思い出していた。ぐるぐると思考が回り記憶が掘り返されていくが、その時疲れていたためかハッキリと思いだせない部分もある。

「今荷物をまとめてあるから、今週はそれにかかりっきりかな。だからまた瑞希君と会うのは当日引っ越し先に着いた時になりそうなの」

「あぁ、わかりました。準備にはいろいろ手間がかかりますからね」

「それで、瑞希君には当日の荷物の荷解き作業と配置をお願いしたいの」

 先輩は女性だ。しかも引っ越しとなると、重たい家具などを運び入れるなどそれなりに人手がいるのだろう。女性一人では到底一日でできる作業ではない。

「いいですよ。ちょうど姉ちゃんも出かけるみたいだし」

 俺は携帯のカレンダー等々で予定を確認すると、二つ返事で先輩の申し出に応じた。

「ありがとう! それじゃあ、これがその引っ越し先までの地図だから……」

 先輩はさらさらとノートの切れ端に略地図を書いて渡してくれた。渡された地図を確認した俺は、一瞬首をひねる。

「あれっ? これ、ウチから随分近い場所ですね。歩いていけますよ?」

「そう? ならよかったけれど……。でも、当日迷われたら困るでしょう? 一応渡しておくわね」

 何かを隠しているのか、どことなく怪しい挙動を見せる先輩だったが、俺は特に気にせずその地図を財布の中に押し込んだ。


 それから週末まで、先輩は言っていた通り学校を休んでいた。

「なあミズキ! これは事件だぜ! あのお淑やかで学園のアイドルこと阿久津美夏先輩がこんなにも長期間学校を休むなんてあり得ねえよ!」

 週末に差しかかる金曜の朝、教室に入って来た俺にトモが開口一番そんなことを言ったのはもはや笑い話と流せるものだろう。

「長期間、つっても二週間ほどだろう? 病気とかじゃねえの? 先輩だって人間なんだからさ、カゼぐらい引くだろうよ」

「ミズキは事の重大さを分かってねえんだよ! 先輩は去年無遅刻無欠席だったんだぞ!」

 ……なんでお前が先輩の出席状況を知っているんだよ。コイツはアレだな。「ストーカー」の素質が十二分にありそうだ。

 警察に捕まったらまず他人のフリ決定だな。

「なあミズキは知らねえか? 先輩に何があったのかさぁ~」

「俺が知るか」

「ちぇっ……」

 ふてくされるように席に戻るトモだったが、実は俺はなぜ先輩が学校を休んでいるのかを知っている。知ってはいたが、俺はあえてそれを公表することはしなかった。

 もちろんそれは先輩自身の問題であるし、あえて他人が首を突っ込むことではないと思ったからでもある。

 加えて言うなら、それ以上に他人が先輩の過去や家族のことを根掘り葉掘り探らせたくなかった、ということも多分にある。先輩は新しい一歩を踏み出そうと頑張っているのだ。そんな時に余計な茶々を入れたくはない。

「なぁミズキ」

「なんだよ純。お前も先輩のことが気になるっていうのか?」

 今度はトモに代わって純が話しかけてきた。ったく、なんなんだよ……。どいつもこいつもそんなにヒマなのか?

「いや、違うんだ……」

「あん?」

 純は今にも餓死しそうな蒼い顔を俺に向けて必死に訴えてくる。ハァハァと気色悪い息使いにぎょろりとした目は、心配を通り越してすでに気味が悪い。

 俺は「一刻も早く病院に行った方がいいんじゃねえの?」と本気で心配になるが、すんでのところでその言葉を飲みこんだ。

 ……そういえば、コイツの家ってモロ病院じゃん。

「頼むから葛葉ちゃんと結ちゃんの写真、もしくは使用済みの何かを俺に譲ってくれ!」

 嫌な予感がした。

「…………一応聞いておくが、何のために?」

「俺のロリィパワァーをフル充電するために!」

「いっぺん死ねっ!」

 ガスッ! とそのロリ中毒患者の顔面に一撃をくれてやると、タイミングよく一限目開始のチャイムが鳴った。



 そして週末。俺は葛葉と結を引き連れて先輩の引っ越し先――とはいっても俺の家から歩いて数分の位置にあるマンション――の前までやって来た。

「ほえぇ~、た、高いな! こんなところに美夏が住むのか!」

「人間はついに神の領域にまで手を伸ばして棲みかを得ようとしているのか!」

 素直に高さを驚く葛葉と、どう考えても中二病的見解しか言わない結。まぁどっちも神様だし、人間社会のことなんて分かるはずもないからそんなことを言うんだろうケド。

「いや、葛葉。別にこのマンション全部が先輩の家ってわけじゃなくて、あくまでもこの中の一部分が先輩の家なワケで……。それに、別に高いからってそんな深い意味はないからな」

「そ、そうなのか……」

「安心しましたねお姉様。これでしばらくは空も安泰です」

 ……う~ん、この二人にはもうちょっと人間社会のことを勉強してもらわなくてはならないだろう。まぁ、「いずれは」だけど。今からやるのは面倒だし。

 マンションの前には大きなトラックが止まっていた。おそらくあれが先輩の荷物を積み込んだトラックなのだろう。「御嬢様」のお引越しということもあってか、そのトラックは普通の一人暮らし用のものより、はるかに大きい。その大きなトラックの前では先輩が大きく手を振って俺達が来るのを待っていた。

「こっちよ~! ごめんね、休日なのに手伝わせてしまって」

「いや、別にいいですよ。……それにしてもデカイっすね。さすがお嬢様というだけあってか、荷物が多いですね」

「あら、失礼ね。私はそんなに私物をたくさん持つ趣味はないわよ。これは私とイヴ、それともう一人の住人の三人分の荷物が入っているからね」

「へっ……? 三人……?」

 ――ヒュガッッッ!

「いってえええええぇぇぇぇ!」

 瞬間、先輩の目の前で目を丸くしていた俺の頭上に何か固いものがブチ当たった。頭を押さえて背後を見やると、

「……ったく、遅いんだよ愚弟がっ!」

「へっ? ……ね、姉ちゃん!」

「よっ!」

 煙草を吹かしてニヤリと笑う一人の若い女性――紛れもなく俺の姉、師丘朱音がそこにいたのだった。

「な……なん、で」

「なんで、って聞かれてもな……。そりゃあ私が美夏と一緒に住むからだろ?」

「はあああああああああああああぁぁぁ?」

 俺はあんぐりと口を開けたまま、しっかり十秒は固まっていただろう。

「何だよ憶えてないのか? あの夜話しただろう? 『私に任せておけ』ってな」

 俺は一瞬立ち止まってその時の記憶を呼び覚ました。あの時は疲れていたから端々の部分がおぼろげだけど……。


『まぁ心配するな。こうなった責任はこっちにもあるからな。美夏のことは私に任せておけ』

『ふーん……。それならそれでいいけどさ』


 ……あっ。

確かにそんなことを言っていた気がする。気がするけど、

 ――あれってこういう意味だったのかよ!

「嘘だ……。あの自活能力ゼロで一人では洗濯や掃除はおろか、料理を作ればことごとくそれは食べたものに破滅と混沌をもたらすあの姉ちゃんが家を出ていくだとォっ!」

 あまりの衝撃に思ったことがペラペラと口をつついて出てしまったのか、後で姉ちゃん渾身の鉄拳制裁を再び受けるハメとなった。

「いいからぐだぐだ言わずにやれ。それに勘違いしているようだから言っておくが、ここにはイヴも来るんだぞ? 美夏に聞いたら、イヴにはそういった洗濯と掃除のスキルは持っているようだからな」

 本当かどうか疑わしい俺だったが、ちらりと先輩の方に視線を合わせると、「一応そういったプログラムは組んでおいたわ」と頷かれた。

 どんだけ他人任せなんだよ、姉ちゃん……。ちょっとは自分で何とかしようと思わないのだろうか。もう二十六にもなるのに。

「それに、住むとはいっても家の近くだろう? なあに、ちょっと近い別荘ができたと思えばいいさ」

「別荘ってさぁ……」

「ちなみに、その別荘の家賃や光熱費、その他諸費もろもろを支出しているのは私ですけれど。私の特許使用料や資産運用で得た資金がありますから問題はないですよ?」

 先輩がたしなめるように、姉ちゃんの横でくすりと笑っている。

 う~ん……なんだかものすごく頼りになるし、情けなくもある。こういったお金を女性が、しかも学生である先輩が負担するのはどうなんだろう。

 ちったぁ協力しろよ我が姉よ。

「なぁモロロ。私は早く美夏やイヴが来る家の中を見たいのだが」

 うずうずと葛葉が俺の服の裾をひっきりなしに引っ張っている。あぁもう、服が伸びたらどうするんだよ。

「あぁはいはい。わかったよ。……先輩案内してもらってもいいですか?」

「分かったわ。ちょうど引っ越し前の作業として部屋の中をイヴが掃除していると思うから」

 先輩の嬉しそうに先導する後姿を眺めながら、俺達三人はマンションの中を入っていった。

 ポーン、と目的の買いについたことを知らせるエレベーターのチャイムが鳴った。

「へぇ……。最近のマンションって、みんなこんな感じなんですかね?」

「そうみたい。まぁ、朱音さんが『女性三人が住むから』ってことでセキュリティが高い物件を選んでくれたみたいだけれど……」

「ふーん」

 さすがは姉ちゃんだ。そこらへんの気遣いというか心配りはさすがと言ったところだろう。いくら先輩がお金を出すとはいっても、やはり必要な経費は抑えたい。だが、かといって安全面もおろそかなところでは困る。たぶん何軒もの不動産屋を巡り、いろいろとある物件を慎重に探したのだろう。

 仕事の合間を縫って、だと思うが。

 いや、どうか頼むからそう思わせてくれ。

「ここよ」

 想いを馳せながらぼうっと歩いていたためか、目的の場所へはすぐに着いてしまった。まだ引っ越しが完了していないので、表札も何もない。だが、ここは今日から先輩とイヴの新しい場所なのだ。

「さ、入って!」

 促す先輩に押され、俺はドアの横にあったブザーを押す。

ここで多くの方々が俺の行動に疑問を持ったことだろう。「なぜお前はそのまま開けて入らないのか?」って。

そりゃあ、よくそのまま扉を開けてしまい、あらぬ姿のエロエロのシーンが……なんてことのないように、事前の防止策をはるためだ。

そんなベタベタなお約束展開を俺は望んではいないし、俺は普通でいたいんだ。世の男性諸君。現実はそんなに甘くはないのだよ。ご了承ください。

「はい? どちらさまですか?」

 インターホン越しに聞こえてきたのはイヴの声だった。相変わらずの機械じみた(とっても本当に機械のだけれど)抑揚のない声は、インターホン越しでもよく聞こえてきた。

「あぁ、俺だよ。今日は引っ越しだろ? その前にどんなところか見ておきたくさ……」

「あっ、御主人様(マスター)でしたか。今開けますので、少々お待ち下さい――」

 すっと消えるようにイヴの声がフェードアウトする。数分のうち、ドアの向こうから「どうぞ」と声がしたので、俺はためらいもなくその扉を開けた。

 ドア開けたのはいい。それはそれで問題ない。何も間違っちゃいないんだ。

だが――

「なんなの、そのカッコ……」


「いわゆる『裸エプロン』というものです。御主人様(マスター)の趣向に合わせてみました……」


 扉を開けたその向こうには、全身を包む白い肌の上にエプロンだけを纏ったイヴが静かに立っていた。

 誰だよ、ベタベタなお約束展開を望んでいないって言ったのはさ!

 こんなのお約束展開以上じゃん!

「ようこそいらっしゃいました。御主人様、どうぞ」

「…………」

「? どうかしましたか?」

 ――どうしたもこうしたも……。

「そんなにこの『裸エプロン』が気に入りませんでしたか? 変ですね? 私が独自に入手し、念入りなリサーチをした結果から導き得た、確たる『相手を喜ばす方法』のうちの一つだと判断したのですが」

「そーゆー問題じゃねえええええええええぇぇぇぇ!」

 俺の叫び声にどうしたと先輩や葛葉、結がドアから顔を出して覗き見る。

「ちょ、ちょっとイヴ! あなた、なんていう格好を――! いや、これは新しいイヴの思考ルーチンが確立したということなの? それなら、瑞希君をさらに長く主人として登録しておけば、さらなるイヴの成長が見込めるということなのっ!」

「なんだイヴ、夏にはまだ早いぞ? ……うん? いや、それがいわゆる『おしゃれ』という巷の流行を取り入れたものなのかっ! なんという情報網……」

「なんという直球従属姿勢……っ! 仕える相手がこのクズでカスだという点が気に入らないことこの上ないですがしかしっ! その滅私奉公の価値観は分かり合えるでしょう!」

「………………」

 もういろいろ突っ込むのも面倒だ。俺は後ろで三者三様の反応を示す言葉に返すこともなく、いたって普通の、ごくごく真面目な意見をイヴに返す。

「もぅいいから……。黙って服着ろ」

「……はい」

 ――もうなんだか引っ越しする前から疲れてしまった俺だった。



 イヴの『裸エプロンで御主人様出迎え大作戦』をスルーして、俺達は家の中へと入っていった。ほとんど掃除は終わったのか、床も壁もピカピカでほこり一つ落ちていない。

「あらかた終わっていたみたいだな」

「はい。三人分の引っ越し作業がありますので、できうる限り早めに作業に移れるようにと判断した結果です」

「あ、そう」

 イヴの言葉を半分受け流した俺は、リビングに続くドアを開けて中の様子を見た。まだ何も運び入れていないただ広い空間がそこにあったが、そのちょうど中間の位置の床に白く丸い物体がぽつんと置かれていた。

「うん? おい、イヴ。これゴミだろ? さっさと片付けろよ」

「ゴミとは失礼っスね!」

 瞬間、その白く丸い物体から細い管のようなものがにゅっと伸ばされた。いや、正確にはそれは首と顔で、小さな丸い二つの瞳が俺のことを睨んでいるようにも見える。

「……あれっ? お前は……」

「おぉ、ハクではないか!」

 俺が言う前に、葛葉がたたっと駆け出して飛び付いた。葛葉の姿が見えたのが嬉しかったのか、ハクはそのコウモリにも似た羽をパタパタと動かし、嬉しそうに「ごぶさたっス!」などと再会を喜んでいる。

もうなにがなんだかワケが分からない俺に、そばにいた先輩がそっと耳打ちをしてくれた。

「あの子も寂しかったみたい。ある日突然私のPCの中に来て『一緒にいてくれないっスか?』って頼まれちゃった」

「頼まれちゃった、って……」

「私もどうしようか迷ったんだけれど、イヴが『分かりました』って返事しちゃったから」

「イヴが?」

 俺は先輩の言葉に驚くと、ちらりと葛葉と一緒にハクを撫でているイヴの方を見た。今まで人間の行動や感情にしか興味や考察対象がなかったイヴを考えると、それはとても意外なことのように思えてならなかった。

「それで私も断りきれなくてね……。なんだか、『昔の自分』でも見ているようで」

 先輩はハクに自分の寂しかったあの過去を重ねているのだろう。すっとハクに視線を移した先輩の目がどこか哀しげなものに見えた。

「先輩……」

「まぁ、ハクちゃんは普通のペットとは違うから。食事……って言っていいのかな? 食べるものも『壊れたデータや削除対象のデータでいいっス』っていっていたから。私もPCのストレージ容量がこまめに掃除できてうれしいけれど」

 ……喜ぶところ、ソコなの?

 俺は微妙な気分を抱きながら、ハクとじゃれ合うイヴ達を眺めていた。

「うらあっ! 愚弟! さっさと仕事を始めろ!」

 いつの間にやってきていたのか、玄関の方から聞こえてくる姉ちゃんの声に、俺はハッと気づいたかのように引っ越しの作業へと取りかかった。

「うへぇ……」

 トラックの扉を開け、中にうず高く積みこまれた段ボールの数々を見た俺の口から突いてでる言葉はすでに疲労感が漂っていた。

 なんだかんだいいつつも、運ぶ荷物は三人分だ。「しょうがないよな」とそう思う反面、俺の中のやる気ゲージが一段と下がったかのような感覚を覚えてならなかった。



「ふぃ~~~っ、と。これで最後かな?」

 俺は姉ちゃんと一緒にトラックから運んできた液晶テレビを所定の場所に置くと、額に浮かんだ汗をぐいっと手でぬぐった。

「だな。荷物はすべて運び入れたし、荷解きの方も葛葉ちゃん達がやっているからそっちは任せて大丈夫だろう」

「姉ちゃんは?」

「私は借りてきていたトラックを返してくるよ。お前は葛葉ちゃん達を手伝っていてくれ」

「了解」

 そう告げると、姉ちゃんは疲れも見せない顔で玄関を出ていった。警察官という職業柄か、こういった体力は日頃から鍛えている姉ちゃんに敵わない。

 まぁ、俺も姉ちゃんの『鍛錬』というシゴキに付き合わされているからそこそこ体力には自信がある方だとは思うけど……。やっぱり本人には敵わない。

「もうこんな時間か……」

 ちらりと窓の外を見れば、西の空がオレンジ色に染まっていた。午前中から仕掛り始めたというのに、これだけの時間に終わったとなると、一体全体どれほど荷物が多かったんだろうか。

「……にしても、最初に見たときとはエライ違いだな」

 何もなかったフローリングの床は綺麗な模様の入った絨毯が敷かれているし、大画面の液晶テレビや黒い革張りのソファもその前に腰をおろしている。一体何の冗談なのか、窓の横には大きな観葉植物もあるし、カーテンもシックな色で落ち着きを感じさせる。

「あぁ、これ……空気清浄機だったのか」

 俺はふと周りを見渡すと、テレビの横にある白い大きめの箱に気が付いた。

 そういえば、これ姉ちゃんが半泣きで運んでいたっけ。

 俺の姉ちゃん――師丘朱音という人物は、ヒマさえあればビールを飲んで煙草を吹かすような人物だ。俺は別に煙草の白煙が生理的に受け付けない、という神経過敏な反応は見せないため、こういった空気清浄機という上等なものは必要ない。

けれど、一緒に姉ちゃんと暮らす上でたぶん先輩が嫌がったのだろう。その空気清浄機には『煙草を吸ったらつけること!』と大きな張り紙がしてあった。

「姉ちゃんにはキッついなぁ……」

 そんな張り紙を見た俺は、ついくすりと笑みがこぼれてしまう。一体姉ちゃんはどんな思いでこれをはこんでいたのだろうか。

「煙草は百害あって一利なし、というものよ。ゆくゆくは朱音さんにも禁煙してもらいますから。これでも精一杯の譲歩はしたんです」

 俺の声が聞こえたのか、いつのまにか背後には先輩が立っていた。振り向くと少しばかり不満げな顔をのぞかせながら「まったく……早くどうにかしないと」と姉ちゃんには耳の痛い言葉が聞こえてきそうだ。

「あれっ? 先輩、もうそっちは終わったんですか?」

「大体は、といったところかしら。本当はもうちょっとかかるみたいだけれど、あとは私とイヴの二人で終わらせられる……というより二人でやった方が早く終わる、というところかしら」

「……なんだかもうすみません」

 おそらく葛葉と結が例によって例の如くはしゃぎ回って先輩達に迷惑を掛けているのだろう。まったくもってどうしようもない手のかかる神様だ。

「ねえ、瑞希君」

「はい」

「……葛葉ちゃんと結ちゃんって、本当に神様なのかしら?」

「………………さぁ?」

 それは俺にも皆目見当つきません。



「それじゃあ引っ越し祝いに……かんぱあああああああぁぁぁい!」


「「「「「かんぱーいっ!」」」」」


 姉ちゃんの掛け声とともに、俺達はグラスをテーブルの中央でゴチリとぶつけあった。皆が皆嬉しそうな顔を浮かべて新しい先輩とイヴの門出を祝っている。

「早く肉をくれ! 肉をっ!」

 ……前言撤回。約一名それとは別のことを考えているようだ。ほんっとにコイツはどうしようもねえな!

「あぁ待て待て葛葉。そっちはまだ焼けてないから……。ほれ、先にこれやるよ」

 俺は葛葉の皿を受け取ると、いい具合に焼き上がった肉を放り込んだ。目の前にはついついごくりと喉を鳴らせてしまうほどにいい音色を奏でる焼肉の音が聞こえている。

「おぅ、愚弟っ! じゃんじゃん焼いてじゃんじゃん食え! 葛葉ちゃんも気にするなよ。ありったけの肉を買って来たからな!」

「肉だけな! ったく、少しはバランス考えろよ……」

 姉ちゃんがトラックを返しに行った帰り、今日の晩飯にと大量の肉を買って来た。単純にそれだけで今日の献立というか、先輩の引っ越しパーティーの料理が決まったのだが……姉ちゃんが買って来たのは本当に肉だけだったのだ。それも節操無く豚と牛、それに鶏肉まで買ってきてやがった。

 ……ホントに自活能力ねえな。「焼き肉」なのに鶏肉買ってきてどうするんだよ。肉ならなんでもいいと本気で思っていたんだろうか。

 ……いや、多分本気でそう思っていたんだろう。でなけりゃ、普通ここまで買わない。

「なんだよ、せっかく買って来てやったのに。それが姉に対する言葉かっ!」

「だあああぁぁぁっ! アブねえ!」

 焼いている最中にこづかれるのは勘弁してほしい。ケガしたらどうすんだよ!

 姉ちゃんはそんな俺の心の声をも無視して、一人で缶ビールをぐびぐびと煽っていた。すでに酔っ払っている。……まぁ一人で十本近くも空ければ必然的にそうなるだろうけど。

「それにしても、折角引っ越してきた当日だというのに……これでは天井や壁が汚れてしまうわ。あとで掃除しないと……」

「先輩、この場で空気をブチ壊すような発言はしないで下さいよ……。今は考えるのはナシにして、素直に楽しみましょうって」

「そうだぞ美夏っ! う~ん、この肉はうまいな!」

「ですね、お姉様。下僕としてはまずまずといったところでしょう」

 まぁ、コイツらはコイツらでそんなことには気も回さないと思うけどな。

御主人様(マスター)、先ほどから食べてないようです。……どうぞ」

「おぉ、サンキュ」

「――おぃ、コレ……何かじゃりじゃり言っているんだけど」

「すみません、『肉は良く焼けたものが良い』との調査結果から、中でも一番良く焼けたものを御主人様に渡したのですが」

「良く焼けたっつうか、コレ炭じゃん!」

「お気に召しませんでしたか?」

「当たり前だっ!」

 イヴは叱られてしゅんとうつむくのかと思えば、「なるほど、これが俗に言われるドジっ子というものですか……」と一人分析を始めていた。

 う~ん、タダでは転ばない恐ろしいALだ。

「……ったく」

「御主人様」

 なおも俺を呼ぶイヴ。今度は何だ? 今度は炭化した野菜でもくれるってのか? それはそれでどんな罰ゲームだよ。

「では、お詫びに次の料理は私の身体に盛りつけを――」

「誰がするかっ!」

 俺は焼けた肉をぱくつきながら、イヴの申し出をソッコーで却下した。

 ――ホントにコイツ、高性能ALなのか? と激しく疑問に思う俺だった。



 こんな感じで夜は更けていき、食事の後にはゲーム大会へと移行した。参加者は俺、先輩、イヴ、葛葉、結の計五名。姉ちゃんは明日から仕事ということで、飲んで食ったら一人部屋に戻ってしまった。

 土曜日なので、俺達学生(一部学生じゃないヤツもいるが)は明日も休日だ。けれど、こういった場面を見ると、「大人って大変だな……」とつくづく思う瞬間でもある。まぁ、警察官という職業柄いたしかたない部分ではあると思うけど。

「ぬぅっ! イヴ、ちょっとは手加減してくれぬかっ! お主、モロロよりも強いぞ!」

「どちらにしても、怒るでしょう? と、私は今までのデータからそのように判断します」

「ぐああああぁぁっ! 容赦ない!」

 今、テレビの前では葛葉とイヴがコントローラーをがちゃがちゃといじっていた。ゲームは以前に俺が葛葉と対戦したソフトだ。画面には葛葉が操る男性キャラとイヴが適当に選んだ女性キャラが拳を交えている。

 一見して女性キャラは初級者用のもの、という意味合いが強く攻撃力は他の男性キャラに比べれば弱い部類に入る。だが、イヴはそのハンデさえも軽々と越え目の前の敵に強烈なコンボをバカスカとヒットさせていく。

 結果、というより当然のようにイヴがストレート勝ちを決めた。

「ずるいっ! 卑怯だ! 少しは手加減しろ!」

「ほら怒った」

「……お姉様、先ほどからイヴに乗せられ過ぎです」

「あはは」

 まぁ、そういうなよ結。アイツは怒っちゃいるがどこか楽しんでいるようだしさ。

「もう一回だ! 今度こそ負かすっ!」

「ふっ……返り討ちにしてやるゼ」

 イヴ、どこでそんなセリフを覚えてくるんだ? それじゃあどこぞのやられキャラだぞ。

新しく住人が増えたマンションの一室は、そんなふうにその後夜遅くまで笑いが絶えることはなかった。

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