9 僕の名前
09
刹那、ぞわりと全身の産毛が逆立ち、胸の奥がきゅっと縮んだ。ハルは驚きに突き動かされるように、一気に瞼を跳ね上げた。
目を覚ますと、視界いっぱいに広がったのは、見知らぬ白い天井だった。自室ではない。鼻孔を刺すような、冷たい匂い――アルコールの鋭い刺激が空気に満ちている。
「ひゃく、の……」
かすれた声が勝手に漏れ、ハルは反射的に体をひねって起き上がろうとした。
佰乃が、ハルを呼んでいる気がした。
けれど、その名前を探すように部屋を見回しても、どこにも佰乃の姿はなかった。
その不在を認識した瞬間、胸の奥に黒い波紋が広がる。遅れて押し寄せる焦燥。落ち着きを奪われ、鼓動だけが大きく、乱暴に体内を叩く。
「佰乃……? どこ……? 返事して……」
――行かなきゃ。
ハルが行かなきゃ。今すぐに。
ベッドから降りようと足を伸ばした瞬間、体がガクンと崩れ落ちた。
「……え?」
状況の意味がつかめず、腹筋に力を込めて必死に上半身を起こす。しかし、下半身がまるで他人のもののように動かない。重く、沈んだまま。
ゆっくりと、恐る恐る視線を落とす。
足は――ある。けれど、その右足は、腿の途中で途切れていた。
「あ……あ、あ……?」
喉の奥が乾き、吐き出した声は言葉にならなかった。
どうして?
どうしてハルの足が、ないの?
なんで歩けないの?
どうして――どうして佰乃のところへ行けないの?
床に手をつき、腕の力だけで前に進もうとする。
一歩、また一歩。
這いずるたび、掌に当たる床の冷たさが骨に染みて、情けないほど汗が噴き出した。
白いベッド、白い壁。漂う無機質な光。
視界の端でドアが勢いよく開き、白衣の女性が息を呑んで駆け寄ってきた。
「ハル! なにしてるの! 検査中は寝ていなきゃダメでしょう!」
彼女は手を差し伸べる――けれど、ハルの目はその手を見ていない。
「ひゃ、ひゃくのが……佰乃が呼んでるんだ……行かなきゃ……!」
「佰乃ちゃん? 何を言ってるの、彼女は今――」
「どいてっ!」
ハルは、必死に伸ばされた手を振り払った。
こんなところに立ち止まっている場合じゃない。早くしなければ――佰乃が、またどこかへ消えてしまう。
その焦りが胸をかきむしる中、目の前の女性がふいに動きを止めた。大きく見開かれた瞳が、まるで何かを確かめるようにハルを射抜く。
「ハル……私のこと、わかる?」
静寂が落ちる。
ハルは細めた目で、女性の顔をたしかめるようにじっと見返した。
「……だれ?」
その一言が、空気を裂いた。
女性が息を呑む音が、やけに鮮明に響く。
「じゃあ、ここは? この場所がどこかわかる?」
「ここ……? わかんない。知らないよ」
ハルは小さく首を振る。
その動作の途中で、視界の端に自分の右足が存在しないことが再び映り込んだ。
――ここはどこ?
――どうして足がないの?
雪崩のように押し寄せる疑問に頭が追いつかず、思考がざらついた音を立てて崩れていく。
「どうして……どうしてハルの右足、ないの? なんで? ここ、どこ……どうして、ハルこんなところにいるの……?」
女性が口を開きかける。
「落ち着いて、ハル……私は――」
「ねえ、どうしてっ!」
堰を切ったように、ハルは声を荒らげた。
「どうしてここにいるの⁉︎ 佰乃はどこなの⁉︎ ここって何なの⁉︎ ハル……わかんない、わかんないよ‼︎」
「ハル! 一度落ち着いて!」
鋭い声が鼓膜を震わせたが、ハルの胸の奥で膨れ上がる不安の波は止まらなかった。
そのときだった。
ハルの掴む手の隙間から、黒い霧がゆっくりとこぼれ落ちるように滲み出した。白衣の織り目が、音もなく崩れる砂のようにバラバラと砕け散る。女性は顔をしかめ、わずかに後じさった。
「ハル……すまない……」
涙を浮かべた目でハルを見つめながら、彼女はポケットから注射器を取り出す。それをハルの首筋に差し込み、液体をすべて体内に押し込んだ。
やがて、ハルは瞼を閉じ、ぱたりと倒れた。
女性は複雑な表情のままポケットから携帯を取り出す。
「……私だ。少し話がある。こっちに来てほしい」
┈┈┈┈••✼••┈┈┈┈
目を覚ますと、世界は白の中にあった。
首をわずかに傾けると、白い壁と白い天井が、寂しげに光を返している。壁の一角――細い亀裂のように見える線は、ドアの輪郭だった。
ハルはゆっくりと上半身を起こし、ベッドの縁に手を添えながら足を床へと下ろした。
……もっとも、右足はそこにはない。冷たい床を踏むのは、左足だけだ。
瞬きをひとつ。薄膜のような眠気がわずかに剥がれ落ちたその時、ガチャリ、と金属の擦れる音が室内の静けさを破った。
藍沢暖々留先生が姿を見せる。
白衣の裾がふわりと揺れ、室内の薬品の匂いと混ざり合った。
「……先生、ごめん。迷惑かけたよね……」
つい先ほどまでの混乱が脳裏にちらつく。
ああいう混乱は初めてのことじゃない。どう対処すればいいか、心得ているつもりだった。
それでも、あのときは何もかもがうまく動いてくれなかった。
藍沢先生はため息をつく。
「まったく。急に起き上がるんだからびっくりしたよ。検査中に目を覚ますなんてね」
軽く冗談めかして言う声には、どこか張り詰めた色も混じっている。
記憶が時々、穴のように途切れるのは昔から。
けれど原因はわからないまま。
今回みたいに、検査中の薬で体に負荷がかかると、なおさら混乱が起きやすい。
「何か、怖い夢でも見たのか?」
義足の接続端子が、ひとつ、またひとつと音を立ててつながっていく。
「夢……じゃないと思う。ハル、基本的に夢は見ないから」
「じゃあ、どうしてあんなに取り乱したんだ?」
どうして――と聞かれても。
ハルは左足をぶらぶらと揺らしながら、天井のライトを見上げた。眩しく、どこか遠い光。
「わかんない。ただ、なんか……」
「ん?」
「……ううん、やっぱいいや。大したことじゃないよ。ほら、今はもう平気になったし」
「ならいいけど。ついに私のこともわからなくなったから、脳みそが本格的に腐っちまったのかと思ったよ」
冗談めいた言い方なのに、その裏にある微かな心配が透けて見えた。ハルは何も返さず、宙をぼんやりと見つめた。その様子をみた藍沢先生はハルの顔を心配そうに覗き込む。
「……どこか具合が悪いんじゃないのか? もう少し休んでいくか?」
「………」
少しの沈黙。
それから、ハルはぱっと陽の射すような声で言った。
「大丈夫! ハル、元気だよ。早く帰って、佰乃の顔が見たいんだぁ」
「……本当に、佰乃のことばっかりだなあ、お前は」
藍沢先生が苦笑すると、ハルは嬉しそうに頷いた。
好きだよ。
佰乃のことが――本当に、大好きなんだ。
┈┈┈┈••✼••┈┈┈┈
検査を終えて病院を出た、そのわずかな隙間だった。外気が肌に触れた瞬間、ポケットの中で携帯が震える。画面が光り、ハルは通話ボタンを押した。
「もしもぉし?」
『はーくん! 舞子だけど!』
甲高い声。相手は舞子だ。
「どしたの?」
――というか、舞子と番号交換してたっけ?
『どぉしたの、じゃないよ! 今すぐ靁封神社に来て!』
「えー、なんで。また。今から帰ってさ、佰乃にぎゅーってしようと思ってたんだけどぉ」
『その、くのんちゃんのことよ! くのんちゃんが――7羽のカラスに攫われたの‼︎』
――え?
世界が一拍分、黙り込んだ。
その一瞬の静寂で、心臓の鼓動だけが耳の奥で跳ねる。だが、止まったのは思考だけだった。身体は止まらない。むしろ逆だ。気づけば地面を蹴り、病院の敷地を駆け出していた。携帯が、手から離れて耳の横でぶら下がる。
――もしかして。
胸に引っかかっていた、あの冷たいざわめき。さっきからずっと纏わりついていた嫌な予感。あれが、本当に「何か」だったのだとしたら。
今、何分経った?
検査室に入ってから、どれだけの時間を無駄にした? ハルは――一体何をしていた?
靴音が路面を叩き、風が頬を切り裂く。
「……くそったれが」
吐き捨てた怒りは、誰に向けたものか自分でもわからなかった。
ただひとつだけ確かなのは――佰乃が危険にさらされているなら、立ち止まる理由なんてどこにもない。
ハルは、新しく調整されたばかりの義足をきしませるように動かし、靁封神社へ向かって走った。
その軽快なはずの足音には、焦りと不安が混ざり込み、路面に不規則なリズムを刻んでいた。
一方で、ハルが病院を飛び出した後――。
藍沢は特別治療室、主にハル専用のその部屋から静かに離れ、人の気配の薄い奥まったエレベーターへ向かった。
屋上のひとつ手前の階を選んでボタンを押す。エレベーターは病棟の上階へ向けて、重力を振り払うような速度で上昇し、やがて金属音とともに止まった。
右手の廊下に抜け、屋上へ続く階段を登る。
重たい扉を押し開けると、すでにそこには一人の男が立っていた。
「待たせたな、知夙」
風を切るように白衣を翻し、男は藍沢へと振り向いた。
片手は口元へ。指の間には、火が消えかけた煙草が挟まれている。
藍沢は眉間に手を当て、深くため息を落とした。
「そろそろ煙草やめたらどうだ? 患者から苦情が来るぞ」
「どうでもいいだろ。ストレスしか溜まらない仕事だ。せめて気持ちの処理くらい、正しくやらせてくれよ」
知夙は投げやりな声音の裏に、どこか疲れを滲ませている。藍沢は肩をすくめ、その隣に立ち、屋上のフェンスに寄りかかった。持ってきたカルテを差し出すと、知夙は素直に受け取り、ページを捲る。
並んだ数字を目で追いながら、眉間にしわを刻む。
藍沢は、淡く色を変え始めた雲を見つめながら言った。
「ここ最近のハルの結果だ……それを見て、何か感じないか?」
「なにか、とは?」
「聞く前に読め、馬鹿野郎」
返答より早く、藍沢のゲンコツが知夙の頭を叩いた。その衝撃で煙草がぽとりと落ちる。
「あ……あーあ……」
知夙はカルテを藍沢の胸に押しつけ、しゃがみ込んで煙草を拾った。
「今さらそんなことを僕に聞くなよ。わかってたことだろ?」
「それは……そうだが……でも、やっぱり――」
藍沢が言い淀んだ声音を、知夙が鋭く断ち切った。振り向いた知夙の眼鏡の奥の視線は、氷のように冷たい。
「患者に情を寄せるな。お前はそういう医者じゃないはずだ」
藍沢は言葉を飲み込み、視線を逸らした。
知夙は立ち上がり、コツコツと革靴で床を叩きながら再びフェンスへ寄りかかる。
「――あの子は、僕たちのミスで生まれた。だからこうして最後までケアをしているだけだ。定期的に検査をして。たとえ数字がひどい現実を示そうと、結論は変わらない。……ただ」
知夙は一度口を閉ざす。
夕陽がビルの隙間に沈み込み、風が冷たさを帯び始める。
「その数値が正しいとするなら――予定と違う」
藍沢は顎に手を添えて、大きく頷いた。
「やはり……灸尾の魂を受け継いだことが関係しているのかもしれない」
「魂の重複、か……」
屋上を赤く染めていた光が、ゆっくりと薄闇へと変わってゆく。陽の落ちる速度が、ひどく早く思えた。
「だが本来、重複なら逆効果のはずだ。通常の個体なら、とっくに数値は急降下している。……それなのに逆の反応が出ているということは、あの子は生きる綱をどこかに繋いでいるんだ」
「――そうだと、いいんだが……」
藍沢の表情に、深い影が落ちる。
魂の重複――。
知夙が呟いたその言葉が、不気味な現実味を伴って胸に沈んだ。
「どういうことだよ!」
靁封神社へ到着した瞬間、ハルは勢いよく声を張り上げた。石畳を揺らすような怒気がこもり、境内の空気がわずかに震える。すでに集まっていた天人、舞子、源郎は深刻な面持ちでハルを迎えた。源郎は腕を固く組んだまま、沈黙を崩さない。
ハルは下唇を噛みしめた。その奥歯がきしむほどに。
――わかってる。
こんな気持ちをぶつけたところで、何にもならない。彼らが佰乃と一緒にいたわけじゃない。本当に現場にいたのは征爾たちだ。
だから、ハルには怒りを落とす場所がない。行き場をなくした感情が、胸の中で渦を巻き、溜まり、濁っていく。
……最近、こんなのばっかりだ。感情の高低が制御できない。心が、自分自身に追いつかない。
前は――。
前までは、こんなんじゃなかったのにッ!
堪えきれないものが破裂したように、ハルは天人の胸倉を掴み上げた。不意を突かれた天人が眉を寄せる。喉元を締め上げられたように息が詰まり、顔色がわずかに強張った。
舞子が慌てて駆け寄る。
「はーくん! 何して――」
「うるさい! 黙れ、黙れ、黙れッ!」
その叫びは、まるで刃物のように空気を裂いた。
……ハルだって、本当はわかっている。
こんなことをしても、佰乃が戻るわけじゃない。怒鳴ったって、何も変わらない。
じゃあ――どうすればいい?
この胸に溢れるものは、どこに流せば消えるの?
言葉にならない叫びが、ただ虚空を切り裂くだけ。
「お前らと会ってからだよ! お前らと会ってから、全部おかしくなったんだッ! ハルも、佰乃も、お互いがいればそれでよかったのに! ……なのに毎日毎日、日付が変わるたびに、どんどん狂っていった……! 佰乃は――佰乃はお前たちに笑うようになった! 今まで、そんな必要なんて……なかったのにッ!」
「ハル……お前、何言ってんだよ……」
胸倉を掴まれたまま、天人が睨み返す。彼の沈黙は長く続かない。怒気の針が限界まで振れれば、躊躇いは意味をなくす。
天人はハルの手首をがしりと掴んだ。反動をつけ、腕をひねり上げ、そのまま地面へと叩きつける。石畳に背中を強打し、ハルの口から弱々しい呻きが漏れた。
動けないまま、うつ伏せに倒れ込む。
反論する気力も、もう残っていなかった。
……否。
最初から、無意味だと知っていたのだ。
重たい腰を上げるようにして、源郎がゆっくり立ち上がった。ハルのそばへと歩み寄り、静かに膝を折る。そして、落ち着き払った声で、ただひとこと告げた――。
「取りあえず……まあ、落ち着け。佰乃はまだ生きてるし、この町のどこかにいる」
「そんなの、どうしてわかるの⁈」
焦燥に濡れたハルの声に、源郎は短く息をつきながら言った。
「嗚呼。だって、お前ら半妖の力は、俺の魂の一部だからな。消えりゃすぐにわかるし、遠ざかれば遠ざかるほど気配も薄くなる。……でも今は、ちゃんと感じられる。まだ問題ねぇよ」
「それ、早く言ってよねぇ⁉︎」
舞子はその場にへたり込み、胸をなでおろすように深い息をついた。
天人は、さっきハルを投げ飛ばした反動で固まった肩をぐりぐり回し、首を左右に振ってほぐしている。源郎は、倒れたままのハルの背にそっと手を置き、低く柔らかな声で問いかけた。
「佰乃がまだ近くにいるって……お前も、薄々わかってたんだろ?」
ハルは床の方を向いたまま、ほんの小さく頷く。
「じゃあ、まずは作戦会議だ。陰陽師の連中なんかより先に、てめぇらのやり方で佰乃を助け出せ」
源郎の言葉は不思議と静かで、しかし鋭い重みを持って境内に落ちた。
「……俺の意見としてはな。もし7羽のカラスが例の童話どおりなら――その妹の姫を探すのが、一番手っ取り早ぇと思うんだ」
「……なにそれ?」
舞子が小首をかしげる。その様子に、天人がはっと目を見開き、舞子の方へ顔を向けた。
――そうだった。この話を知っているのは、ハルと俺だけ。
沈黙が、ふいに境内へ落ちる。
風が一枚の木の葉を転がし、石畳の上でひゅうっと鳴いた。その音が、妙に遠く聞こえたのは――。
これから踏み入れる物語が、もう後戻りできないところまで動き出したからだ。
ご感想等お待ちしております☺︎




