҉ฺ - ACT;アイリス - ҉ฺ
+++ ACTアイリス +++
兄たちの存在を知らされたのは、私が12歳になる少し前のことだった。
それまでの私は、アウット家という大きな屋敷で、何一つ不自由を知らずに暮らしていた。
広すぎる廊下、開ければどこまでも続く空き部屋。
使われていないのに、なぜか大人の男性物ばかりが揃っている衣装棚。
そのどれもが疑問ではなく、ただそういうものとして受け止めていた。
なぜなら――この家には、私しか子どもがいないと信じていたから。
父上も母上も、そして使用人たちも、みな私を「姫様」と呼んで可愛がってくれた。
病弱な私を心配して、いつもそばにいてくれた。
だから私は、この屋敷――いや、城での暮らしに何の不満も持たなかった。
私たちアウット家は、この一帯を治める貴族だ。
丘の上に建つ白い部屋の窓から見下ろす街は、昼も夜も活気に満ちていた。私はいつかあの賑やかな場所に行ってみたいと思っていた。でも、丘から街へ下るには時間がかかるし、私は生まれつき身体が弱く、外出を固く禁じられていた。
訪ねてきてくれる人はいても、私から誰かに会いに行くことはできなかった。
そんなある日、父上が静かに言った。
「そろそろ婚約相手を探さねばならんな。お前はじきに、この街の王女となる。王となる夫を見つける必要がある」
父上の手が、私の肩にそっと置かれた。けれど私は首を横に振った。
「父上……私、王女になりたいなんて思いません。それに……異性と結婚なんて、したくありません」
私がそう言うと、父上は驚くでも怒るでもなく、ゆるく眉を下げて優しく微笑んだ。そして、大きな腕で私を抱きしめながら、ぽつりと謝るように言った。
「……すまんな。すまん……」
その時の私は、意味が分からなかった。
なぜ、父上が私に謝るのか。
父上は、私に何か悪いことをしたのだろうか。
私は父上を困らせるようなことを言ったのだろうか。
それなのに――どうして、父上は涙を流していたの?
私の胸の奥で、初めて、うっすらと何かが隠されているという予感が芽生えたのを覚えている。
┈┈┈┈••✼••┈┈┈┈
ある日。
自室へ戻るはずが、私はいつの間にか城の中で迷子になっていた。
生まれた時から暮らしているはずのこの城なのに、その全貌はいまだに把握しきれない。本来なら迷うはずもない自室への道のりを、何も考えずに歩いていたせいで、気づけば見覚えのない廊下に入り込んでいた。
しかも今日は日曜日。
普段なら付き添ってくれる使用人が必ずそばにいるのに、日曜の昼間は皆どこかの持ち場に散ってしまい、廊下には誰ひとりいなかった。
広い城の静けさが、いつもよりも増して感じられる。ほんのわずかな不安を抱えつつも、私は諦めて外の景色を眺めながら歩くことにした。
「……ん?」
一つの部屋の前で足が止まった。
扉の中央に、薄く埃をかぶった金属のプレートが掛かっている。私は袖でそっと表面を拭った。すると、かすれた文字が姿を現した。
「……ユーリア・レ・デ・アウット……?」
聞き覚えのない名前だった。けれどこの城の一室に名を刻まれているということは、私の知らない親族か、ずっと昔のご先祖なのだろうか。
胸の奥に小さなざわめきが生まれ、私は扉を押して部屋に足を踏み入れた。
薄暗い。空気は長い眠りから目覚めていないような、埃の匂いで満ちていた。けれど暗がりの中でも、ひととおりの家具が整えられているのが分かる。
部屋の中央には、私の背丈の二倍はありそうな大きなベッド。幅も広く、大人が三人は寝られそうだ。右手には古い箪笥と、鏡のついたチェスト。左側の壁は、本棚でぎっしりと埋まっている。ベッドの向こう、壁の一部は大きな窓になっていた。厚いカーテンは閉じられたままだが、その隙間から細い木漏れ日が漏れ、埃の粒を金色に浮かび上がらせていた。
――誰の部屋だったのだろう。
興味と不思議さに突き動かされながら、私は部屋をそっと歩いた。視界の隅、箪笥の上に小さな写真立てが数枚並んでいるのが見える。
私はそのひとつを取って、ゆっくりと埃を払った。指先が触れた瞬間、舞い上がった埃の粒が光の筋の中でふわりと踊り、きらきらと揺れた。
「……これは……私……?」
息が零れた。
写真の中では、7人の爽やかな青年たちが円を描くように囲み、小さな赤ん坊――すやすやと眠る私を柔らかな笑みで見守っていた。
赤ん坊の頃の写真なら、何度も見ている。頬の丸さ、指の形、布にくるまれた姿――これは間違いなく私だ。
……でも、だとしたら。この7人の青年は、一体誰?
胸の奥がざわつき、私は写真を裏返した。右下に、美しい筆記体で書かれた一文があった。
Γιορτάζοντας τη γέννηση της αγαπημένης μου αδερφής. Από τον αδερφό μου.
意味を口の中で転がしながら読み解く。
「……愛する妹の誕生を祝して。……兄より」
「お兄……ちゃん……?」
震える声が漏れた。思わず顔を上げ、写真から目を離して部屋を見渡す。埃をかぶりながらも、誰かがかつて確かにここで暮らしていた気配が残る部屋。長い間、誰にも触れられていないはずなのに、妙に温度が感じられる。
もし、この部屋の主が――。
私が、一度も会ったことのない兄だったとしたら?
胸のざわめきは、やがて痛みに近い何かへと変わっていった。考えるより前に身体が動いていた。私は写真をそっと置き、部屋を飛び出す。
スカートの裾がふわりと跳ね、足元でひらついて邪魔だ。
本当はもっと速く走りたい。もっと前へ。
胸が焦っているのに、身体が追いつかない。
ここが城のどこの階かすら分からない。
でも、そんなことはどうでもよかった。
――早く父上に会わなければ。
――母上にも聞かなければ。
私の知らない兄たちのことを。
私の記憶にない家族のことを。
足音だけが、白い廊下に響き続けた。
┈┈┈┈••✼••┈┈┈┈
「父上! 母上!」
勢いよく扉を開け放つと、部屋の空気が震えた。編み物をしていた母上は膝の毛糸玉を床に落とし、父上は閉じかけていた本を足元へ取り落とす。本の角が靴を叩き、鈍い音が響いた。
「いった……。どうしたんだい、アイリス? そんな汗だくで……ああ、ドレスの裾も汚れてしまっているじゃないか」
父上は驚きつつも手を広げ、私に歩み寄る。しゃがみ込んで、裾についた埃を優しく払いながら続きを促した。
「ねえ、父上」
「なんだい?」
「……私って、お兄ちゃんがいたのね」
父上の手が止まった。空気が一瞬で色を失い、静寂が落ちてくる。
「……アイリス……それをどこで……?」
「どうして隠してたの? ねえ、どうして……私に言ってくれなかったの? 悪いことなの? 私、何か……いけないことでもしたの? それとも――お兄ちゃんたち、死んじゃったの……?」
父上は唇を結び、視線を落とす。沈黙が返ってきた瞬間、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
「ねえ、黙ってないでよ! 父上、お願い……! 私に兄たちがいたのに、どうして隠したの!? どうして、何も教えてくれなかったの!」
涙が、すとん、とひと粒落ちた。白い床に落ちた雫は、光を受けて淡い虹色に弾けた。――そして父上は語った。あまりにも悲しい、あまりにも残酷な真実を。
……私を救うために。
私を守るために。
兄たちは、父上のたった一言の願いによって――命を落としたのだ。
「そんなことになるなら……言わないでよ……! お兄ちゃんたちに……そんな願い、しないでよ! 軽々しく……そんな言葉、口にしないでよ!」
喉がつまって震える声を吐き出すと、父上は悲しげに目を伏せた。
「……私も反省している……。一度口にしてしまった言葉は、もう取り消せない。あの時は……確かに軽率だった。気づいたときには、もう……遅かったんだ……。だからせめて――残されたアイリスを、大切に、大切に育てることだけが……償いだと思ったのだ」
そんなもの――。
そんなもの、私は求めてなんかいない。
「もう二度と……!」
「アイリス……」
私は涙に濡れた顔を上げた。
頬を伝うしずくを振り払うように、強い眼差しで父上を見つめる。
「もう二度と……そんな願いを、簡単に言わないで!」
声が震え、胸が痛み、けれど――その言葉だけはどうしても伝えたかった。
┈┈┈┈••✼••┈┈┈┈
それから先のことは……正確には覚えていない。
ただ――お兄ちゃんたちを探すと決めたその瞬間、私は部屋に戻り、最低限の荷物を掴むと、ほとんど衝動のままに城を飛び出していた。
生まれてから一度も外に出たことのなかった私には、どこへ向かえばいいのかすら分からなかった。どの道がどこへ繋がっているかも、どんな人がこの街に暮らしているのかも、すべてが未知だった。
それでも――。
諦めるという選択肢だけは、最初から私の中になかった。
歩いて、歩いて、また歩いた。
人に尋ね、裏切られ、冷たい視線に傷つき……。
私にとっては何もかもが初めての経験ばかりだった。
そして――。
お兄ちゃんたちに辿り着けないまま、私は人生の幕を閉じた。
けれど、これで終わりではなかった。
気がつけば、私は亡霊として再びこの世界に立っていた。
お兄ちゃんたちを探してさまよい続けた私を、神様が見ていたのだろうか。未練で曇った魂を、もう一度歩ませてくれるように――。生き直すための、わずかな猶予を与えてくれたのかもしれない。
亡霊となった今は、生前よりも探すことははるかに難しくなった。
声は届かず、姿も見えず、触れることもできない。
それでも、確かな手がかりだけはあった。
あと少し。
きっと辿り着ける――そんな確信があった。
そして、ついに。
長い長い時間をかけて紡いだ私の願いに――ほんのわずかでも、光が差し込んだ。
私の願いが、いま……通じようとしている。
┈┈┈┈••✼••┈┈┈┈
「……おにい、ちゃん…………?」
辿り着いた先は、薄暗い洞窟だった。
湿った岩肌が滴り、わずかな光がゆらりと反射している。その中心で、7人の青年たちが、1人の少女を囲むようにもみ合っていた。どこか野生めいた気配をまといながらも、どこか懐かしい――そんな雰囲気を持つ7つの影が、私の目の前に立っていた。
「……アイリス、か?」
1人が、かすれた声で私の名を呼ぶ。
「アイリスなのか……?」
また別の青年が、信じるように、疑うように、そっと呟く。
――聴いたことのない声。
――見たこともない顔。
なのに、胸の奥に小さく灯るものがあった。
ああ、この人たちを知っている――。
確信なんて、あるはずもない。けれど。なぜか私は、確信してしまっていた。
だから、呼んだ。
「……おにいちゃん?」
その一言が落ちた瞬間。洞窟の空気が静まり返った。
そして――。
青年たちの目から、ぼろぼろと涙が溢れ落ちた。止めようとしても止まらない涙が頬を伝い、地面へ落ちていく。うっすらと髭を生やした青年でさえ、優しい笑みを崩したまま、静かに泣いていた。――気がつくと、私も涙をこぼしていた。
それは、ようやく出会えたという涙。
ずっとずっと、届くことを願っていた涙だった。
どれほどの年月が経ったのか、もう覚えていない。
何度、心が折れそうになったか。
何度、世界の冷たさに膝を折りそうになったか。
家族も、王族も、国でさえ滅び、
誰ひとり自分の名を呼ばない時代に、
亡霊として落とされた私の孤独を――いったい誰が理解できるだろう。
写真の中でしか知らない兄たちの笑顔。
記憶の奥で薄れていく父上と母上の声。
それらすべてが螺旋のように絡みつき、私の中で渦を巻いていた。
だから私は――探さなくちゃいけなかった。
逃げてはいけない、と。諦めてしまえば、あの写真の中で笑っていた兄たちの存在を、自分の手で捨ててしまうことになる。そう自分に言い聞かせながら、たった一人で歩き続けてきた。
この町の噂は、旅の途中、幾度も耳にした。
――大妖怪の封印が解かれた。
――各地から妖怪が集まり、町がざわついている。
その噂を聞いた瞬間、胸がざわりと震えた。
ここに、兄たちがいるかもしれない――。
私はそのわずかな兆しだけを頼りに、この町へ足を踏み入れた。妖怪たちと同じように、噂を手繰り寄せられるまま。この道の先に何があるのかなど、分からないままで。それでも――諦めるという選択肢は、最後まで一度も浮かばなかった。
――本当はね。
私はもう、誰かと同じ時を過ごす未来なんて、持てないと思っていた。
亡霊は触れられず、触れられず、ただ孤独に揺れる存在だと。
けれど。
兄に出会った、その瞬間。
ずっと凍っていたはずの心から、温かい涙がこぼれ落ちた。心が揺れ、魂が震え、願いがほどけた瞬間に生まれた涙だった。
お兄ちゃん。
ねえ、聞いて。
私、頑張ったんだよ。
お兄ちゃんたちに、もう一度会うために。
ただその願いひとつだけを胸に抱えて、ずっと歩いてきたの。
だからね。
これからは――。
どうか、私と一緒にいて――――。
声にならない願いが、洞窟の闇の中で静かに溶けていった。
ご感想等お待ちしております☺︎




