3:発火準備
視点B:
12月20日 朝
スティールは、粥に少量の薬味だけの質素な朝食を口に運んでいた。その周囲で、少女の様に小柄な母親が追い立てるように食卓の片づけを始めている。
スティールは眉をしかめ、薄味の米を胃に収める作業に没頭した。
「スティール、あなた今日ビスを迎えに行ってくれませんか? 」
「…は? 」
思わずスティールは、母に向かって不機嫌な重低音で返した。まさしくこの一文字が、彼の心証全てを語っている。
「だってどうせ暇しているでしょう? 」
ロキは淡々と断定した。この母は、息子相手だろうと表情を変えたりはしない。
「……待ち合わせは管理局だろ? 父さんはどうしたんだよ、今日は休みって言ってたじゃないか。自分の仕事場なんだからさぁ」
「父さんは仕事ですよ。昨夜からまだ帰ってきていません」
スティールは舌打ちした。これ以上なく憂鬱である。
「行けるでしょう? 」
母の断定した口ぶりに、スティールは怒気を殺した息を吐く。
バシン!
箸を乱雑に食卓に叩きつけた。椀にはまだ三分の一ほど中身が残っている。
母親に背を向けて無言で部屋に退散することで、スティールは返事をした。
時間になると玄関を出ていく息子の背に、ロキは溜息を吐いた。
思えば、息子を手放しで褒めることを一度もしなかったように思う。
学者気質の『変人ロキ』は、子供が何かを出来るようになったとしても褒めることが出来なかった。どうしようもない気恥ずかしさが先立った。
夫であるダイモンが、些細なことでも猫かわいがりに褒める男だったので、ありがたいと同時にその役割を放棄していた。
ダイモンは無邪気だ。大きな図体をして、ささいなことでも良く笑う白痴ではないかと周囲に思わせるほど良く笑う。
あの笑顔は、周囲にとって癒しではなく凶器として働いた。あの取り繕わない無邪気な人格が与えるのは、安心ではなく、自問と不安。
逆にロキは、笑わない女だった。人生も人格も早々に破綻していた。『変人ロキ』は真に天賦の才があり、変人で、孤独だった。
流しの淵に手をついて、ロキは物思いにふける。
長屋住まいが基準のこの国にしては、十二分に大きい一戸建て。部屋は6部屋、念願の地下室のある研究所も兼ねている我が屋の欠点と言えば、いささか古すぎるところだろうか。さらには一目で貧しさが見抜ける。
建物自体にそう価値は無く、土地だけの我が城である。
(……このように思い返すことも、走馬灯というのでしょうかね――――――)
コックの緩んだ蛇口から桶へ、水。
波紋。
ロキは目をつむる。
息子たちの行く末に、不安が消えることは無い。
ビスなどまだ13歳ぽっちだ。離れて暮らしているのだ。
(……ビスはもう、私の知らないものを見て、知らないものを持っている)
離れて暮らしているのだから、当たり前のことだ。けれど、でも。(私は忘れられてはいないだろうか)
初めて男相手に、このようなことを考えたかもしれない。相手は息子だけれど。
(あの子にとって私は、ちゃんと母親なんだろうか)
ガタン
奥の部屋でたった音に、ロキはハッと顔を上げた。ひときわ立て付けの悪い、夫婦の寝室の引き戸の音である。
天然のウグイス張りの廊下を、壁伝いに台所にダイモンが現れた。彼は昨夜のうちに帰宅している。スティールが気付かなくてよかったと思う。
こんな姿は、見せられない。
片目だから、動きがとりづらいのだろうか。彼の左目には白いガーゼが、直接テープで張り付いている。額に汗が浮いていた。摘出・施術したのはロキだったが、その痛ましさに、さしものロキも眉をしかめる。
「今、鎮痛剤を……」
「いいよ、どうせ無駄になる」
この時もダイモンはやんわりとロキに笑いかける。
『普通』になれなかったロキにとっては、ダイモンの笑顔は救いだった。救いになっていた。
わけもわからず涙が出たのは、スティールを産むとなるにダイモンが、手を取ってくれたのが初めてだった。
次に涙を流したのは、ビスを身ごもった時。それ以来だった。
少女の様に小柄な体躯のロキの頭を、長身のダイモンがそっと引き寄せる。
「……後を頼むね」
絞り出した囁くような声だった。
「――――――はい……っ」
不安だった。残されること。残していくこと。
この不安を抱えたまま置いていくことは、罪だと思った。
子供たちに親が最後に残すのが、身勝手に死んだという罪の事実である。それがあまりにも悲しかった。
ダイモンが管理局の制服を羽織るのを手伝った。
先ほど息子がくぐった玄関扉を、よろよろとダイモンは出ていく。ロキはそれを玄関まで見通せる台所から見送った。
扉が閉まる。
ロキはすっくと顔をあげると、自身の研究所にすべての準備を終えんと消えた。
ダイナミック☆反抗期…っていうのが下書きノートの端っこに書いてありました。