婚約破棄だって正式な手続きが必要です
明日の舞踏会で、私は婚約破棄をするつもりだった。
婚約者の名前は、エルネスタ・ヴァルケン。侯爵家の令嬢であり、私とは幼い頃から婚約関係にある。
しかし、私は彼女を愛していなかった。
彼女も私を愛していないだろう。
そもそも、私たちの婚約は両家の利益を考えて結ばれたものであり、当人同士の気持ちなど二の次だったのだ。
ならば、婚約を続ける意味もない。
私はそう考え、明日の舞踏会で婚約破棄を宣言することにした。
ただし、一つ問題があった。
私は面倒なことが嫌いなのだ。
婚約破棄を宣言した後になって、あれが必要だ、これが必要だと言われるのは困る。
できれば、事前に必要な手続きをすべて済ませておきたい。
そう思った私は、朝一番に側近のクラウスを呼び出した。
「クラウス。婚約破棄の手続きをしたい」
「かしこまりました」
「今日中に終わらせたい。どこへ行けばいい?」
「王宮行政庁の婚姻管理課でございます」
「よし。すぐに向かおう」
こうして私は、婚約破棄の手続きを始めた。
このときの私は、まさか一日中、建物の中を歩き回ることになるとは思ってもいなかった。
*
王宮行政庁の三階に、婚姻管理課はあった。
窓口には眼鏡をかけた男性が座っており、私たちを見ると丁寧に頭を下げた。
「本日はどのようなご用件でしょうか」
「婚約破棄の手続きをしたい」
「婚約解消の手続きでございますね。かしこまりました」
男性は机の引き出しから一枚の紙を取り出した。
「それでは、こちらの受付票にご記入ください」
「これを書けばいいのか?」
「はい。ご記入後、二階の婚約解消課へお持ちください」
「……ここでは受け付けていないのか?」
「受付票の発行はこちらで担当しておりますが、婚約解消そのものは婚約解消課
の管轄となっております」
「では、なぜ最初から二階へ行かせないのだ?」
「受付票が必要ですので」
私は受付票を見つめた。
氏名、住所、婚約者の氏名、婚約年月日、来訪目的。
特に難しい項目はない。
私はさっさと記入し、男性に提出した。
「はい、確かに承りました。こちらが受付票でございます」
「ありがとう。では、二階へ行けばいいのだな?」
「はい。ただし、婚約解消課へお進みになる前に、廊下の突き当たりにある総合案内で、窓口番号をご確認ください」
「……なぜだ?」
「窓口の担当が曜日によって異なりますので」
「今日は火曜日だぞ」
「はい。火曜日の担当窓口は、二階の奥から二番目でございます」
「最初からそう言ってくれ!」
「申し訳ございません。総合案内は、窓口番号のご案内を担当しておりますので」
私は受付票を握りしめ、総合案内へ向かった。
総合案内では、若い女性が笑顔で対応してくれた。
「婚約解消課の窓口番号を教えてほしい」
「かしこまりました。受付票を拝見いたします」
女性は受付票を確認すると、案内図を指さした。
「婚約解消課は二階の奥から二番目でございます」
「それは聞いた」
「それでは、こちらの案内票をお持ちください」
「案内票?」
「各窓口でのご案内には、こちらの案内票が必要となります」
「受付票では駄目なのか?」
「受付票は受付票、案内票は案内票でございますので」
「……」
私は案内票を受け取り、二階へ向かった。
*
二階の奥から二番目の窓口には、すでに数人が並んでいた。
私は列の最後尾に並び、十五分ほど待った。
「次の方、どうぞ」
ようやく順番が来た。
「婚約破棄の手続きをしたい」
「かしこまりました。受付票と案内票を拝見いたします」
私は二枚の紙を差し出した。
職員はそれらを確認し、頷いた。
「はい。書類に問題はございません」
「では、申請書をくれ」
「申請書は四階の婚約関係登録課で配布しております」
「……何?」
「当課は婚約解消申請の受理を担当しております。申請書の配布は、婚約関係登録課の管轄となっております」
「ならば、なぜここに来させた!」
「受付票と案内票の確認が必要ですので」
「その確認は終わっただろう!」
「はい。確認は完了いたしました」
「では、申請書をくれ!」
「申請書は四階でございます」
私は窓口の前で立ち尽くした。
クラウスが、そっと私の肩に手を置いた。
「殿下。四階へ参りましょう」
「……そうだな」
私は怒りをこらえ、階段を上った。
四階の婚約関係登録課は、妙に立派な部屋だった。
壁には歴代の国王の肖像画が並び、窓口には金色の装飾が施されている。
「婚約解消申請書をいただきたい」
「かしこまりました。こちらが申請書でございます」
職員は一冊の冊子を差し出した。
私は受け取った。
表紙には『婚約解消申請書記入要領』と書かれていた。
「……これは何だ?」
「申請書の記入要領でございます」
「申請書は?」
「申請書そのものは五階の婚約関係証明課で配布しております」
「なぜここで記入要領を配っている!」
「記入方法のご案内を担当しておりますので」
「申請書を持っていないのに、記入方法だけ教えられても困るだろう!」
「ごもっともです」
「ごもっともなら、申請書をここに置いておけ!」
「申し訳ございません。規則により、申請書の配布は五階となっております」
私は冊子を抱えたまま、五階へ向かった。
*
五階の婚約関係証明課は、三階や四階と比べてずいぶん簡素な部屋だった。
窓口の上には、小さく課名が掲げられている。
「婚約解消申請書をいただきたい」
「かしこまりました。こちらでございます」
職員は一枚の紙を差し出した。
私は思わず声を上げた。
「これだ! これが欲しかったのだ!」
「恐れ入ります。ただし、こちらの申請書は、そのままではご使用いただけません」
「……なぜだ?」
「書類確認課で証明印を押していただく必要がございます」
「どこにある?」
「一階でございます」
「一階!?」
「はい。書類確認課は一階の中央窓口にございます」
私は申請書を握りしめた。
四階で記入要領をもらい、五階で申請書をもらい、一階で証明印を押してもらう。
どう考えても順番がおかしい。
「なぜ最初から一階で申請書を配らないのだ!」
「申請書の配布は当課の管轄となっておりますので」
「では、なぜここで証明印を押さない!」
「証明印の押印は書類確認課の管轄となっておりますので」
「……もういい!」
私は階段を駆け下りた。
*
一階の書類確認課に着いたのは、午前十一時を少し過ぎた頃だった。
「この申請書に証明印を押してほしい」
「かしこまりました。こちらの書類は、正式に発行されたものでしょうか?」
「五階で受け取った!」
「五階は配布を担当しております。正式な発行は六階の書類発行課となっており
ます」
「……」
私は申請書を見た。
確かに、どこにも発行印は押されていない。
「では、六階へ行けばいいのだな?」
「はい。正式に発行された書類をお持ちいただければ、証明印を押すことができます」
「最初からそう言ってくれ!」
「申し訳ございません。こちらでは書類の確認のみを担当しておりますので」
私は六階へ向かった。
六階の書類発行課では、職員が書類の束を整理していた。
「婚約解消申請書を正式に発行してほしい」
「かしこまりました。それでは、発行依頼書をご提出ください」
「……発行依頼書?」
「はい。申請書の発行には、発行依頼書が必要となります」
「その発行依頼書はどこにある?」
「七階の申請書類管理課で交付しております」
「……」
私はしばらく職員を見つめた。
「申請書を発行してもらうために、発行依頼書をもらいに行くのか?」
「はい」
「では、発行依頼書をもらうために必要な書類は?」
「書類取得許可証が必要となります」
「それはどこでもらえる?」
「八階の権限認定課でございます」
私はクラウスを振り返った。
「クラウス」
「はい」
「今、何時だ?」
「午前十一時二十分でございます」
「そうか」
私は頷いた。
「まだ午前中なのだな」
「はい」
「よかった。今日中に終わりそうだ」
クラウスは何も言わなかった。
*
八階の権限認定課に到着した頃、ちょうど昼休みが始まった。
窓口には『休憩時間 十二時から十三時まで』と書かれた札が置かれている。
「……クラウス」
「はい」
「昼食にしよう」
「かしこまりました」
私たちは王宮行政庁の食堂で昼食を取った。
食事をしながら、私はこれまでの経緯を振り返った。
三階で受付票をもらった。
総合案内で案内票をもらった。
二階で四階へ行けと言われた。
四階で記入要領をもらった。
五階で申請書をもらった。
一階で六階へ行けと言われた。
六階で七階へ行けと言われた。
七階で八階へ行けと言われた。
「……クラウス」
「はい」
「私は、婚約破棄をするだけなのだぞ」
「存じております」
「なぜ、こんなことになっている?」
「それぞれの課が、それぞれの業務を担当しているためかと」
「一つにまとめればいいだろう!」
「その場合、組織再編の手続きが必要になります」
「もういい!」
私はスープを飲み干した。
午後一時になった。
私たちは再び八階へ向かった。
*
「書類取得許可証を発行してほしい」
「かしこまりました。ご本人確認をさせていただきます」
「私は王子だぞ」
「存じております。ですが、規則により身分証明書のご提示が必要です」
「これでいいか?」
私は王族の身分証明書を差し出した。
「ありがとうございます。確認いたしました。それでは、書類取得許可証の申請
書をお渡しいたします」
「……申請書?」
「はい。こちらにご記入ください」
私は申請書を受け取った。
名前、住所、取得したい書類、取得理由。
最後に、申請者の身分を証明する書類の番号を記入する欄があった。
「……さっき身分証明書を見せただろう?」
「はい。こちらは番号を記録するための欄でございます」
「では、記入すればいいのだな?」
「はい。ただし、身分証明書の番号を確認するため、三階の身分登録課で証明を
受けていただく必要がございます」
「……何だと?」
「身分証明書の番号に誤りがないことを確認するためです」
「私は今、身分証明書を見せただろう!」
「はい。しかし、こちらでは身分証明書の番号の正当性を証明することができません」
「では、なぜ身分証明書を見せさせた!」
「ご本人確認のためでございます」
「番号の確認は本人確認ではないのか!」
「担当する業務が異なりますので」
私は机に突っ伏した。
「クラウス。もう帰ろう」
「まだ書類取得許可証を取得しておりません」
「そんなものはいらん!」
「発行依頼書を取得するためには必要です」
「発行依頼書など、もうどうでもいい!」
私は顔を上げた。
「私は婚約破棄をしたいだけなのだ!」
窓口の職員は、困ったような顔をした。
「お気持ちはお察しいたします。ですが、こちらでは婚約破棄の手続きは受け付
けておりません」
「知っている!」
「婚約解消課は二階でございます」
「それも知っている!」
「そちらで必要な書類をご確認ください」
「何度も確認した!」
私は立ち上がり、窓口を後にした。
*
午後二時。
私は三階の身分登録課にいた。
身分証明書の番号を証明してもらうためだ。
「身分証明書の番号を証明してほしい」
「かしこまりました。こちらの番号証明申請書にご記入ください」
「……また申請書か」
「はい。ご記入後、四階の身分証明管理課で番号の照合を受けてください」
「ここではできないのか?」
「番号の登録は当課の管轄ですが、番号の照合は身分証明管理課の管轄となって
おります」
「では、照合してから証明すればいいだろう!」
「照合には、証明申請書が必要となります」
「その証明申請書を出すために、今、証明申請書を書いているのだろう!」
「こちらは番号証明申請書でございます。照合には別の書類が必要となります」
私は口を開いた。
閉じた。
そして、もう一度開いた。
「……四階へ行けばいいのだな?」
「はい。身分証明管理課は四階でございます」
私は四階へ向かった。
四階の身分証明管理課では、番号の照合を受けることができた。
ただし、照合結果を証明するには、五階の証明書発行課へ行く必要があるという。
五階の証明書発行課では、証明書を発行するために、六階の証明書交付課で交付票を受け取る必要があると言われた。
六階の証明書交付課では、交付票を受け取るために、七階の交付資格確認課で資格確認を受ける必要があると言われた。
七階の交付資格確認課では、資格確認をするために、三階の身分登録課で発行された番号証明申請書が必要だと言われた。
私は、その場で立ち止まった。
「……クラウス」
「はい」
「三階で番号証明申請書をもらった。四階で照合した。五階で証明書を発行してもらおうとした。六階で交付票をもらおうとした。七階で資格確認をしようとした。そして、三階で発行された番号証明申請書が必要だと言われた。私は、三階に戻るのか?」
「そのようですね」
私は壁に手をついた。
目の前が暗くなった。
だが、倒れるわけにはいかない。
私は王子である。
王子たるもの、どれほどの困難にも立ち向かわなければならない。
「……三階へ戻るぞ」
「かしこまりました」
*
午後四時。
私は三階の身分登録課に戻った。
窓口の職員は、朝と同じ人物だった。
「本日はどのようなご用件でしょうか」
「番号証明申請書を、もう一度発行してほしい」
「かしこまりました。先ほど発行した申請書はお持ちでしょうか?」
「持っている」
「では、そちらを四階の身分証明管理課へお持ちください」
「もう行った!」
「照合はお済みでしょうか?」
「済んだ!」
「それでは、五階の証明書発行課へお進みください」
「行った!」
「六階で交付票を取得されましたか?」
「取得していない!」
「では、六階の証明書交付課へお進みください」
「七階へ行けと言われた!」
「七階では資格確認が必要ですので、三階で発行された番号証明申請書をお持ちください」
「それを持っていると言っているだろう!」
「それでは、問題ございません」
「問題だらけだ!」
私は叫んだ。
廊下を歩いていた人々が、一斉にこちらを振り返った。
職員は、申し訳なさそうに頭を下げた。
「申し訳ございません。こちらでは身分登録に関する手続きを担当しておりますので、婚約解消に関するご相談は二階の婚約解消課へお願いいたします」
「……」
私は何も言わなかった。
何も言えなかった。
ただ、手に持っていた大量の書類を見つめていた。
受付票。
案内票。
記入要領。
婚約解消申請書。
番号証明申請書。
その他、名前も覚えていない無数の紙。
私は朝から、ずっと書類を集めていた。
それなのに、婚約破棄の申請は一度も受理されていない。
私はゆっくりと顔を上げた。
「……クラウス」
「はい」
「明日の舞踏会は何時からだ?」
「午後七時からでございます」
「そうか」
私は頷いた。
「では、明日の朝、また来よう」
「よろしいのですか?」
「今日中に終わらせるのは無理だ」
「かしこまりました」
私は行政庁を後にしようとした。
そのとき、背後から声がかかった。
「殿下!」
振り返ると、身分登録課の職員が窓口から身を乗り出していた。
「お帰りになる前に、こちらの退庁確認票をご記入ください!」
「……何だ、それは?」
「本日、行政庁で手続きをされた方は、退庁時にご提出いただくことになっております」
「どこで受け付けている?」
「一階の総合受付でございます」
私は目を閉じた。
そして、静かに踵を返した。
「……クラウス」
「はい」
「一階へ行くぞ」
「かしこまりました」
私は、再び階段を下り始めた。
明日の舞踏会まで、あと二十七時間。
婚約破棄の手続きは、まだ一つも終わっていなかった。




