14:理想郷
街を見下ろす小山の上で、アン・エイビーはたった五年間の『故郷』に思いをはせた。
異端者たちが辿り着くこの場所は、多くの故郷を失くした者達にとっては、唯一の安息の地なのだと思う。
そんな異端者たちに守られている本の一族もまた、ここがどことも代えがたい故郷なのだ。
自分がどんな場所で、どんな人物から産まれてきたのか、それどころか、どこでどうして幼少に慈しまれて育ったのかの記憶もない。
子供を作る方法は知ってるが、自身が幾度その行為を繰り返したとしても、それを命を創造できる崇高な行為として捉えてはいない。
女の身でありながら、十月十日『我慢』と重ねるなんておぞましいことだ。この五年の『我慢』も、三月に一度は遠出して『息抜き』しなければ、発狂していたに違いないというのに。
街を見下ろす。小箱をざらりと並べたような街並みは、この世界の中心都市というにはチンケだった。その中で異彩を放つ、白壁の中にそびえる管理局のビルだって、ようするに、このちっぽけなもの共を守るために存在しているのだ。
この国の人々が望むのは、平凡と安穏、生きて死ぬまで全てを受け止めるだけの家。
絵空にも描かれない、ささやかすぎる日常。
アンは視線をさらに落としてこの身を見た。
むき出しの肌に流れる血の色彼らとなんら変わりない。彼らがこの故郷の形を理想とするのなら、アンの故郷はこの皮膚の下にこそある。
どこに行っても(それが異世界であっても)、変わらない剥いた肉色と温度に満ちた海が、アンのビジョンとしてあった。
次に、先ほどまで腕に抱いていたあの子を想う。
あの子に見せてやるのだ。故郷の、その皮膚の下、肉の色、血潮。一の生に一度しか見られない光景になる。
その時こそが、アンとチャックにとっての『故郷』が合致する瞬間だった。
旅立ちの華として、これほど素晴らしいものはない。
『糸』はチャックが、その足で張ってくれた。糸はぐるりと居住区の中を結んで、凶器になる瞬間を今かと待っている。
「頑張らなくちゃ」
アンは自身に向けて急かすように鼓舞して、小山の先にある裸の落葉樹の枝に手をかけた。
枝にはまっすぐ、眼下へ続く糸が結び付けられている。アンはそれを手繰り寄せた。
灰色の冬空の下の家々は、色を塗られるのを待っているかのようだ。
アンは強く地面を蹴って、空中に躍り出た。
まっすぐ、彼の家を目指して。
※※※※
外は曇天だというのに、室内はブラインドが下まで降りている。昼時ながら、夕刻の様な薄暗さだった。
トム・ライアンは、いつも通りの日常を過ごす。
資料のみっちり詰まった棚の影、デスクで紙に埋もれ、文字を目で追い、脳で咀嚼して、肥やす。頭の中に無い年月をかけて陳列されたそれらは、トムの財産である。
もし平凡な今日、この後に、世界を揺るがす何かが起こったとして、さて何を特別なことをするわけでもない。第二部隊長として思い描く『対処』をするのみだ。
外側で何が起こったとしても、トムはそれでいい。
それが求める幸せだ。