さよなら、もう一人の私
三月の、湿った雪が降る夜だった。
佐藤美咲は、冷え切った部屋でスマートフォンの画面をぼんやりと眺めていた。
画面には、いつの間にかインストールされていた見慣れないアイコン。白と黒が反転したようなデザインに、「If-Line」という文字。
説明文には、こう記されていた。
『あの日、別の道を選んだあなたと、三分間だけ繋がります』
「……馬鹿馬鹿しい」
美咲は自嘲気味に呟き、薄暗い部屋を見渡した。
今日の仕事も過酷だった。市役所の戸籍住民課。窓口にはひっきりなしに人が訪れる。怒鳴り散らす男の対応に追われ、不備のある書類をめぐって何度も頭を下げた。
誰かの人生の節目を、淡々とシステムに入力する毎日。
かつてピアニストを夢見て、指の皮が剥けるまで練習に明け暮れた少女の面影は、今の彼女のどこにも残っていない。
母を長い介護の末に看取り、残されたのは埃を被った古いアップライトピアノと、消えることのない「もしも」という名の澱だけだった。
――もしも、あの日。
重い病に倒れた母の枕元を離れ、自分の夢を諦めずにオーディションへ向かっていたら。
気付けば、指が吸い寄せられるように画面の中の見慣れない発信ボタンを押していた。
呼び出し音は鳴らない。代わりに、画面が眩い光を放った。
思わず目を細め、顔を背ける。
視界が白く飛び、耳の奥でキーンと高い音が鳴った。
やがて光が収まり、恐る恐る画面を覗き込んだ美咲は、息を呑んだ。
「っ……!?」
画面の向こうに映ったのは、自分だった。
けれど、鏡のように自分と対峙しているのは、明らかに違う自分。
豪奢な楽屋。眩いばかりの漆黒のドレス。美しくセットされた髪、凛とした背筋。
画面の中の「彼女」は、驚いたようにこちらを見つめていた。背景では、公演を終えたばかりのホールから微かなざわめきが聞こえる。
「……嘘。本当に、繋がったの?」
彼女の声が、震えながらスピーカーから漏れた。
その響きには、美咲が忘れて久しい、かつての自分の「声」があった。
美咲は思わず、市役所の名札を外したままの薄汚れたスウェットの胸元を隠した。
「信じられない……」
ピアニストの美咲は、スマホのカメラに触れるように指を伸ばした。
その指先には、練習でついたであろう確かなタコが見える。
「……そこは、ニューヨーク?」
「ええ。カーネギーホールでの演奏会を終えたばかりよ。」
あちらの美咲は、窓越しに夜景を映した。そこには、美咲が音楽雑誌でしか見たことのない、煌びやかな摩天楼が広がっていた。
「……すごいね。本当に夢を叶えたんだ。私はね、あの日、母さんの傍に残ることを選んだ。それから十年、私の指はもう、一曲もまともに弾けない。毎日、他人の転入届を処理して、怒鳴られて、ただ時間が過ぎるのを待つだけの人生よ」
言い終えると、喉の奥が熱くなった。
成功した自分に、今の惨めな生活を笑って欲しかったのかもしれない。
誰かに「あなたは間違えたんだ」と断罪された方が、まだ救われる気がした。
しかし、画面の中の美咲は笑わなかった。それどころか、その完璧なメイクを施した瞳から、音もなく涙が零れ落ちた。
「ねえ、教えて。……あの日から、お母さんはどうなったの?」
美咲は、戸惑いながらも答えた。
「……三年、介護したわ。最後は、この部屋で。私の手を握りながら、眠るように逝った。『美咲、ごめんね。ありがとう』って、何度も、何度も言いながら……」
その瞬間、画面の中の彼女は、ドレスが汚れるのも構わずに顔を覆って泣き崩れた。
「……いいな。……本当に、羨ましい」
「……どうして? あなたは世界で一番の場所で、好きなことをしているのに」
「私の方はね、演奏旅行中に訃報を聞いたの。死に顔すら見られなかった。葬儀の日も、代わりのいないコンサートを優先させられたわ。……私は、お母さんを捨てて、ここにいるのよ」
豪華な楽屋が、急に冷たい牢獄のように見えた。
彼女が手に入れた栄光の土台には、一生消えない「後悔」が刻まれていたのだ。
「毎日、考えていたわ。もしもあの日、ピアノを捨ててお母さんの元に残っていれば、私はお母さんの手を握ってあげられたのにって。……あなたが持っているその温かい記憶を、私は今後どれだけ稼いでも、悔やんでも、もう一生手に入れられない」
美咲は、言葉を失った。
自分が「間違った選択をした」と思い続けてきた十年間。
けれど、別の世界の自分にとって、その時間は何物にも代えがたい「宝物」だった。
画面の中ではで、カウントダウンが始まっている。あと十秒。
二人の美咲は、どちらからともなく、スマートフォンのスクリーン越しに手を重ね合わせた。
「ねえ。私の分まで、お母さんの思い出を大切にして。……その日々には、すごく大きな価値があるのよ」
「……わかった。あなたも、私の分まで、その指で世界を震わせて」
三。二、一。
プツリと画面が暗くなり、部屋に静寂が戻った。
美咲は、ゆっくりと立ち上がった。
部屋の隅、埃を被ったアップライトピアノへ歩み寄る。鍵盤の蓋を開けると、ひんやりとした象牙の感触が指先に伝わった。
もう、プロにはなれない。誰に聞かせるわけでもない。
――けれど、母が一番好きだった、少し寂しくて温かいバラードを、美咲は一音ずつ、慈しむように弾き始めた。
窓の外では、新しい朝の光が、世界を静かに照らし始めていた。




