『真実の愛』を見つけたと酔いしれる婚約者と浮気相手が鼻につくので、【思念伝達】でお互いの心の声をだだ漏れ状態にしたら一瞬で破綻した
「アンリエッタ。僕と婚約してくれるかい?」
「かしこまりました」
10歳になる年。
王太子であるダレン・ロルフ・ヴィクトールから正式に婚約の申し出を受けた私は、淡々と、事務的な返答をした。
ダレンとは同い年で、幼い頃から面識があった。
上級貴族の中で王太子の婚約者を選ぶとすれば、公爵令嬢である私の名前が挙がることも、何らおかしいことではない。
指通りの良さそうな金色の髪と、宝石のように煌めく青色の瞳は日の光を帯びて美しく、気品のある佇まいと優しい笑顔は、まるでおとぎ話に登場する王子様そのものだ。
ごく一般的な令嬢であれば、嬉しくないはずがない。
未来の王妃という立場さえ、確定しているのだから。
「本当? 断られたらどうしようってヒヤヒヤしたよ。でも、アンリエッタが婚約者になってくれるなんて、僕は幸せ者だな」
そう言って微笑むダレンに、私はニコリと愛想笑いを浮かべた。
『相変わらずつまんねぇ女だな。人形かよ。顔が良いから婚約者に選んでやったけど、これじゃあ先が思いやられるな』
耳に響くダレンの声。
けれど目の前の彼は声を発していないので、私は変わらず笑顔を作る。
――あぁ、本当にうんざりするわ。
私は幼い頃から、人の心の声を聞くことが出来た。
その力のせいで、両親や使用人を怖がらせてしまったこともある。
好奇の目で見られることも珍しくない。
聞きたくなくても聞こえてしまうのだ。
表面上では私に優しい言葉をかけていても、本心ではみんな私のこの力を気味が悪いと思っている。
自分自身で制御することも出来ない。
だから私は、すべてを諦めることにした。
優しい言葉の裏で酷いことを思われていても、私は聞こえないフリをする。
誰にだって、何にも期待しない。
笑いたくなくても笑顔を振りまく。
そうすれば、自分の心が少しだけ楽になると気づいたから。
ダレンが私を愛していないことだって、最初から分かっていた。
だけど、王家から直々に縁談が舞い込んだのだ。
仕方ない。
そう何度も自分に言い聞かせた。
元々貴族間の婚約は、お互いが好意を抱いているかどうかはあまり重要ではない。
婚約者のダレンを陰で支えることが、私の役割だ。
きっとお父様とお母様も喜んでくださる。
公爵家の名に傷を付けることのないよう、務めをまっとうしなければ。
だから、今は――。
* * *
ダレンの18歳の誕生パーティー。
王城の夜会などによく使われる大ホールは、この日のために用意した色とりどりの料理や、豪華絢爛な調度品で煌びやかに彩られていた。
見上げれば首が痛くなってしまいそうなほど高く広々とした天井には、美しく輝くシャンデリア。
大ホールの奥には、様々な楽器を奏でるオーケストラの生演奏が耳に心地良い。
王族の生誕を祝うだけあって、そこら辺の一貴族とは比べ物にならないほど豪勢ね。
そんなことを考えていると――。
「アンリエッタ・レイドール! 今日この時を持って、お前との婚約を解消する!」
「かしこまりました」
その場にそぐわない苛立ちを含んだ声に、会場内はしんと静まり返る。
心配そうに様子を伺う招待客の眼差しを気にも留めず、真っ直ぐに私を指差して宣告するダレン。
そんな彼を見据え、私はいつも通りの事務的な返答をした。
けれどその態度が気に入らなかったのか、彼はキッと私を睨みつけてきた。
「婚約破棄を告げられたというのに、言うことはそれだけか? つくづく可愛げのない女だな」
そう吐き捨てると、ダレンは不機嫌そうに舌打ちをする。
「申し訳ございません。では、詳しく理由をお伺いしても?」
私は笑顔を崩さないまま、彼に尋ねる。
するとダレンはニヤリと口角を上げ、得意げに話し始めた。
「俺は昔から、同情でお前を婚約者にしてやっていたんだと気がついたんだ。何しろ、人の心の声が聞こえるとかいう気味の悪い力を持ったお前を、俺の婚約者に選んでやったんだからな」
『同情』などと、まさかそんな言葉が出てくると思わなかった私は、ぱちぱちと目を瞬かせる。
だが、ダレンは私がショックで言葉も出てこないと思っているようで、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「でも、俺が本当に好きなのはお前じゃない。真実の愛を見つけたんだ」
そう言って、ダレンは傍らに立つ人影を抱き寄せる。
ミルクティー色の髪色と、あんず色の瞳が可愛らしい小柄な少女だ。
「俺はお前との婚約を解消して、このルチアーナを新しい婚約者にする。人形のように何を考えているかも分からない女より、ルチアーナの方が妃に相応しいと、きっと父上も納得してくださるはずだ!」
高らかに告げるダレン。
私たちの会話を見守っていた招待客からは、戸惑いに満ちた声が漏れる。
『俺に捨てられたことがよっぽど堪えているようだな。まぁ、泣いて縋りついてきても、考え直してやるつもりは微塵もないが』
聞きたくもないダレンの本心に、小さく息を吐く。
公の場で、婚約者を乗り換えることを堂々と宣言しただけでなく、まるで自分たちがいかに親密な関係であるかを見せびらかすように、人目も憚らずに身体を寄せ合う軽率さ。
行動のすべてが浅ましく、これが我が国の次期国王なのかと思うと情けなくて涙が出てきそうだ。
「確か……ルチアーナさん、でしたね」
ダレンの陰に隠れて様子を伺っている少女に声をかけると、彼女は肩をビクッと跳ねさせた。
その瞳は涙で潤み、何かに怯えているかのようにダレンの袖を掴んでいる。
ルチアーナ・プラム。
男爵家の令嬢で、私やダレンのように王国内で最も格式高い名門校、ヴィクトール王立学園に通っている女子生徒だ。
「あ、あの……私――」
「やめろ! ルチアーナが怖がっているじゃないか!」
ダレンが声を張り上げた。
背後のルチアーナを庇うように。
「あら、随分と嫌われてしまったのですね。お名前を尋ねただけなのですが」
愛想笑いを崩さず答える私を、ダレンは睨みつける。
「白々しいことを……! 散々ルチアーナを虐めておいて、よく平然としていられるな!」
きっぱりと告げられた私は、小首を傾げた。
「虐めとは、一体何のことでしょう? そもそも私、こうしてルチアーナさんと向かい合ってお話をすること自体が初めてなのですけれど」
答えると、ルチアーナはダレンの袖を離し、数歩私の方へと歩み寄ってきた。
その目からは、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちる。
「ひどいです! アンリエッタ様。私に沢山の嫌がらせをしていたじゃないですか! ダレン様と親しく話す私のことが目障りだって。どうして本当のことを話してくれないのですか?」
声を震わせて訴えるルチアーナ。
手で口元を覆い涙を流す彼女を、同情の眼差しで見つめる招待客もちらほらと見える。
ルチアーナをなだめるように肩を抱いたダレンは、再度私に厳しい眼差しを向けた。
「俺に近づけば、ルチアーナだけじゃなくプラム男爵家もただじゃおかないと脅迫したそうだな。先日はルチアーナに怪我を負わせる目的で、彼女を階段から突き落とした。幸い軽い捻挫で済んだが、一歩間違えれば死んでいたかもしれないんだぞ!」
ダレンの言葉を合図に、ルチアーナはご丁寧にもドレスの裾を持ち上げて、包帯が巻かれた足首を見せつけてくる。
「ダレン様! 私、怖いです。このままじゃ、いつかきっとアンリエッタ様に殺されてしまうわ」
わぁっと泣き声を上げると、ルチアーナはダレンの胸に縋りついて涙を流す。
「あぁ、可哀想に。大丈夫。ルチアーナのことは俺が命に代えても守るから、何も心配しなくていい」
自分たちの世界に入り込んでいる2人を、私は冷めた眼差しで見つめた。
まるで寒い芝居を見せられているようで、頭が痛くなってくる。
私はこめかみを指で押さえ、ため息をついた。
そもそも、私がルチアーナを虐めているという話自体が、まったくのデタラメだというのに。
どうしてそんな簡単な嘘に騙されるのか。
呆れて言葉も出てこない。
日頃からダレンのことをどうしようもないと思っていたが、まさかここまで救いようのないバカだったとは。
『真実の愛』だ何だと言っておきながら、ルチアーナの本心にすら気づかないなんて――。
ダレンに抱きしめられているルチアーナを冷ややかに見つめると、彼女は周囲の人間に悟られないように、口元にうっすらと笑みを浮かべていた。
『あぁ、ほんっとうにチョロくて助かるわぁ。こんなに簡単にダレン様の婚約者になれるなんて』
ルチアーナの心の声が聞こえ、思わず顔が引きつりそうになる。
猫を被るのが随分と上手なのね。
私に代わって王太子妃になることが目的だったのかしら。
本心を一切表に出さず、さも自分が被害者かのように悲劇のヒロインとして立ち回るルチアーナには、呆れを通り越して関心さえしてしまいそうだ。
ダレンとの婚約は、元々私が望んでいたことじゃない。
婚約を解消すると言うのなら、それでも結構。
だけど――。
『これだけ騒ぎを起こしたんだ。アンリエッタを国外へ追放するくらいの厳しい処罰を求めても、何も不自然じゃないだろう。目障りな女を追い出すいい口実になった』
『いつもすました顔をしていて、ずっと気に入らなかったのよ。でも、いい気味だわ。私がアンリエッタ様の立場なら、大勢の前で婚約破棄されるなんて耐えられっこないもの』
聞こえてくるダレンとルチアーナの本心を聞き、最初から私を貶めようとしていたことは分かった。
お互いが愛し合っているというのなら、婚約でも結婚でも勝手にすればいい。
こんな人たちと話をするだけ時間の無駄。
私が反論したって、きっと何も変わらない。
いつもの私なら、そんな風に諦めていただろう。
だが、私を貶めようと企てていた2人に良いように利用されて、身に覚えのない罪まで着せられたというのに、大人しく引き下がるのは我慢出来ない。
口元に手を当ててクスッと笑みをこぼすと、ダレンは形の良い眉を吊り上げた。
「何がおかしい?」
「あぁ、申し訳ございません。真剣にお話をしているおふたりを笑うなんて、確かに無礼が過ぎましたね」
そう言って口元に貼り付けたような笑みを浮かべた私は、真っ直ぐに彼らを見据えた。
「だけど……真実の愛、ですか。何というか……ダレン様もルチアーナさんも、とっても幼稚なことを仰るのですね。まるで夢を語る幼子を見ているようで、それを笑うなという方が難しいのではございませんか?」
私の言葉に、ダレンの顔が怒りでカァッと赤くなる。
「なんだと……!?」
「そんな言い方ひどいです! 私たちは本当に――」
「えぇ、愛し合っているのでしょう?」
ルチアーナの声を遮って問いかけると、彼女はぐっと言葉を飲み込んだ。
「ですが……ご存じの通り、私にはおふたりの心の声がすべて筒抜けになっておりますので、正式にご婚約をされる前に、今一度考え直すことをお勧めします」
そう言うと、ルチアーナは「なっ……」と言葉を詰まらせる。
けれど反対に、ダレンはわなわなと肩を震わせると荒々しい声を上げた。
「いい加減にしろ! どうせそんな力なんて、最初から持っていないんだろう!」
ダレンの言葉に、私たちの周りを取り囲むように様子を伺っていた招待客たちは、驚いた様子で周囲に目配せする。
幼少期に私が不思議な力を持っていると発覚した当時は、貴族の間ですぐに噂が広まった。
10年以上経った今となっても、私が人の心を読めることを知っている人も少なくない。
だけど、両親や屋敷の使用人にさえ、この力を気味悪がられていたのだ。
たとえどんなにひどい言葉が耳に入ってきても、その詳しい内容まで誰かに話したことは一度もない。
だからこそ、私が嘘をついているのではないかとダレンが疑っていることも、すべて分かっていたのだが――。
「嘘、ですか」
「あぁ、そうだ! もし本当に心の声が聞こえているのなら、そもそも俺との婚約を受け入れるはずがない!」
なるほど。
つまりダレンは、心の中で私のことを散々罵っていたという自覚があるのか。
けれど、確かに普通の人間ならば、自分を見下している相手との婚約をすんなり受け入れるはずがない。
私が嘘をついていると思ったことにも納得だ。
「そんな……。まさかアンリエッタ様が、そんな噓をついていたなんて」
ダレンの言葉に便乗した様子で、ルチアーナも声を上げる。
「あぁ、そうに決まっている。大体、偉そうなことを言っておきながら、俺がルチアーナと会っていることにさえ気がつかなかっただろう!」
「ずっと前から気づいていましたが?」
「そうだろう! ……は?」
ダレンは素っ頓狂な声を上げると、私を見つめて固まった。
予想していなかった言葉に焦っているのか、何度も目を瞬かせる。
「心の声が勝手に聞こえてしまうんです。不可抗力だわ。でも、せっかくのいい機会ですし、あなたたちの出会いから何まで、今ここで詳しくお話しましょうか? 私が嘘をついていると思われるのも癪なので」
淡々と答えると、ダレンは眉間にしわを寄せて口を閉ざした。
ルチアーナも半信半疑な様子で、疑念に満ちた瞳で私を見つめている。
「確か半年ほど前、学園の中庭に高くそびえる千年樹の下でおふたりは知り合ったそうですね。大切なハンカチを落として困っていたルチアーナさんを、ダレン様が助けて差し上げたとか。……あらあら、まるでロマンス小説のようなベッタベタな出会いだったのね」
そう微笑んで、ダレンの心の声から仕入れた情報を正確に伝えていく。
ギョッとした表情で目を丸くする2人。
本当にそんな能力があるとは思っていなかったのか、動揺と焦りをその瞳に映している。
「どうしてそれを……。私たちしか知らないはずなのに――」
「だから言ったではありませんか。人の心の声が聞こえると」
呆気に取られるルチアーナの言葉を遮って答える。
「けれど残念ですね。せっかく運命的な出会いを果たしたというのに、おふたりが巡り合ったのは偶然ではないようですよ」
「……どういう意味だ?」
怪訝な表情を浮かべるダレンに視線を向け、私は続けて口を開く。
「ルチアーナ様はダレン様とお近づきになるため、様々な下準備をなさっていたんだとか」
ルチアーナを一瞥すると、彼女はハッと顔を上げた。
その額には、わずかに冷や汗が滲んでいる。
「ルチアーナさんがダレン様のお傍をうろつくこと半年。やっとの思いでダレン様に声をかけていただけたようです。また、ダレン様の行動範囲を正確に把握するために費やした期間は、およそ1年くらいかしら」
「1年!?」
「はい。見た目以上に、ルチアーナさんは努力家でいらっしゃるのね」
さすがのダレンも驚いた様子で声を上げる。
目的を達成するために涙ぐましい努力を重ねていたことは認めるが、だからと言って私に嫌がらせを受けているなどと濡れ衣を着せようとした現状を、許すつもりはないけれど。
「……じゃあ、アンリエッタ様はずっと前から、私の存在に気づいていたんですか?」
「えぇ。ダレン様に熱心な追っかけがいると思っていたのだけど、それがまさかルチアーナさんだったとは思いませんでした」
イタズラっぽく微笑んでみせると、怒りでカッと頬を赤く染めるルチアーナ。
肩をぷるぷると震わせ、悔しげに私を睨みつけてくる。
しばらくの沈黙のあと――。
「そう……ですか。だからアンリエッタ様は、私に嫌がらせを繰り返すようになったんですね」
ルチアーナが顔を上げると、その大きな瞳からはぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
何ともわざとらしい。
私を嘘つき呼ばわりしたことを謝るでもなく、自分の立場が弱くなると涙を流して被害者ぶるなんて。
あまり関わりたくないタイプを聞かれれば、ルチアーナと即答するくらいには苦手な人種である。
こんな古典的な手口に騙される人間はいないと思いたいが――。
「アンリエッタ! 一体どこまでルチアーナを虐めれば気が済むんだ!」
まさかそれが自分の元婚約者だなんて、そんな光景、出来ることなら見たくなかったわね。
「アンリエッタ様は、私がダレン様と親しくしていることが許せなかったんですよね? でも、そんな卑怯なことをしてダレン様の心を繋ぎ止められるはずもないじゃないですか!」
そう言って、ルチアーナは涙ながらに訴えた。
「――まぁ、さっきから黙って聞いていれば、アンリエッタ様になんて口を利くのかしら……」
「けど、ルチアーナ嬢の話が本当なら、悪いのはアンリエッタ様じゃないのか」
背後でひそひそと話をする貴族たちの言葉に耳を傾けて、小さく息を吐く。
あぁ、面倒くさい。
本当にすべてがどうでもよくなってしまいそうだ。
大勢の前で婚約破棄を宣言されるだけじゃなく、ルチアーナに嫌がらせをしていたなんてデタラメな事実を突きつけられるなんて。
今日は人生で一番最悪な日だわ。
「分かりました。では、私がルチアーナさんを虐めていないという証拠をお見せすれば、満足していただけるのですね?」
問いかけると、ダレンは嘲笑うようにニヤリと口の端を吊り上げた。
「あぁ、いいだろう。まぁ、そんな証拠が本当にあればの話だがな」
私が口から出まかせを言っていると思っているのか、ダレンは余裕たっぷりの笑みで答える。
「だが、これだけ騒ぎを大きくしたんだ。もしも決定的な証拠を見せられなかったその時は、厳しい処罰を受ける覚悟があっての発言だろうな?」
「厳しい処罰、と申しますと?」
「学園の罪のない一生徒を、お前の身勝手な言動で傷つけたんだ。国外追放を命じられても、文句は言えないだろう」
やっぱり、そういうこと。
ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべるダレンを見つめ、改めて彼の狙いを確信する。
ダレンは昔から、気に入らない生徒に言いがかりをつけては、適当な理由で生徒に厳しい処罰を求めていた。
その原因は、肩がぶつかったとか目つきが不快だとか様々だが、その大半は聞くに堪えない理不尽なものばかりだ。
それは婚約者だった私に対しても例外ではない。
きっとルチアーナと親しい間柄になってからは、特に私のことが疎ましくて仕方がなかっただろう。
彼女を新しい婚約者にして、目障りな私を国外にでも追いやることが出来れば、きっとダレンにとっては最高の結末。
――だけど、そんなくだらない理由でこんな人たちに苦しめられるなんてごめんだわ。
そんな思いから、ぎゅっと拳を握りしめる。
本当は使いたくなかったけれど、事情が事情だ。
仕方ない。
そう心の中で自分に言い聞かせた。
「……実は私、人の本心が分かる以外にも、もうひとつ別の力を持っているのです。この力は私の両親と、我が家で働く一部の使用人にしか知らせておりません」
淡々と告げると、ダレンは何を言っているのか分からないとでも言いたげな表情で、分かりやすく眉根を寄せた。
それはルチアーナも同じようで、2人で顔を見合わせている。
私はダレンとルチアーナに手をかざすと、目をつぶって小さく呪文を唱えた。
「――思念伝達」
その瞬間。
温かい風が円を描くようにダレンたちを包み、吹き抜けていく。
もちろん大ホールの扉はすべて閉め切っている。
その状況でダレンとルチアーナの周りにだけ風が吹くというのは、誰がどう見ても不自然な光景だろう。
「何だったんだ……?」
何か異変はないかと、自分の身体を見下ろしていたダレンがぽつりと呟く。
「今のが、アンリエッタ様のもうひとつの力ですか? でも、見たところ何も変わったことは――」
ホッとした様子でルチアーナが口を開いた時。
『まったく、どんなすごい能力かと思ってみれば、ただの見かけ倒しか。やっぱりアンリエッタを顔だけで婚約者に選んだのは失敗だったな』
大ホールに突然響き渡るダレンの声に、会場内はしんと静まり返った。
当のダレンは反射的に自分の口元を抑えるが、すぐに自分の口から発せられた言葉ではないことに気づいてうろたえる。
「なっ……なんだよ、これ! 一体どうなってるんだ!?」
「思念伝達。私は自分の近くにいる人間の心の声が聞こえますが、対象者の思考を、対象者の声で、周囲の人間に聞かせることも出来る。それが私の、もうひとつの能力です」
「は……?」
私の説明を聞いたダレンは、愕然とした様子で声を漏らした。
心なしか顔色はわずかに青白く、こめかみから流れる冷や汗が輪郭を伝って滴り落ちる。
「そ、そんなバカげた能力があるわけないだろ。何をいい加減な――」
「すべて事実です。その証拠に……」
冷ややかな笑みを浮かべ、私は自分の耳を指さした。
『くそっ、どこまでも癪に障る女だ。こんなことになるなら、適当な理由をつけてもっと早く国外へ追放するべきだったな』
「ダレン様の心の声が聞こえてきますでしょう?」
反論の言葉が出てこないのか、ダレンは口をパクパクと動かした。
「まぁ、あんなにひどいことを……」
「いくら何でもアンリエッタ様がお可哀想だわ」
ひそひそと話す令嬢たちの声。
それを聞いたダレンは、慌てて弁明しようとする。
「ちっ……違う! 俺はそんなこと思ってない!」
普段は自分に反発する人間は真っ先に処罰の対象となるが、本心が洗いざらい暴露されてしまうこの状況では、さすがのダレンもそれどころではないようだ。
『何てことをしてくれたのよ! ダレン様を奪うために、せっかくアンリエッタ様に虐められてるって嘘までついたのに! おかげで私の計画がめちゃくちゃじゃない!』
声のした方へと視線を向けると、たらたらと冷や汗を流すルチアーナと目が合った。
「ダレン様の婚約者の立場を奪うために私に虐められていると『嘘』をついていたようですが……。ルチアーナさん、何か弁明することはありますか?」
今回の騒ぎの元凶とも言えるルチアーナの本心まで暴露され、招待客のどよめきが聞こえてくる。
当の本人は状況を打開する手立ても思いつかないようで、目を左右に泳がせた。
「で、でも私、ダレン様に振り向いてほしくて……」
目に涙を浮かべて言い淀むルチアーナ。
王太子を、ましてや婚約者がいる男に対して『振り向いてほしい』などと、人間性を疑わざるを得ないような信じられない理由で、私を貶めようとしたのか。
呆れて言葉も出てこない。
「ルチアーナを責めるのはやめろ!」
そんな彼女を庇うのは、またしてもこのバカ王太子である。
「ルチアーナのしたことは、確かに多少度が過ぎていたかもしれない。だが、今回の一件はすべて俺への愛が強すぎるが故に起こった悲劇だろう!」
一体いつまでそんな寝ぼけたことを言うつもりなのか。
ダレンの言葉の数々は、どれも自分たち本位のものばかり。
開いた口が塞がらないというのは、こういう時のことを言うのかしら。
私は大きくため息をつくと、真っ直ぐにダレンを見つめた。
「それほどルチアーナさんを庇われるのは、私よりも彼女の方が王太子殿下の婚約者として相応しい器であると思っておられると解釈してもよろしいですか?」
「あぁ、その通りだ」
「では、ルチアーナさんのどこを見て、そのように思われたのでしょう?」
「どこって……それは、その、優しくて親しみやすい性格とか……」
ダレンはしどろもどろになりながら、当たり障りのない返答をする。
下手なことを言えば、いつまた心の声が暴露されるか分からない。
そう思っているのか、私が問いかけるたびに彼の瞳がわずかに揺らぐ。
「優しい性格? ふふっ、本当ですか? 私との婚約を結んだ際も、私の顔にしか興味を示していただけなかったダレン様が?」
笑みをこぼす私に、ダレンは慌てて口を開こうとするが――。
『妃にするなら顔の造形以外は別にどうでもいい。立ち振る舞い、知性や教養はアンリエッタと比べれば雲泥の差はあるが、ルチアーナを宝飾品のような感覚で隣に置けば、それなりに見栄えもいいだろう』
「うわああああああああっ!!!!!」
次々と暴露されていく本音に、ダレンは咄嗟に叫び声を上げた。
しかし時すでに遅く、冷ややかな眼差しが一斉にダレンに注がれる。
「宝、飾品……。ダレン様、今まで私をそんな風に……?」
「ちっ、ちが……! 俺はそんなこと……!」
慌てて訂正しようとしたものの、ダレンはキッと鋭い眼差しで私を睨みつける。
頭に血が上りやすい彼のことだ。
恨みを買うことは覚悟していた。
今さら一歩も引くつもりはない。
そんな思いから、私も彼の瞳を睨み返した。
だけど私の態度にさらに腹を立てたのか、ダレンは荒々しい歩き方で私に近づいてくる。
「おい、あんまり調子に乗るなよ」
威圧感を感じさせる低い声。
目の前で足を止め、ダレンは私を見下ろした。
振り上げられた手。
引っ叩かれることを覚悟した私は、咄嗟に目をつぶる。
その直後、パシッと乾いた音が耳に届く。
しかし、予想とは裏腹にどれだけ待っても、私の頬に痛みを感じることはなかった。
「女性に手を上げるなんて、一体どこまで醜態を晒せば気が済むのですか? 兄上」
ふいに聞こえた、凛とした声でつぶやく男の声。
恐る恐る目を開けると、私を背後で守るように立っている男の姿を視界に捉える。
よく見ると、私を引っ叩くために振り上げられたダレンの手首を掴み、止めに入ってくれたようだ。
「邪魔をするつもりか! ウィルベルト!」
怒りに任せて怒鳴り散らすが、手を捻り上げられたダレンは痛みで苦悶の表情を浮かべる。
男に突き飛ばされて地面に転がるその姿は情けなく、とてもではないが王族の威厳や風格などは微塵も感じられない。
男はそんなダレンの言葉に答えることなく、背後で立ち尽くす私に視線を移した。
艶やかな瑠璃色の髪がさらりと揺れる。
優しげに細められた蜂蜜色の瞳は美しく煌めいていて、見ているだけで吸い込まれてしまいそうだ。
その眉目秀麗な顔立ちに思わず見惚れていると――。
「間に合って良かった。怪我はないか? アンリエッタ嬢」
私の身を案じてくれる彼の言葉に、ハッと我に返る。
ウィルベルト・ハンス・ヴィクトール。
この国の第二王子で、正真正銘ダレンの弟だ。
「私は何ともありません。助けていただいてありがとうございます、ウィルベルト殿下。ですが、どうしてあなたがこの場に……?」
殿下は隣国への視察のため、3日ほど前から王城を留守にしており、今日のダレンの誕生パーティーは参加出来ないと伝えられていた。
なのに、なぜ――。
「実は、あなたに伝えたかったことがあったんだ。今日、この場で」
「私にですか?」
どういったご用件でしょう?
そう尋ねようとした時。
口を開く前に殿下に手を取られ、真っ直ぐな眼差しで瞳を見つめられる。
「俺と結婚してくれませんか? アンリエッタ嬢」
王子としての気品溢れる紳士的な所作に、思わず感心する。
大半の人間が想像する王子様は、やっぱりこんな感じよね。
王太子という肩書だけを持った粗暴な男が近くにいた気もするけれど、本当に兄弟なのかと疑ってしまうほど正反対である。
……あら? そういえばウィルベルト殿下は、今なんと仰ったのかしら。
確か、けっこん――。
「……はぇ?」
やっと言葉の意味を理解し、人生で一度も出したことのないような間の抜けた声が、口からこぼれ出た。
突然かけられた求婚の言葉に、顔がみるみると熱くなっていく。
「すまない。いきなり結婚なんて、先急ぎ過ぎているように感じるだろうか? 兄と婚約を解消したのなら、俺をあなたの婚約者にしてほしい」
透き通るような優しい声で、真っ直ぐな言葉をかけられる。
「こんやくっ……!? あ、あの、あのっ、お気持ちは大変嬉しいのですが、どうして私にそのようなことを……?」
焦って言葉を詰まらせながらもそう尋ねる私に、ウィルベルト殿下は穏やかな笑顔を浮かべた。
「今言わなければ、きっと後悔すると思ったんだ。アンリエッタ嬢は人の心の声が聞こえているのだろう? なら、俺があなたを本気で好きなことも、これがすべて嘘偽りのない本心であることも分かるはずだ」
真剣な瞳に覗き込まれ、目を逸らせなくなってしまう。
確かにさっきから、殿下の誠実さや真剣な気持ちが伝わってくる。
彼の言う通り、その言葉のすべては彼の本心のようだ。
――むしろ。
耳元でずっと愛の言葉を囁かれているようで、落ち着かない!
ドキドキし過ぎて心臓が痛い!
恥ずかしくて、照れくさくて、顔から火が出てしまいそう。
ダレンには情熱的なアプローチをされたことがないからだろうか。
ウィルベルト殿下のように、曇りのない真っ直ぐな言葉で迫られることに弱い自分に気づき、ほんの少し複雑である。
けれど、そんな状況を鼻で笑うダレンの声が、私を現実へと引き戻した。
「お前、正気か? 俺が捨てたゴミを欲しがるとはな」
するとウィルベルト殿下は、先ほどの優しい笑顔から打って変わり、氷のように冷ややかな眼差しでギロッとダレンを睨みつける。
「安心しろって。そんな女が欲しいなら、いくらでもくれてやるよ」
「口の利き方には気をつけた方がいい。アンリエッタ嬢を貶めれば貶めるほど、困るのは兄上の方だ」
「は?」
弟が告げた言葉の意味が理解出来ないようで、ダレンは苛立ちを隠そうともせず、不機嫌そうな声を漏らす。
「第一、真実の愛がどうとか言っていたけれど、兄上こそ、もう少し女性を見る目を養った方がいいのでは?」
「なんだと!?」
声を荒げるダレンに反応することなくルチアーナに視線を向けると、殿下は含みを持たせた言い方で声をかけた。
「ねぇ? ルチアーナ嬢」
突然名前を呼ばれた彼女はビクッと肩を跳ねさせる。
明らかに動揺している様子だ。
「い、一体なんのことだか分かりません。私は別に……」
何かを隠そうとしているのかしら。
けれど、そんなルチアーナの思いもむなしく、思念伝達の効果はまだまだ続き――。
『どうしてウィルベルト様がここにいるの!? まずいまずいまずい! このままじゃ、私が元々ウィルベルト様狙いでダレン様に近づいたことがバレてしまうわ!』
「……は?」
盛大に暴露されたルチアーナの本音に、ダレンは固まった。
聞き間違いだとでも思っているのか、何度も目を瞬かせては首を傾げている。
「ルチアーナ、今のは……」
「違います! そんなこと思ってません! 私はダレン様一筋で――」
必死に弁明しようとするが、ルチアーナの心の声は止まらない。
『どうしてよりによってアンリエッタ様なの!? 私が何度迫っても、一度だってあんな風に微笑んでくれなかったのに! でも、王太子妃になれるっていうからダレン様で妥協したんじゃない! なんで全部上手くいかないの!? こんなことになるなら、そこら辺の貴族のボンボンで我慢しとくんだった!』
「いやああああああああっ!!!」
次々と明らかになるルチアーナの本性。
一生胸にしまっておくはずだった本音が勝手に吐き出されて耐え切れなくなったのか、彼女は叫び声を上げた。
そして、王子に対する非礼や侮辱の数々。
無知で片付けるには、あまりにも度が過ぎている。
「ルチアーナ! 今のは全部本当のことなのか!?」
「だ、だからそれは――」
「いいから答えろ! 俺がウィルベルトよりも劣っていると言いたいのか!?」
ダレンはルチアーナの肩を掴み、発言を撤回しろと迫った。
初めは弁明しようと必死だったルチアーナも、段々と苛立ちを隠せなくなっているのか眉間にしわを寄せる。
『あなたのそういう高圧的な態度が嫌いなのよ! 怒鳴れば女が言うことを聞くとでも思っているの?』
本音を暴露されてヤケになっているのか、ルチアーナは自分の口からもダレンに対する不満をぶつけた。
「そ、そうよ! もっとウィルベルト様を見習ったらどうなの!? 野蛮過ぎて、とてもじゃないけど王子様には見えないわ!」
『なんだと!? 金と権力を持った男なら、見境なく飛びつくお前のような尻軽女にだけは言われたくない!』
ダレンも自分の本心に相づちを打つように、ルチアーナを批判し始める。
「そうだそうだ! 男を追いかける暇があるなら、もっと教養を身に着けたらどうなんだ!」
「うるさいわね! 大体、なによ真実の愛って! 寒すぎて風邪を引くところだったわ!」
「お前こそ、運命の恋がどうとか言ってただろうが!」
思念伝達の効果で自分たちの心の声がだだ漏れになっているというのに、気にせずお互いのことを罵るダレンとルチアーナ。
呆れた。大勢に見られているのに、さらに自分たちの恥を上塗りしていくなんて。
でも、案外似た者同士だということは間違いないわね。
そんなことを考えていると、2人はキッとわたしを睨みつけてきた。
「よくも恥をかかせてくれたな! おかげで俺はいい笑いものだ!」
「私なんてあと1年、学園に通わなくちゃいけないのよ! それなのに大勢の前でこんな……。大人しく婚約者を渡していれば済んだ話じゃない!」
「そうだ! お前さえいなけりゃこんなことにはならなかったんだ! この忌々しい能力を今すぐ解除しろ!」
自分たちの行いを棚に上げ、私に詰め寄るダレンとルチアーナ。
彼らの中では、私が悪者だという事実は揺るがないらしい。
2人の言動は相変わらず不快だが、勝手に自滅していく彼らを前にして、私の心はまるで日の光が差したようにとても晴れやかだった。
「あら、そもそも最初から立場の危うくなるようなことをしなければ、こんなことにはならなかったのではありませんか。自業自得では?」
そう告げると、ダレンとルチアーナは反論出来ずにぐっと押し黙る。
ふと隣に視線を向けると、私たちのやり取りを見守っていたウィルベルト殿下がくすくすと笑みをこぼしていることに気づき、ハッと我に返った。
しまった。
意地の悪い女だと思われてしまったかしら。
やり過ぎてしまったかもと不安になる私をよそに、殿下はまるで少年のような無邪気な笑顔を浮かべている。
「どうかしましたか?」
「いいや。物静かでひたむきな普段のアンリエッタ嬢も好きだったが、真正面から思ったことをハッキリと話す今のあなたも可愛くて素敵だと思っただけだ」
「か、かわっ……!?」
ウィルベルト殿下のストレートな愛情表現に、頬が熱を帯びて真っ赤に染まっていく。
思えばダレンと長い時間を共に過ごしていても、一度もこんな気持ちになったことはなかった。
ダレンから婚約破棄を告げられたのは、つい先ほどの話。
だというのに、すぐに他の男性と婚約するなんてはしたないことだと思っていた。
だけど、ウィルベルト殿下はこんなにも私を見てくれて、充分過ぎるほどの愛情も伝えてくれる。
何よりも、地位も権力も申し分ない。
国民からも陰でバカ王子と呼ばれているダレンと比べれば、神様に見えてしまうほどウィルベルト殿下の方が常識人であることは間違いないし、王族に必要な知識や教養も備わっている。
そして国民からの信頼も厚く、剣術の腕前は歴代の王族と比べてもピカイチ。
顔だって、実際のところダレンよりも好きだったりする。
……この婚約、悪くないどころか最高なのでは?
「アンリエッタ嬢?」
殿下に名前を呼ばれ、ハッと我に返った。
婚約破棄をされたばかりだというのに、他の男性から求婚されたことを嬉しいと思うなんて。
本当に私、ダレンの婚約者という立場を失っても、まったくショックを受けていないのね。
公爵家の娘として、未来の王妃として、国を支えることが私の使命だとずっと思っていた。
王太子であるダレンとの結婚は、ただの義務。
やっと彼から解放されたと思うと、嬉し過ぎて顔がにやけてしまいそうになる。
「ウィルベルト殿下。先ほどは助けてくださって、本当にありがとうございます」
そう言って私は、彼に微笑んだ。
作り物ではなく、心の底から笑ったのは何年ぶりだろうか。
殿下は一瞬驚いたような表情を浮かべるが、すぐに優しい笑みを返してくれた。
しかし、ダレンはそんな私たちが気に入らないようで――。
「おい! いつまで俺たちを待たせるつもりだ! すぐに力を解除すれば、お前を国外追放することだけは考え直してやる!」
まだそんなことを言っているのか。
公の場でここまでみっともない姿を晒しておいて、変わらず横柄な態度を取り続けるダレンの神経の図太さには驚かされる。
「ご安心ください。私の力はあくまで、対象の人物の本音を周囲の人間に知らしめる能力。建前など使わずに初めから本音でしゃべってしまえば、この力が作動することもございません」
そう告げると、ダレンは慌てて声を張り上げた。
「そっ……、そんなこと無理に決まっているだろう! これじゃあ普通に会話をすることだって――」
ダレンは額に冷や汗を浮かべながら、必死に訴えかける。
その時。
「随分と騒がしいな」
威厳のある落ち着いた声がふいに聞こえ、その場にいた者たちは声のした方へと一斉に視線を向けた。
「こっ、国王陛下……!」
冷厳な眼差しで私たちを見つめる父親に気がつくと、ダレンはバツが悪そうに俯き、瞳を左右に泳がせる。
陛下は歩み寄ると、私に向き直って深々と頭を下げた。
「アンリエッタ嬢、息子が大変申し訳ないことをした。この場で謝罪させてほしい」
ダレンとの婚約は決して望んでいるものではなかったが、陛下は私が幼少期の頃から何かと気に掛けてくださっていた。
お優しい陛下のことだ。
ダレンの暴走で私が深く傷ついているのではないかと、心配をしてくださっているのだろう。
今回の一件は特に気に病んでいないことを伝えると、陛下は決意したような瞳で私を見つめた。
「ダレンと親密な関係である女生徒の存在は、ずっと前から私の耳にも届いていた。今日の誕生パーティーで、ダレンがアンリエッタ嬢との婚約を解消するつもりでいるかもしれないという噂もすべて」
「なっ……一体どこの誰がそんなことを――」
驚きを隠せずにいるダレンの言葉を遮り、陛下は続けて口を開いた。
「アンリエッタ嬢は、幼い頃より未来の王妃としての務めを果たし、王家を支えてくれた。そのことは本当に感謝している。だからこそ、そなたの気持ちを最優先して、ダレンとの婚約解消も認めざるを得ないと思っているのだ」
そもそも私とダレンの婚約は、国王陛下からの直々の命令でもあった。
いくらダレンが婚約を破棄すると騒いでも、陛下がお認めにならない限りは縁談を白紙にすることは出来ない。
婚約破棄が現実のものになったことに、ホッと息をつく。
続いて陛下はダレンに向き直ると、彼の頬を力いっぱい引っ叩いた。
パンッと乾いた音が、大ホールに響き渡る。
「…………っ!!!」
頬に感じた鋭い痛みに、ダレンは唖然とした表情で陛下を見つめ返した。
「ダレン・ロルフ・ヴィクトール。本日をもって、お前の王位継承権を永久に剥奪する」
「え……?」
何を言われたのか理解出来ないようで、ダレンは目を白黒させて陛下を見つめている。
「アンリエッタ嬢を私欲のために貶めようとした挙句、ここまで醜態をさらしたんだ。まさか、何もお咎めがないと思っていたわけではないだろう?」
「お、お待ちください! 王位継承権の剥奪とは、いくら何でも処罰が厳しいのではないでしょうか……!?」
「何を言っている? 件の騒ぎに対する処罰がそれだけでは、軽すぎてアンリエッタ嬢に顔向けできない
と思っているくらいだ」
「は……?」
陛下の無慈悲な言葉に、ダレンは顔面蒼白になりながら口の端を引きつらせる。
「ダレン。お前には、ドラグニア王国への無期限の留学を命じる。出立は5日後だ。それまでに荷物をまとめておけ」
「ドラ、グニア……」
力なく座り込み、ぽつりと呟くダレン。
ドラグニア王国とは、我が国の遥か東に位置する小さな島国だ。
昔から友好関係を結んでいる国ではあるが、国民の間では未開の地とも呼ばれており、文明レベルにも差がある。
船どころか馬車すら存在しない国だ。
ドラグニア王国へ送られれば、自力で帰ることはほぼ不可能だと思った方がいい。
しかも、無期限とは――。
罪人でいう島流しのようなものね。
「お前の日頃の行いは、以前から目に余るものがあった。長子である以上お前を次期国王とすることが正しいのだと思ったこともあったが、優秀なウィルベルトを次期国王に即位させるべきだと推す声も多く、無視は出来ない状況だった」
「…………っ」
陛下から告げられた厳しい声に、ダレンは悔しげに唇を噛みしめた。
きっと普段から弟と比べられることに、劣等感を抱いていたのだろう。
「しかし私は、お前が国王の器じゃないと簡単に切り捨てることが出来なかった。だから、最後のチャンスとしてアンリエッタ嬢を推薦したのだ。お前の婚約者としてな」
すると、ダレンはハッとした表情で顔を上げた。
その言葉の意味を理解したかのように。
「公爵家の肩書だけではない。その多彩な知識や教養、多くの人間を惹きつけてやまない人柄。私は彼女こそが王妃として人々の上に立つに相応しい存在であると、強く認識していた」
陛下の言葉に、目頭がじんと熱くなる。
幼い頃から良くしていただいていたが、まさかそこまで私のことを評価してくれているなんて思わなかったから。
ちらりとダレンに視線を向けると、彼は俯いて肩を震わせていた。
とても思いつめたような表情で、自分の軽率な行動をひどく後悔しているように見える。
「アンリエッタ嬢が王太子妃になってくれるのならという条件で、お前に王位継承権第一位を与えたのだ。だが、2人が婚約を解消した以上は、ダレンを国王に即位させることも出来ない」
それは私がダレンと婚約を結ぶ際、陛下から直々に聞かされていたことだ。
もちろん、私との婚約を破棄すればダレンが国王になる道も絶たれることは知っていたが、あえて何も話さないことを心に決めていた。
私を裏切っていたダレンに対する小さな復讐のつもりで。
そこまで言われると、ダレンは慌てて顔を上げた。
そして私に駆け寄ると――。
「アンリエッタ! 俺が悪かった! ぜんぶっ……全部謝るから! もう一度俺とやり直してほしい! この通りだ!」
目の前で跪くと、ダレンは縋りつくように私に泣きついてくる。
先ほどの威圧的な態度はすでになく、情けなく懺悔するその姿は今までの彼からは想像も出来ないほど、ひどくかけ離れていた。
「8年も婚約者として過ごしてきたんだ! お前の優しさは俺が一番よく知っている! 困っている婚約者を見捨てるようなひどい女じゃないだろう!?」
助けを求めるように、手を伸ばしてくるダレン。
そしてドレスに触れる寸前、私は彼の手を払いのけた。
「もう一度やり直してほしい、ですか。随分と虫のいいことを口走るのですね」
冷めた眼差しでダレンを見下ろし、抑揚のない声で呟いた。
いくら謝罪の言葉を聞かされたところで、この人を許すつもりはない。
「私のことを『自分が捨てたゴミ』だと仰っていたではありませんか。8年間も婚約者だった私をあっさり切り捨てたあなたを、どうして私が自分の人生を犠牲にしてまで夫に選ばなければならないのですか?」
冷酷な言葉で突き放すと、俯いたままぽろぽろと涙を流すダレンを一瞥した。
「……そういえば、お返事がまだでしたね」
乱れた呼吸を整えるように小さく息を吐き、私は殿下に向き直る。
「ウィルベルト殿下。先ほどのご婚約のお話、謹んでお受けいたします」
殿下は驚いた表情で私を見つめるが、すぐに顔を綻ばせた。
本当に幸せそうに。
そんな彼を見ていると、何だか私まで笑顔になってしまう。
ダレンは私に見捨てられた悲しさやら悔しさやらで、プルプルと肩を震わせた。
「……そうだ、ルチアーナ。お前なら、俺と一緒にドラグニアまで来てくれるだろう?」
私を心変わりさせるのは不可能だと思ったのか。
今度はルチアーナに矛先を変えたようだ。
「離れた土地での慣れない生活でも、きっとふたりでなら乗り越えられる! 取り返しのつかないことをしてしまったが、また一からやり直そう」
けれど、ルチアーナは苛立った様子で舌打ちすると、侮蔑の眼差しでダレンを睨みつけた。
「冗談じゃない! 王太子妃になる夢も潰されたのに、どうして私が追放されるダレン様にわざわざついていかなくちゃいけないのよ!」
すべてを失って、自分を取り繕う必要性すら感じなくなったのか。
やり場のない怒りをダレンにぶつけるルチアーナ。
先ほどのしおらしい彼女の面影は、すでにどこにもない。
「そんな……」
真実の愛を語っていたはずのルチアーナにまで見放されたことが相当ショックだったようで、ダレンはがっくりと肩を落としてうなだれる。
「待ちなさい、ルチアーナ嬢」
陛下に呼び止められ、彼女はぴたりと足を止めた。
「……騒ぎを起こしてしまったことは反省しています。すみませんでした。ですが、私がこれ以上この場にいても――」
「それはもう良い。この騒ぎの元凶だったダレンには厳しい罰を与えたのだ。その件に関してはそなたを罰するつもりはない」
陛下がきっぱりと断言すると、ルチアーナの表情がパァッと明るくなる。
どうやら、何のお咎めもないことに安堵しているようだ。
「そ、そうですよね! 確かに嘘をついたことは私も悪かったと思っていますけど、何か処罰されるようなことをしたわけじゃありませんし」
ホッとした様子で、ルチアーナは饒舌に話し始めるが――。
「公爵家嫡男、ライゼル・ヴァルグレイン」
ウィルベルト殿下がとある名前を呟くと、ルチアーナの顔つきがわずかに変わった。
表情は固く、明らかに動揺しているようだ。
「この名前に聞き覚えは?」
「……ありません」
殿下の問いに、小さく答える。
「そうか。なら、伯爵家嫡男、アシュフォード・カディス。侯爵家嫡男、ルシアン・フォルセティア。それから……子爵家当主、レオンハルト・シュトラウズ」
次々と名前を読み上げていく殿下。
ルチアーナは黙ったまま動かなかったが、彼女の反応から、その全員と接点があることだけは読み取れる。
「この者たちは皆、あなたと親密な関係を持っていたそうだ。本当にこの名前に聞き覚えがないのか?」
「…………」
ルチアーナの瞳がわずかに揺らぐ。
黙秘を貫き通すつもりなのか、答えないでいると……。
『あぁ、もう! どうしてバレちゃったのかしら。気づかれないように上手く立ち回ってたはずなのに!』
突然響いたルチアーナの声で、その場にいた全員が目を丸くする。
そういえば、思念伝達の効果がまだ続いていたことをすっかり忘れていたわ……。
「ほんっとうにうざったいわね、この能力! いつになったら効力が無くなるのよ!」
観念して喚き散らすルチアーナと、呆気に取られた様子でその光景を見つめている陛下。
そしてその隣には、予想外の展開に耐え切れずにくすくすと笑みをこぼすウィルベルト殿下の姿があった。
どうやらルチアーナは、その愛らしい容姿と天真爛漫な性格で、数多の男を虜にしていたらしい。
初めはいい男たちにちやほやされることだけが目的だったそうだ。
しかし、次第にそれだけでは満足出来なくなり、高価なものを貢がせては私腹を肥やしていた。
その中でも、先ほど殿下が名前を読み上げた男性たちはルチアーナと結婚の約束までしていたが、彼女の言動を不審に思った男性たちが内密に調査。
数日前からルチアーナは要注意人物として、王家からマークされていたようだ。
ある意味では、ダレンも被害者だったのかしら。
同情するつもりはないが、王国騎士団に連行されていくルチアーナの後ろ姿を見つめ、ふとそんなことを思った。
* * *
王城の庭園。
備え付けられた椅子に腰かけていた私は、今日の出来事を思い出して一息つく。
本当に長い1日だったわ。
そんなことを考えていた時。
可愛らしいテーカップが目の前のテーブルに置かれ、私はハッと顔を上げた。
どうやらウィルベルト殿下が紅茶を淹れてくれたようだ。
「今日はありがとう。アンリエッタ嬢のおかげで、ルチアーナ・プラムの悪事を自白させることが出来た」
彼の言葉に、私はブンブンと首を横に振る。
「滅相もございません。あれはただの偶然と申しますか、お礼を言われるようなことは何もしていません」
「謙遜しなくていい。あなたがいたからルチアーナを捕らえられた。それは紛れもない事実だろう?」
殿下の真っ直ぐな言葉に、心の奥が温かくなっていくのを感じる。
今までは、この力を気味が悪いと言われたことしかなかった。
それどころか、褒められたことだって一度もない。
そんな力が人の役に……、ウィルベルト殿下のお役に立てたという事実に、私は初めてこの能力を持っている自分を誇らしいと思えたのだ。
「……殿下は、一体いつから私のことを気に掛けてくださっていたのですか?」
私が、ずっと疑問に思っていたことだ。
殿下は「ふっ」と笑みをこぼすと、私の隣に腰かけた。
「8歳の時だ。俺が初めてアンリエッタ嬢に出会ったのは」
* * *
当時8歳だった俺は、王城で開かれたパーティーにこっそりと参加した。
この国では、王族の正式なお披露目は10歳の誕生日だと厳しく定められている。
どうやら100年ほど前、まだ幼かった王子が暗殺されかけたことがあったらしい。
その事件の影響で、10歳未満の王族は外に出ることを許されず、王城の中の限られた空間で幼少期を過ごすことを余儀なくされた。
その決まり事が自分たちの身を守るためだということは理解していたが、まだ幼かった俺は、一度でいいから外の景色を見てみたいと思ったんだ。
けれど――。
「いっ……たぁ~~~」
庭園の石に躓き、しまったと思った時にはもう手遅れだった。
右ひざを擦りむいた俺は、建物の陰に隠れるように小さくうずくまっていた。
(どうしよう……。誰かに手当てを頼んだら、勝手に抜け出してきたことがバレちゃう)
「ねぇ」
「ひゃあっ!」
突然声をかけられて、俺は思わず悲鳴を上げた。
恐る恐る振り返ると、女の子が不思議そうに小首を傾げて俺を見つめていた。
艶やかなローズピンクの髪。そしてアクアマリンの瞳はまるで真夏の海のように煌めいていて、思わず見惚れてしまう。
「怪我をしたんでしょう? 見せて」
よく見ると、彼女は右手に大きな薬箱を持っていることに気がついた。
「怪我をしてるのは、両膝と右ひじね?」
「う、うん」
「庭園……。外で転んだなら、しっかりと消毒をしておかなくちゃ。少し痛いけど我慢してね」
「はい」
てきぱきと消毒の準備をする彼女に声をかけられ、咄嗟に返事をする。
(……あれ? でもどうして僕が怪我をした場所が分かったんだろう。服で隠れて見えないはずなのに。それに、庭園で転んだことだって……)
思えば彼女の言動は、昔から不可解なことが多かった。。
まるですべての行動を予測しているみたいに正確で……。
「よし、出来た!」
少女の声にハッと我に返る。
見上げると、陽だまりのように眩しい笑顔を浮かべている彼女と目が合った。
見ず知らずの人間を助けようとする優しさと、どんな人でもすぐに虜にしてしまうような温かい笑顔。
きっとこの時に、俺は彼女に淡い恋心を抱いてしまったんだろう。
「じゃあ、私行くね」
「ま、待って!」
離れていく少女を、俺は慌てて引き留める。
「名前……。名前を教えて」
そう言うと、彼女は満面の笑みで答えてくれた。
「アンリ。アンリエッタ・レイドールよ」
* * *
「あの時の俺のこと、覚えてる?」
ウィルベルト殿下に問いかけられ、私はこくりと頷いた。
「もちろんです。10歳未満の王族の方々は民の前に姿をお見せにならないはずなのに、8歳のウィルベルト殿下が建物の陰に身を潜めて泣いておられた時は、とても驚きました」
懐かしい思い出に、顔を綻ばせる。
あの時は何か事情がありそうだったので、殿下には申し訳ないと思いつつ、心の声を聞いて状況を把握させてもらったのだ。
でも、さすがにあまりの手際の良さを殿下も不思議に思ったようで、その数日後に私の能力について知り、納得されたのだとか。
殿下はその後の出来事も、順を追って私に説明してくれた。
その後も殿下は私のことを思ってくれていたようだが、王族が婚約を結ぶのも、お披露目の時と同じく10歳の時。
ひとつ年下のウィルベルト殿下よりも、ダレンの方が私と婚約を結ぶことになってしまい、とてもショックを受けたらしい。
けれど、私の幸せを一番に願ってくださった殿下は、私への恋心を胸に秘めることを決意。
そして、私の力で自分の想いが知られてしまうことを避けるため、学園では距離を置いていた。
だが先日、兄が私との婚約を破棄することをルチアーナに話している場面を偶然目撃し、今に至るようだ。
殿下の想いを知り、鼓動が早く脈打つのを感じる。
こんなに真っ直ぐな好意を向けられたのは、生まれて初めてだ。
「これからは、アンリと呼んでも構わないだろうか? 俺のこともウィルと呼んでほしい。敬語も不要だ」
王族を愛称で呼ぶのを許されているのは、妻か婚約者だけ。
その特別感が嬉しくて、何だかドキドキしてしまう。
――だけど。
「ウィルは……気味が悪いと思わないの? 人の心の声が聞こえる私の力が」
「どうして?」
そう尋ねられても、私は理由を上手く伝えることが出来ずにきゅっと唇を噛みしめた。
心無い言葉をかけられた過去を思い出すだけで、胸が締め付けられて苦しくなる。
きっとこれから先も、この力を持っているせいで傷つくこともあるだろう。
そんな不安な気持ちを感じ取ったのか、ウィルは真っ直ぐに私を見つめて微笑んだ。
「気にしたことすらないな……。誰も持っていない能力をアンリが使えるというのは本当にすごいことだと思うし、俺に出来ないことが出来てしまうキミのことを本気で尊敬している。むしろ……」
そう言うとウィルは私の手を取って、そっと手のひらに口づける。
「自分がどれだけアンリのことを好きか知ってもらえるから、そっちの方が俺は嬉しい」
その顔とその台詞はずるい。
ウィルの唇が触れた手のひらが、燃えるように熱い。
朱に染まった肌を隠すように、私は両手で頬を包み込んだ。
彼の甘い言葉に翻弄されっぱなしだが、どんどんウィルを好きになってしまう。
「アンリも、何か思ったことがあれば本心を俺に伝えてほしい」
その言葉に、心が少しだけ軽くなったような気がした。
いいんだろうか。
素直に自分の気持ちを伝えても。
どうせ無駄なんだって、すべてを諦めなくても。
嬉しい。
嬉しくて、温かくて、何だか涙が溢れてくる。
「ありがとう、ウィル。私を助けてくれて。私のことを好きになってくれて。……私、今が一番幸せだわ。こんなにも私を好きだと言ってくれる人がすぐそばにいるんだから」
私が本心を口にしたのは、きっとこれが初めてだと思う。
庭園を吹き抜ける風が優しく頬を撫で、私たちの横をすり抜けていく。
まるで、これから始まる新たな人生を祝福するかのように。