8 東家(2)+佰乃side+
08
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食事会は17時から始まった。その前から、家には徐々に客が集まりはじめる。見慣れた顔ぶれが多く、どこか安心感すらある人たちばかりだ。
「やあ、こんにちは。征爾さん」
町長・神ノ条喜一葉さんが現れたとき、舞子ちゃんも一緒だった。普段は学生服を着ていて、妖怪退治のときには機動性の高いズボン姿になることが多い舞子ちゃん。けれど今日はまるで本物のお嬢様のようだった。
落ち着いたトーンの緑のハイウエストスカート。襟付きの白いシャツ。手にはカーディガン、小さなバッグ。
私にはない、爽やかな気品のある佇まいだった。
町長の娘である彼女には、きっと彼女にしか分からない苦労があるのだろう。噂では、舞子ちゃんは小さいころから町の見回りをしていたらしい。“後継”という点では私たちは似ているけれど――背負っているものは違う。
喜一葉さんは父と談笑しながら大居間へ向かっていった。
「くのんちゃん、おめでとう」
舞子ちゃんが微笑む。その笑顔はどこか線の内側で抑えられたようで、それが彼女らしさでもあった。
「ありがとう。まだ実感はないけど……一応、この町の陰陽師になったんだよね。これからも迷惑をかけないように頑張るわ」
「迷惑かけないように、なんて……。くのんちゃんは、くのんちゃんの好きなようにやればいいんだよ」
2人は並んで廊下を歩き、大居間へ向かう。
角を曲がったとき、厨房からふわりと良い匂いが漂ってきた。お手伝いさんたちが忙しく動いている。声をかけようと一歩踏み出した、そのとき――。
「ねえ、今日、町長さんのところの孫さんも来てるんでしょ?」
お手伝いさん同士が話しているところに偶然遭遇してしまった。
「そうね。でも義理の息子さんは来ていないそうよ」
「それって……やっぱりあの噂、本当なのかしら?」
「あの噂?」
私は聞いてはいけない気がして踵を返そうとした。だが――舞子ちゃんの動きが止まっていた。唇を噛んだまま、微動だにしない。その瞬間、会話が再び耳に流れ込む。
「跡継ぎの話よ。義理の息子さんの央兎さんじゃなくて、孫の舞子ちゃんが継ぐっていう話。それに、息子さんは町の生まれじゃなくて外の人だから町長にはしたくないらしいわ。……もし本当なら、舞子ちゃんは可哀想よね。最初から自分の道を勝手に決められているようなものじゃない?」
ジュウッ、と熱い油が弾ける音が台所に響いた。
「あっ、やばい!」
ガタガタ、と台所で誰かが慌てたように器をぶつける音が響き、その瞬間、先ほどまで続いていた会話がぴたりと止まった。その内容を耳にしてしまった佰乃の胸に、重く形容しがたい感情が沈んでいく。
こういうとき、自分はどう振る舞えばいいのだろう──それがわからない。
友達に、適切な言葉をそっと添えてあげる。それができる人はきっとたくさんいるのに、私はうまくできない。
ずっと人との距離の取り方を誤り続けてきたせいで、今、隣にいる彼女にどんな言葉を渡せばいいのか見当もつかなかった。
そんな私の迷いを断つように、舞子ちゃんがそっと、私の手を取った。
「ねえ、2人でさ。こっそり逃げちゃおっか?」
私は声を出さずに頷いた。
手を離さないまま、2人で廊下を足早に進む。大居間を大きく避けるようにして歩き、やがて人気のない中庭の縁側に腰を下ろした。
冬はすっかり骨まで染み込む季節になっていた。風は衣服の隙間から忍び込み、素肌に触れるたびに細い刃でそっと切り込まれるように冷たい。まだ17時を少し過ぎたばかりなのに、あたりはもう夜の気配に沈み、透きとおる空にはいくつもの星が点々と、氷の粒のように散っていた。
縁側に並んで座りながら、私は口を閉ざしたままだった。何を言えばいいのかわからない──だから、何も言い出せなかった。
舞子ちゃんはぶらぶらと足を揺らしながら、穏やかに空を見上げている。そして突然問いてきた。
「ねえ、くのんちゃん。この町、好き?」
「……何それ。急にどうしたの。突男の話でも始めるつもり?」
「ふふ、突男ね。懐かしい響き」
遠くで、夕方を告げる鐘の音がゆっくりとこだました。
「もしこの町がなかったらさ、くのんちゃんはどこで何してたと思う? この町そのものが存在しなかったら、さ」
「……さあ。本家にいたんじゃない? うちの家系は代々陰陽師だし。この町がないってことは、ただ場所が変わるってだけだと思う。どこにいても、私は陰陽師の仕事をするよ」
「そっかあ……くのんちゃんは、強いんだね」
「……舞子ちゃん? もしかして、さっきの話で──」
えへへ、と舞子は照れ隠しのように笑った。その笑みは、ひどくか細くて、夜の隙間に溶けてしまいそうだった。
「気にしてないって言ったら、嘘になるよ。……うん、そうだよ。私は、たぶんおじいちゃんの跡を継ぐことになる。パパは継がなくて、その役目が私の代に降りてくるんだ。しかも、そんなに遠くない未来に」
私はそっと舞子ちゃんの横顔をのぞきこんだ。
灯りの乏しい冬の縁側でも、彼女の整った顔立ちはかすかに浮かび上がって見える。
「ねえ、私ね、思うの。最近ずっと考えてるの。……もしこの町が存在してなかったら、私たちは出会わなかったよね。こんなふうに巻き込まれることもなかった。妖怪なんて……あんな存在と関わるなんて、なかったはずなんだ」
――私は、本当は、そうでありたかったの。
「これから先、もし辛い思いばかりする運命なんだとしたら……そんな運命、最初からいらなかった」
「舞子ちゃん……何を……――」
「ごめんね。最低なこと言ってるって、自分でもわかってる。わかってるけど……今しか言えない気がするの。2人きりでちゃんと話せる時間なんて、ほとんどないから……」
舞子ちゃん……。
彼女は、今にも触れた指先で崩れてしまいそうなほど儚い笑顔を、私に向けた。
――くのんちゃんたちと出会って、私は辛い。
その言葉が、声にならないまま、確かに響いた気がした。やがて舞子ちゃんは、私より先に立ち上がって、大居間へ戻っていった。私はしばらく動けず、冷たい縁側に取り残された。
ついさっきまでそこまで気にならなかった風が、今はびっくりするほど鋭い。頬を刺す冷気に鳥肌が立つ。大居間の方からは、にぎやかな笑い声が聞こえてくる。きっと、もうお酒が回り始めた大人たちが増えたのだろう。
……私も戻らないと。
佰乃は重たい腰を引き上げ、ぎし、と床板を鳴らしながら立ち上がった。
ねえ、舞子ちゃん。
ねえ、教えてよ。
あなたは、何を知ってるの?
あなたの未来には、何が見えているの――――?
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食事会の居間へ足を踏み入れた瞬間、さっきまでの賑やかな空気は跡形もなく消え、急に人の流れが鋭く動きだした。ついさっきまでどんちゃん騒ぎで杯を交わしていた大人たちが、いまは目の色を切り替え、無駄のない動きで次々と配置につこうとしている。
何が起こったのかわからず、佰乃は思わず征爾のもとへ駆け寄った。征爾はすでに東家の家紋が染め抜かれた外套を羽織り、陰陽師としての顔に戻っていた。
「お、お父さん。どうしたの? なんでみんな、こんな……」
「西地区で、カラスの目撃情報が入った」
征爾は庭先を顎で示した。そこには黒い影が、ゆらり、ゆらりと揺れている。
父の式神だ。式神が外へ出ているということは、ただ事ではない。
「佰乃、お前も外套を着なさい」
征爾は手にしていた外套をこちらへ差し出した。
「佰乃の陰陽師としての初出陣だ。……気を引き締めるんだぞ」
短く、しかし重く胸にのしかかる言葉だった。佰乃は息を整え、外套をしっかりと受け取る。居間に満ちていた焦燥は、もう冷えた刃のような緊迫へと変わっていた。
――カラスの目撃情報。ということは、あの七羽のカラスのことだろうか。
源郎が話していた妖怪。やはり、ただのカラスで終わるはずがなかった。
佰乃は周囲に視線を走らせるが、舞子の姿は見当たらない。彼女もこの情報を聞いて動いたのだろうか。それとも、天人のもとへ……。しかし、いまは考えを巡らせている場合ではない。佰乃は強引に思考を止め、兄の後へと続いた。
父、お兄ちゃん、そして他の陰陽師たちと共に現場に到着すると、そこには確かにそれがいた。
――七羽のカラス。
けれど、それは本で読んだどのカラスとも違う。大きさも、形も、質感すら違う七つの影が、闇の中で不気味な気配を醸しながら漂っていた。
「……ああ、マジかよ」
征爾が、小さく息を呑むようにつぶやく。その声に、佰乃の心臓もどくりと跳ねた。私たちの気配を感じ取ったのか、七羽のカラスは同時に、じわりと輪郭を膨らませ始めた。みるみるうちに巨大化していく。羽音が空気を割き、影が地面を覆い尽くす。
「……そんなのアリ……なの……?」
思わず心の中で呟く。けれど、妖怪なら何でもアリなのだと、冷たく悟らされる。闇の中、七つの影が不気味に蠢いていた。
「……やれやれ。灸尾の封印が解けてからというもの、この町には中流の連中がぞろぞろ湧いて出てくる……」
征爾は低く押し殺した声で愚痴をこぼした。湿った風が彼の外套を揺らし、空には黒い羽が旋回している。
「まあまあ征爾さん、そんなこと言わずに。ほら、町の平和のためですし」
「わかってるよ」
短く吐き出すように言って、征爾は懐から一枚の札を取り出す。それを土の上にそっと置いた瞬間、札を中心に淡い光が輪となって走り、まるで地面が息を吸うように演習場全体へと広がっていった。
結界の大きさは術者の呪力に従う。
征爾ほどの力があれば、町ひとつを覆うことさえ可能だろう。だが今、彼が選んだのは半径六メートルという、ごく狭い範囲。被害を最小限にするために絞られたそれは、逆に濃縮された呪力が渦巻き、硬質で揺るぎない結界となっていた。
「後ろへ回って囲め!」
その声が放たれた途端、陰陽師たちは弾かれたように動き出す。東家は封印術を得意とする家系――ゆえに、連携は血と訓練に刻まれた呼吸のように滑らかだ。暴れ狂う七羽のカラスが結界の中で黒い閃光のように飛び交う。
ふと異なる人の呼吸が聞こえ、戦場の隙間を縫うように、佰乃は襲われていた女性の姿を見つけた。まだここでの役割を与えられていない佰乃は、今自分が何をするべきか。それを考える。
そして恐怖で固まった彼女にそっと手を差し伸べ、結界の隅――安全が確保できる影へと導く。
初めての実戦だ。とても、大それた役目を果たせるとは思っていない。けれど――せめて、自分にできることだけでも。
佰乃は女性の腕や首元に目を走らせる。妖怪の瘴気に触れていれば、すぐに祓わねばならない。祓い札を握りしめ、佰乃はそっと声をかけた。
「怪我はありませんか? どこか痛むところは……」
その瞬間だった。
ぼんやりと曇っていた女性の瞳が、まるで別の生き物に入れ替わったかのように鋭く光り、憎悪を帯びた視線が真っ直ぐ佰乃の胸を射抜いた。
「何もないわよ! 何なのよ、こんなの! 私、急いで彼のところに行かなきゃいけないんだけど!」
――いきなり逆ギレ……?
佰乃は思わず身を引いた。こうした反応は、決して珍しいものではない。
この町で生まれ育ったとはいえ、一般人が妖怪に直面する機会は多くない。妖怪は本来夜行性で、陰陽師の仕事も夜が中心だった。だが、近ごろ昼間に徘徊する妖怪が増え、町の人々は予期せぬ恐怖に巻き込まれやすくなっていた。
それが源郎の件と繋がっているのか――そこは、まだ霧の中だ。
ともかく今は、この女性を落ち着かせなければならない。結界の内側で感情が大きく揺れれば揺れるほど、妖怪はその魂の隙を狙って入り込んでくる。
「落ち着いてください。私たちは陰陽師です。あなたを助けに――」
――自分でも驚くほど、教科書に載っているような台詞だ。
その言葉が終わるより早く、女性の手が佰乃の肩をつかんだ。爪が食い込み、氷のように冷たく尖った痛みが走る。
「助けるとか知らないわよ! 早く出して! 私は彼のもとに行かなきゃいけないの!!」
「お、落ち着いてくだ……っ、痛っ!」
爪が衣服を破り、その下の皮膚を容赦なく裂いた。
「あっ!」
女性は突然手を離すと、結界の奥へと駆け出した。
――そっちは危ない! 今、お父さんたちが戦ってる場所なのに!
考えるより早く、佰乃の足は地面を蹴っていた。半妖としての力を解放し、一気に距離を詰める。
間に合わないかと思ったその刹那、勢いそのままに女性の体を押し倒す。
そして――。
世界が、唐突に光を失った。
瞳の奥に残像さえ残さず、音も、色も、風の気配すらも、ひとつ残らずふっと消えていく。
ぷつり――と、細い糸が切れたように、意識が闇へ沈んだ。




