9:その1.怖いもの
視点A:
チャックが怖いもの。
養父が帰宅する時の扉が開く音。
「おかえりなさい」と、おばさんが迎える音。
「おかえりなさい!」と、従妹が父親に駆け寄る足音。
「あの子は?」「それが…」薄い壁の向こうで、自分のことを話す声。
トントントントン、ガチャリ 「チャック? 起きてるか? 」部屋の扉が開いて、自分を食事に誘う声。
この一家と同じ食卓に着くとき。
会話を斜め後ろから見ているとき。
僕にわからないことを話しているとき。
彼らが僕を、思い出したようにちらりとうかがう視線。
壁の向こう側の『日常』というもの。彼をおいていく、『当たり前』の流れ。
アン・エイビーを一言で言うなら、『下品』である。
下劣、下賤、道徳に背を向け闊歩することを何より好む。故に、『下品』である。
豊満すぎる肉付きのいい身体と、目尻の垂れた熱に浮かされたような目や、欲しがる様に半開きの口元の右端に、彼女の特徴と言える黒子が一つ。
ピンクのルージュ、紫のアイシャドウ、濃い媚びるための化粧に、肌を露出するフリフリヒラヒラの服、頭のリボン。
掛け値なく、彼女の趣味と生きがいは、生物のあらゆる体液をその身に浴びることである。
彼女はある日現れた、少年の部屋の侵入者だった。幻のような年上の友達とのおしゃべりは、『秘密』という関係も相まって、とても楽しいものだった。
この家の住人は昼間、主人は職場に夫人は畑に長女は学校へと行ってしまう。彼は一人きりで、この家の一室に閉じこもる毎日だった。
奇しくも、アンのその浮世離れした外見は、少年にとってまさに『幻のような』『夢の住人の様な』存在を助長した。泥棒ならばこんなに派手な外見をしているわけもないし、家主に気付かれず何度も音もなく、家の奥の一室に侵入することが出来たこともそうだ。
アンは初対面から湿った陰の臭気をプンプン漂わせていたが、八歳の少年には分かるわけもなく、舌っ足らずで甲高い、フワフワいた口調の女は、むしろ話しやすかったのである。
チャックは今、それらをとても後悔している。
「あっ、あっ、あっ、あっ、あっ――――――」
ただ淋しかった。一人も怖かった。
家主のいない家で知らない人間と会うなんて、とんでもないことだ。わかっていたけれど、淋しかった。
アン・エイビーは次の日、やはり現れた。チャックは部屋の隅で恐怖にあえぐことしかできない。
本性が出た今では、彼女はおおよそこの世のものと見えなかった。
何せ、たった一夜しかたっていないのに、切れた指はすっかり骨と肉でくっついているのである。
「うーん、いまいち面白くないナ」
アンは唇をとがらせて言った。
「チャック、ノルマを作ったげる」
実に楽しそうに、アンは笑った。