1 結界の揺れる冬空の下で
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山肌を揺さぶるような衝撃が右側から響いた。冬へ移り変わる時期の空は、澄んだ青がどこまでも続いているというのに。
耐えきれない衝撃に、天人の足が滑り、咄嗟に両手が土を掴む。乾いた砂の粒が掌をざらつかせたが、それを払う余裕もなく、彼は音のした方角へ視線を向けた。眼鏡の奥で目が細くなる。
――ハルの仕業か。
ふっとこぼれた息は、ほどける糸のように白く空へ漂い、冷えた空気がそっと頬に張りついた。つい昨日まで蝉の声に追い立てられていた気がするのに、気づけば季節は駆け足で通り過ぎ、秋の影すらまともに掴めなかった。
――秋の醍醐味とは、もう長い間、会っていない。
そのうち、年末という名のせわしない客が、気軽に「こんにちは」と戸口を叩くのだろう。
そんな思いを胸に、天人は山の中腹の大岩に静かに腰を下ろした。眼下には、夕暮れの色に染まりはじめた町が、細い煙を上げながら寄り添うように広がっていた。
ここは靁封町。変わった名前だが、まあそこはツッコまないでくれ。三方を山に囲まれ、他県とつながる唯一の電車は、山をくり抜いて走る。一面だけ遥々と広がる海がある。便利さとは無縁だが、山の上に鎮座する古びた神社だけは、この町の心臓のように昔から変わらずそこにあった。人口は対して多くない。けれど今時珍しく子供と高齢者の割合が同じくらいというよくわからない現象が起きている。
その裏手――神社のさらに奥で、仲間たちは妖怪との交戦中だった。
天人は舌打ちした。
「……相変わらず、作戦通り動いてくれないんだな」
天人が持つ力、千里眼は発動すると、視界の端がぐっと歪む。脳が一瞬だけひりつき、次の瞬間には雑木林の深部が鮮明に広がった。
――黒い岩塊のような体毛をまとう巨大な犬型が、地を削りながら突進している。全身の筋肉が鎖のようにねじれ、咆哮が空気を震わせた。その前に立つ二つの影――。
一人は、黒髪を高い位置で束ねた少女・東佰乃。彼女は怪力の術で地面を震わせ、獣の動きを封じようとしていた。
もう一人は――。
白いパーカーの少年が、音より先に動いた。風切り音すら追いつかない速さで、一直線に妖怪へ踏み込み、容赦なく蹴り飛ばす。衝撃波で木々がまとめて倒れ込む。
ハルの一撃は、美しいが向こう見ずすぎる。天人は深いため息をついて岩の上に座り直した。ひんやりとした温度が伝わってくる。
「ムシャクシャしてるのはわかるけど……作戦無視はやめてくれないかな」
視界の端がチカチカする。脳にかかる重圧が少しずつ増している証拠だ。
千里眼は長く持たない。副作用は日に日に強くなっていた。もっとも自分が上手く使えていないだけかもしれないが。天人は、戦況を整えるため仲間に意識を向ける。
「佰乃、聞こえるか?」
『聞こえてる』
舞子の超感覚を通じた通信が脳内に響く。
「俺の言いたいこと、――わかるよな?」
『……わかるよ。ハル止めろって言いたいんでしょ?』
「さすが。話早いな。頼むわ。あいつ今回も通信切ってるし」
『こっちの音波も全然届かないの! なんで毎回こうなのよ……!』
天人は苦笑気味に頭を掻いた。
「ほんと……どこでそんな器用な技覚えたんだろうな」
その時、頭を刺すような痛みが走った。千里眼の限界が近い。天人は前置きも言わずに自分の現状を伝えた。
「……あと五分が限界」
『五分⁉︎ なんで早く言わなかったの⁉︎』
「別に、言ったところで状況変わらないだろ。痛みもいつものことだし」
『いつものことじゃないよ! あの|ハーメルンの笛吹男《The Hero Of Children》のとき気絶したじゃん! 覚えてないの?』
「……それはまあ、悪かったと思ってる」
ふと数ヶ月前の出来事を思い出す。この体になってしまってから、始めて受けた依頼――ハーメルンの笛吹男《The Hero Of Children》。あれはまあ……大変だった。
通信の向こうで舞子の怒号と、佰乃のため息が重なり、天人は空を見上げた。
今、青い冬空と自分の間には、佰乃が張った結界が薄膜のように揺れている。指先で触れると、小さな波紋が広がり、すぐに元の透明へ戻る。
「……はやく終わらないかなぁ」
通話が終わった後は、再び静寂が天人の周りを包む。時折、血をつたって響いてくる乱暴な衝撃に身を委ねながらのんびりと時間の流れを感じる。
ガザガザっと前方の茂みが揺れた。動物か? と身を構えた天人だが、現れたのは、籠いっぱいに山菜を詰め込んだ源郎だった。目が合って互いに数秒間固まる。
…………。
「よォ、天人。こんなとこで何してんだ?」
――ああ、やっぱ結界効かないのか、この人には。
力を入れていた肩を落とし、天人は諦めて山を指差した。
「源郎が依頼した妖怪の退治、今やってる」
「おー、そういやそんなこと頼んだなァ」
おいこら。
「てか源郎こそなんでここに? 神社にいた方が安全だろ」
源郎は山菜の詰まった籠を片手で持ち上げ、肩をすくめた。
「見りゃわかるだろ? 山菜取りだよ。突男が岡山に帰ってから、飯作るのも全部俺様の仕事。めんどくせぇけど、誰も代わっちゃくれねぇしな」
淡黄檗の着物の袖が揺れ、わずかに覗いた八重歯が光を弾く。長い白髪をかき上げる指先は爪の形まで美しく、どう見ても人間寄りではないのに、今の源郎は――ただの生活者だった。
天人はぼんやりと思う。見た目はどう見ても妖怪のままなのに、こういう時だけ妙に人間くさいんだよな……と。
源郎がこの町に現れた夏。封印から解けたあの夏。
あの日から、天人たちの日常は、普通とはほど遠い日々が始まった。
風が、冬の気配を含んで頬を撫でる。結界の薄膜がさわ、と揺れた。天人はゆっくり立ち上がり、源郎の横顔を見た。
――今から少し時間を巻き戻す。
あの夏。すべてが始まった季節へ。
俺たちのだいぶ変わった日常は、四ヶ月前の、あの出来事から始まったのだ。
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