帰宅
駅前の商店街の明かりで夜空の星は一つも見えないが、灰色に濁ったこの天気では月すらも見えないだろう。男は前の人が一歩進んだのを見て歩みを進める。楕円形のバスロータリーには、人の列とバスの列、二つの曲線が描かれていた。左腕にはめた銀色の腕時計に目をやると、時刻は午後十一時半を回っている。最終便は十一時四十五分、なんとか間に合った恰好だ。
男は、暗い夜空の下で、車窓の外をぼんやりと眺め、我が家へと向かうこの時間が嫌いではなかった。汗ばんだ左手から右手へ鞄を持ち替え、乗客が一人もいないバスへと乗り込む。機械的にコートの内側から交通系カードを取り出し、青黒く光る端末にかざし、出口に近い席に腰かけた。急行列車も止まらないこの駅から、加えてこんなにも遅い時間にバスに乗る客はそこまで多くない。男は出発まで窓の外を眺めていたが、大きな鉄の塊が重そうに動き出したその時でも、乗客は彼を含めて五人しかいなかった。
ここまで乗客が少なければ、一人で二席を使用しても神も怒るまい。男は持ち手に汗が滲んだ古い鞄と、愛する彼女へ向けた土産が入った白い紙袋の二つを隣の席に置いた。
閑静な住宅街が広がるこの辺りに、もう車はほとんど走っていない。バスは時折信号で止まるだけで、ほとんどのバス停は運転手に見向きもされずに通過されていく。男はもう見慣れたこの窓からの景色を楽しんだ。見慣れていても、景色は見るたびに姿が変わる。まさに彼女のようだな、と男は気障な台詞を頭の中で思い浮かべてはかき消す。
車窓の外に広がる世界から一度目を離し、車内を見渡す。午前七時から九時頃までの通勤ラッシュにはさぞ混んでいるのだろうが、五人しかいない車内はやけに広く見える。優先席に老夫婦が並んで座り、男の通路を挟んで右側に今にも眠りに落ちそうなサラリーマン、一番後ろには男と同じく窓の外をぼんやりと眺める女性が座っている。一人客の男たちはもちろん、老夫婦も会話をすることなく、ただひたすらにエンジンの音が響いていた。
やがて景色は少し変わり、一軒家の並ぶ住宅街を抜けて背の高いマンションが増えてくる。この辺りはもともと市営団地が並んでいたが、人口の減少により取り壊され、今は再開発の中心地となりつつある。比較的新しい、そして駅から離れていることによって家賃もリーズナブルな価格におさまっており、人気があるようだ。男の目的地もそう遠くはない。この土産を見たら彼女はどんな顔をするだろう、と男の顔に思わず笑みが零れた。気づけば車内に乗客はおらず、後は男が降りるだけであった。
「お客さん、どこで降ります?」
景色をぼんやり眺めていると、ふと運転手がそういった。
「並木公園前で」
男がそう返すが、運転手からの返事はなかった。目的のバス停はあと二つだ。彼は降りる準備—といっても鞄と紙袋を指にかけるだけだが―をし、美しい公園の向かいにあるバス停を待った。
やがてバスは静かに停車し、ドアが開く。客は男しかいないので、運転手もわざわざアナウンスをすることもなかった。男は鞄と紙袋を右手にまとめ、バスを降りる。暖房が効きやけに蒸し暑かったバスから、ひんやり涼しさを感じる夜の街に降り立ち、男の気分はさらに良くなった。もうすぐ彼女の顔が見られると思うと、心には温かさが残ったままだ。幾度となく歩いた道は調べるまでもなく、男は我が家へと歩みを進めた。
薄暗い街灯だけが街の明かりであったが、やはり星は見えない。しかし男は灰色の曇り空さえも好きだった。星と月光に照らされては、なんだか常にスポットライトを当てられているように感じて落ち着かない。ただその日は、別の光が彼を照らした。
大通りから一本中に入ったところに、一台のパトカーが止まっている。サイレンは鳴らしていないが、不安を感じさせる赤いランプがくるくると回っていた。
「あら、小林さん」
何事だろうかとパトカーを横目に歩みを進めていると、同じくその光につられて家から出てきた女性が男に声をかけた。
彼女の名前は確か、和田さんだったはずだ。瞬時に表札に視線をやり、素早く答え合わせをする。
「和田さん、こんばんは。パトカーなんて珍しいですね」
白いコートを羽織っただけの和田は、恐らく寝る直前だったのであろう。細かい年齢は知らないが、四十、五十の歳だ。寝ようとした時に、あるいは寝ていた時に赤い光で起こされたのかもしれない。
「いやあ、それがね、最近たまにくるのよ」
和田は中庭と道路を隔てる壁に手をかけ、パトカーの隣に立つ警察官に聞かれぬよう小声でそういった。
「へえ、何事でしょうね。この辺りで事件でも起きたのかな」
「それがわからないのよね。田中さんちの奥さんとも話したんだけど、どこの新聞にもテレビにも載っていないみたい」
男はうーん、と首をかしげる。正直なところ、彼は早く歩みを進めたいところであった。深夜の中年の女性との雑談は、そこまで面白いものではない。
「まあ、パトロールといったところでしょう。最近は物騒な事件も多いですから。和田さんも気を付けてくださいね」
「うちなんて何も盗むものないわよ。泥棒も何も盗らずに帰るわ」
和田はそういって自分で笑い、満足したのか軽く手を振り家の中へ戻っていった。男は軽く会釈をすると、再び歩みを進める。パトカーの隣に立つ警察官は何を見ているのか、何をしているのかいまいち釈然としなかった。しかしそんなことに興味のない男は、我が家が近づいている事実に心を躍らせながら闇夜を闊歩する。
やがて古いアパートが目に入る。白を基調とした二階建てのアパートは、壁に蔦が伸び決して美しいとはいえないが、手入れが行き届いておりきれいである。一階に五部屋、そしてアパートの壁面に沿うように二階への階段があり、二階にも五部屋。大きいとはいえないまでも、男にとっては大切な我が家だ。しかし築年数も長いため、セキュリティは決して強固とはいえない。定期的にパトカーがくるような少し危ない治安であるのなら、彼女には夜外出をしないようにいっておくべきだろう。
男はアパートの裏側に回り、彼女の部屋に明かりがついていることを確認すると、外階段を使って二階へとあがる。
ふと空を見上げれば、雲の隙間から月が顔を覗かせていた。まるでこちらを見ているようで、男は少々居心地の悪さを感じる。もうすぐ満月だろうか、などと考えていると、赤いランプが動き出すのが見えた。何か任務を終えたのか、もしくは時間がきたのかは分からぬが、何もない住宅街に別れを告げるのだろう。
階段を上り、我が家の扉の前に立つ。彼女はどんな顔をするだろうか。浮足立つ心を冷静に押さえつけてから、男はインターホンに手を伸ばした。
扉の奥でベルが鳴り、足音が近づいてくる。足音が扉の前で止まった時、男は身をかがめて靴ひもを解いた。
ガチャリ、という音と共に扉が空いた瞬間、彼女は勢いよく扉を閉めた。
しかし、扉は完全には閉まらない。
白い上下のスウェットを着て、長い黒髪を肩までおろす彼女の眼は、焦りと絶望で満たされていた。
ゆっくりと視線を下にやると、扉と壁の間にスニーカーが挟まっている。
恐怖で声が出ないのか、彼女は何度も扉を閉めようとするが、もう手遅れであった。
男はにんまりと張り付くような笑顔と共に、紙袋から土産を取り出す。
その土産を揺れる目で認識した彼女の顔はいっそう美しくゆがんだ。
「こ、小林さん」
はじめて彼女は小さな声を、絞り出すように発した。
男は笑顔を張り付けたまま、閉めようとする彼女の腕を優しく取り、扉を開ける。扉の奥には、車窓の外よりも、この濁った夜空よりも美しい世界が広がっていた。
「こんばんは」彼女の震える唇に、男は目を奪われていた。
「今夜は月がきれいですねえ」




