1:雨好きの男
その日は、夕方から秋にしては冷たい雨が降っていた。
フランク・ライトは、屋敷の廊下を足早に進んでいた。人が好さそうだと称される面立ちはいつになく厳めしく、後ろを追いかける妻、ミィもいつになく歩幅を大きく焦ったように夫を追いかけている。
貴族の三男坊、分家として小さな屋敷と妻を与えられ、都外れに住む若者は、今朝方親友のうれしい知らせを聞いたばかりだった。
扉を開けると、貴族というには質素な広いだけのリビング。暖炉の前に男は立っていた。
「シオン! どうしたんだ、こんな夜遅くに。生まれた知らせか? 」
「フランク…いや、まだだ」
黒髪から滴を垂らして、男は苦く笑って首を振る。彼は妻が今朝方に産気づいたばかりのはずだ。わざわざこんな時に来るなんて―――――ましてや、初めての子は難しいと聞くのに。
苦みの取れないシオンの表情にフランクは眉根を寄せ、その肩を軽く叩いた。
「本当にどうしたんだ。何かあったのか? まさかアイリーンに……」
「いいや、アイリさんも子供も大丈夫。安産だと」
「なら……」
ミィがシオンにタオルを差し出す。
「ありがとう」シオンが受け取ると、彼女は気を利かせたのか部屋から退出した。
「酷く濡れてる。拭いたほうがいい」
「いいよ、時間が無いんだ………どうせまた濡れる」
「うちの床が濡れるだろ」
「…ああ、それもそうか」
大人しくシオンは触れた頭に布を被った。中肉中背のシオンのつむじはフランクの目線より少し低い位置にある。
身分や屋敷の大きさに比べ、自身も生活も派手を苦手とするフランクにとって、同い年の親友は弟分の様な存在だった。黒髪に勝気な紺の眼、どこぞの美姫の様な顔立ちをしていながら、虫も殺せない素朴な彼は、半年前に卒業したばかりの学生時代からの付き合いだ。
卒業と同時に年下の許嫁との結婚を控えていたフランクと違い、シオンはまるきりの恋愛結婚、それも巷で言う出来ちゃった婚というやつである。
シオンの年上の妻アイリーンは豪胆な性質の才女で、同じ学校の卒業生になる。
男前なアイリーンと、慎重派のシオン。いささか男女逆転している様にも見えたが仲のいい二人だった。そこに決定打を打ったのが、卒業間近のアイリーンの妊娠である。
ミィとも仲が良く、彼女の結婚して最初のおねだりは、アイリーンとの共同の結婚式だった。
もしかしてそれがしたいがために、アイリーンと謀ったのではとすら思っている。「どうせいつかできるモノだから」と、アイリーンならやりかねない。幸いにもミィは妊娠はまだだけれど、自分にも他人事ではないとフランクは戦々恐々としていた。
今日の昼に今シーズン使えるようにしたばかりの暖炉が、早くも仕事をしてシオンのうなだれた姿を照らしている。顔色が悪かった。
まさか父親のほうがマタニティブルーというやつなのだろうかとも思ったが、それは無いなと思い直す。アイリーンに引きずられて、シオンは思い切りがいい。あれだけ馬鹿みたいに喜んでいてそれは無い。
むしろ、もっと――――――
「フランク、話がある」
「何でも言えよ。僕にできることなら」
「……アイリさんと子供を頼む」
「……どういうことなんだ? 」
「俺は……子供が生まれる前に発たなきゃいけなくなった」
うなだれてシオンはきつく目を閉じていた。青い顔に浮かんでいるのは脂汗ではないだろうか。
「どうした、何があった」シオンは首を振る。
「ごめん、何も言えないんだ。頼むよ、君にしか頼れない」
「アイリさん達を置いてどこで何をするっていうんだ」
「…彼女がいるからこそなんだ」
「お願いだ、ちゃんと話してくれ。僕は、まず君が心配だ。―――――――君の秘密とやらと関係あるのか? 」
シオンは学生時代、欠席の多い生徒だった。
トラブルは多かったが、どちらかと言えば真面目な彼の欠席理由は、『持病のため』とのことだった。
しかし学内から『消える』『戻ってくる』のプロセスは、近くで見ていた彼にはどこかに行っていたように思えてならない。
シオンには何か、大きな隠し事があるのだ。ずっと口には出せなかった確信の言葉だった。
しばらくの沈黙の後、シオンはようやっと口を開く。
「……俺も、何から話したらいいのか……そもそも話してもいいのかもわからない。話す時間もないんだ」
「…ならこれだけ教えてくれ。いつ帰ってこられる?」
「わからない」
「分からないことばかりじゃないか―――――まさか、生きるか死ぬかも分からないとでも言うつもりか? 」
「ああ」
「………」
あっさりと返したシオンに、フランクは目を剥いた。
「シオン……」
「俺は、アイリさんたちを死んでも守りに行くつもりだよ」
「そんなのは……頷くしかないじゃないか」
「ありがとう」
また苦笑いだ。フランクは一つも笑えなかった。
「あら? シオンさんはいつお帰りになりましたの? 」
「…ついさっきだよ」
「そう……暖炉はやっぱり少し暑いわね。落としましょうか」
「…ミィ、銀蛇に行く。準備してくれ」
「私もですか?」
「ああ」
「はい」