10 誓い
10
天人は『7羽のカラス』という古い童話を、ゆっくりと、まるで焚き火の前で語る昔語りのように一通り語って聞かせた。
静かな境内に、言葉の余韻がふわりと漂う。
もしそれを現代に当てはめて考えるなら――。
要するに、姫を見つければいい、という話になる。
その姫が人間であろうと、妖であろうと、生者であろうと、亡者であろうと、天人には関係がない。
視える者には、ただ事実だけがある。
舞子は源郎から受け取った真っ白な印刷用紙の余白に、まずカラスに関する情報を箇条書きで書き込み、続いて用紙の中央へ靁封町西地区の地図を引き始めた。
線を迷わず、滑るように動いていくその手つきを見て、天人がぽつりと漏らす。
「お前、よくそんなに地形、覚えてるな……すげえよ」
「ふふ。伊達に町の見回りしてるわけじゃないしね。この辺の地図は、もう全部インプット済み」
舞子の自信に満ちた笑顔が、神社にほんの少しだけ明るさを戻す。
――次期町長。
彼女自身はあまり口にはしないが、その言葉が、彼女の視線を常に上へ、前へ向けさせているのかもしれない。
地図が完成すると、天人は舞子の書いたカラス情報に目を落としながら読み上げた。
「えーと、陰陽師の話じゃ……変形できるって特徴があるらしい。ってことは……まあ、中流階級の妖怪ってことでいいのか?」
そう言いながら、天人は横目で源郎の顔をうかがう。源郎は腕組みをしたまま、静かに頷いた。
「ああ、まあ……多分な。ただ、まだ最終形態がわからねぇ。もしかすると人間にも変形できるかもしれねぇし、言葉を話す可能性だってある。……そうなると、中流って安易に決めつけるのは危ねぇな」
三人の会話は淡々と続く。
しかしその淡々とした調子の奥に、張りつめた焦燥が隠れているのはハルにもわかった。
ハルは境内の床に寝転がり、三人に背を向けるようにして目を閉じた。
……たぶん、このまま話に加わっても、また変なことを言ってしまう。
そんな自信のなさが、心の奥にゆっくり沈んでいく。
薄い思考の隙間に、静かな睡魔が水のように染みこんでいった。
今日は――あまりにも、いろいろありすぎた。
今は考えるより、少し眠ろう。
目が覚めたら……ちゃんと、皆の話を聞こう。
そう思った瞬間、糸が切れたように、意識は静かに暗闇へと沈んだ。
┈┈┈┈••✼••┈┈┈┈
世の中なんて、いつだって不条理だ。
嘆くことも、放り出すことも――。本来なら、誰だって好きなときにやっていいはずなのに。
でも、ハルには許されていない。
だってハルは「楽」であることが役割で、そのたった一言が、ハルという存在のかたちを決めてしまったから。
……だけど、最近はどうにもおかしい。
勝手にいろんな感情が、ハルの胸の奥に居座る。
招いた覚えなんてないのに、ずうずうしく入り込んでくる。
──ここで、少しだけ。ハルと佰乃の出会いのことでも話そうかな。
いずれ語らなきゃならないことなら、今がそのときでもいいよね?
ハルと佰乃が初めて出会ったのは、今からおよそ8年前。
二人とも、まだ7歳だった。
当時、ハルは日本の西のほうで暮らしていた。……いや、「暮らしていた」というよりも、「生きていた」というほうが正しいのかもしれない。息をして、日々をただ積み重ねるだけの、そんな生だった。
ご存じの人もいるかもしれないけれど――ハルには、右足がない。
代わりにあるのは、高度な義足。藍沢先生が時間と技術をつぎ込んでくれた、ハルの足。
ハルには自分の右足がない理由がわからない。
気がついたときには、すでになかった。
生まれつきなのか、事故なのか。誰の手で、どんな経緯で失われたのか。その真相を示す記憶は、この頭のどこにも存在しない。というのも、ハルには6歳より前の記憶がないからだ。
そう、ハルは「記憶損失」だ。|
《・》 「記憶喪失」じゃない。
記憶を失った記憶すら残っていない。
つまり――ハルの人生は、6歳で突然始まったようなもの。それ以前のことは、ひとかけらも思い出せない。だからこそ、定期検査は続いているけれど……。正直、それで何かが劇的に変わるなんて、あまり期待していない。
――西の地方で1年を過ごしたあと、7歳になろうとする直前、ハルはこの町の東家に引き取られた。
養子として、「東」の姓を授かった。そして、佰乃と出会った。彼女も同じ7歳。同い年であるというだけで、世界の距離が一歩分縮まった。
最初、佰乃は警戒していた。
当然だよね。知らない子が突然家に来たら、誰でもそうなる。
でも、ハルが「普通の子」だってわかると、彼女はハルを一方的に遠ざけることをやめてくれた。――それが、嬉しかった。胸の奥に、確かにひとつ、小さな光が灯った瞬間だった。
ハルには、友達も家族もいなかった。
だからこそ――東家のように、人の気配が絶えず、温かな声に満ちた家庭は、胸の奥まで沁み込むほど居心地がよかった。
家族の皆は、ハルを「ハル坊」と呼んだ。
その呼び名は、ほんの小さな灯りのようにハルの心に触れ、固く閉ざしていた距離を、ゆっくりと溶かしていった。そんなふうに溶け合った日々は、時間が驚くほど短く感じられた。
そして――。
ハルの前に訪れたのは、まるで祝福のような地獄だった。
東の姓を受け継いでから、ちょうど2年。
今から6年前の出来事だ。
その日、隣町――いや、もはや「町」と呼ぶにはあまりに大きすぎる都内で、大きな衝撃が走った。
夕方。街がいちばん騒がしくなる時間帯。家路を急ぐ人々、買い物袋を提げる主婦たち、通勤電車に吸い込まれていく会社員たち――ざわめきが街を満たしていた頃。
その空を飛んでいた二機の小型機が、相次いで墜落した。そのときハルは佰乃と一緒に、大きなテレビの置かれた居間で遊んでいた。ちょうどアニメが始まる少し前の、ほんの穏やかな時間だった。
突然、画面がふっと切り替わった。
リモコンには触れていない。けれど、テレビは勝手にニュース速報へと切り替わる。真剣な面持ちのキャスターが映し出されていた。ただ、その手元はわずかに震えていた。
「ねぇねぇ、ひゃくのぉ。これ、なにぃ?」
玩具を手にしていた佰乃の肩を軽く叩き、ハルはテレビを指さした。
『たった今入った速報です。本日午後五時三十二分ごろ、都内にて小型飛行機AALの一機が墜落した模様です。場所は――――』
画面が切り替わる。映し出されたのは、ハルも何度か訪れたことのある街並みだった。上空から見下ろす視点――。まるで天気予報で見るような、どこにでもある日常の景色。信号が赤から青へ変わり、人々が横断歩道に流れ込む。何の変哲もない一瞬。
……けれど。
「キャッ!」
テレビから響いた轟音に、佰乃が悲鳴を上げた。
小さな両手で耳をふさぎ、目を固く閉じる。握っていた玩具が床に落ち、乾いた音を立てた。ハルはすぐに佰乃の肩を抱き寄せ、その小さな、震える体を守るように包み込んだ。
テレビはなおも、激しい轟音とともに映像を垂れ流していた。
『ご覧のように、小型飛行機AALが、突然このエリアへ墜落したのです。近くにお住まいの方は、ただちに安全な場所へ避難してください。また―――』
その先の言葉は、幼いハルの胸を冷たく締めつけるような報だった。
『たった今入った情報です! 二機目の小型飛行機、AAL300が近くに墜落した模様です!』
アナウンサーの声よりわずかに遅れて、家全体が低く唸る。
床板から伝わる震えは小さかったが、それがかえって恐ろしい。遠くで、何か大きなものが崩れ落ちたのだと、幼い体でも理解できてしまう。
「なに⁉ 何が起きてるの⁉ ハル、ハルっ!」
佰乃が泣きそうな声でしがみつく。小さな指が、服の布地をぎゅっと掴む。
「大丈夫。ハルはここにいるよ。ここにいるから……」
震える佰乃をしっかり抱き寄せながら、ハルは繰り返し背中を撫でた。
本当に――すべてが、突然だった。
同じ時間帯に、2機の飛行機が相次いで墜落する。
それも、この町のすぐ隣でだ。
昨日と同じように、何も変わらず流れていたはずの日常が、わずか数分で跡形もなく壊されていく。人々の暮らしは、こんなにも簡単に、あっけなく奪われてしまうのだと、子どものハルにも理解できてしまった。
やがて、この町にも被害が及ぶかもしれない。
飛行機は理由もなく落ちない。空から落下物が飛んでくる可能性だってある。小さな破片でも、自由落下すれば十分に命を奪える。そんなことは、幼い頭でも想像できた。
――それなのに、ハルは不思議と冷静だった。
きっと、佰乃がいたからだ。大きく混乱して泣き出しそうな佰乃を見て、「守らなくちゃ」と、胸の奥が強く熱を持った。
佰乃は東家の、本物の娘だ。
もし、彼女に何かあったら――。
三亞三さんも征爾さんも、どれほど悲しむだろう。
だから、ハルが佰乃を安全な場所へ連れていかなければならない。
そう決めた瞬間、ハルは立ち上がった。佰乃の手を強く握る。その小さな手は汗で湿っていて、震えていた。
「佰乃。シェルターに行こう。きっと、みんなそこにいる」
壁掛け時計を見る。速報が入ってから、すでに8分が経過していた。家族が戻ってこないのは当然だ。皆、自分の職場や学校に近いシェルターへ避難しているのだろう。この時間帯、家にいるのは自分たちのような子どもだけ。だが多くは放課後クラブに行っていて、家に残っているのはほんのわずか。
今、動かなければ――本当に命が危ない。
「しぇ、シェルターって……どこに、あるのよ……?」
佰乃は鼻をすすりながら、ぐらつく膝をどうにか押し立てた。ハルより背の低い佰乃の体は軽い。最悪、おぶって走ることだってできる。けれど――まだ彼女は自分の足で踏ん張れていた。辛うじて残っている冷静さが、震える身体を支えていた。
ハルは佰乃を不安にさせないよう、できるだけ柔らかな声で言った。
「わかんないけど、この町には案内掲示板がいっぱいあるでしょ。それを辿っていけば、きっと近くにあるはずだよ」
慌てて靴を履き、玄関の戸を開け放つ。
外は夕暮れ。沈みかけた太陽の赤と、反対の空には昇り始めた月の白が並び、どこか不吉な二色の境界をつくっていた。
闇が落ちてしまえば終わり――その予感が、2人の足を自然と速めた。
気づいたときには、もう走っていた。
つないだ佰乃の手が、じわりじわりと力を失っていく。振り返ると、佰乃は肩で息をしながら、それでも必死に足を動かしていた。その健気さに、胸がぎゅっと締めつけられる。
「佰乃……もうちょっとだから、頑張って……!」
声をかけると、佰乃は涙混じりに小さく頷いた。あの角を曲がれば、地下シェルターがある。家族を、心配させたくない。自分たちが無事でいることを、早く伝えなければ。
そして、角を曲がった瞬間だった。
――足が止まった。
喉の奥が、氷の刃で塞がれたように固まった。
「……うそ、でしょ……?」
「あれ……どうして……妖怪が……こんな時間に……?」
そこにいたのは、2人の何倍もある異形の影だった。
歪んだ体。腐臭の混ざる皮膚。ぎょろりとした巨大な眼が、まっすぐに二人を捕らえる。妖怪はこんな時間に動かないはずだった。
人前に姿を晒すなど、もっとありえない。なのに――何かが決定的に狂っていた。その化け物が、ゆっくり腕を振り上げた。
「……ッ!」
その瞬間、世界が遅れた。
気づいた時にはもう――間に合わなかった。
――あのとき、ハルは死んだ。
何が起きたのか、詳しいことは覚えていない。
ただ、幼い自分はあまりにも無力で、あっけなく命を奪われた。
最後に見たのは――ぼやけゆく視界の向こうで、泣きじゃくる佰乃の顔。その顔を見て、ハルは安心した。
佰乃は生きている。無事だった。それだけで、静かに目を閉じることができた。
――けれど。
ハルは死んだはずだったのに。
それなのに佰乃は――掟を破った。
これは、ハルと佰乃だけの秘密。
誰にも知られてはならない秘密。
そして、ハルと佰乃はそれを、永遠に抱え続ける。
神に背いた――その、せめてもの償いとして。
ご感想等お待ちしております☺︎




