いてもいなくても眠れない
とある頃から彼が地方で仕事をするようになったのだが、おかげで一人で眠れる時間が増えていく。
邪魔をする人がいない。
すなわち、普通に好きなタイミングで自分の布団で寝てもいい。
両手両足をひろげても、誰にもぶつからない。こんなにも当たり前のことが可能になった。
単純に考えてみよう。足し算や引き算をするかのように。
これまでの生活の中から、何が無くなった……とか。
それまでの自分の体調に一番悪影響があったものが、今どこに在るか。
そう考えて、単純な思考回路へとスイッチを切り替えてみる。
「寝れるでしょ? アレがいなきゃ」
なんて感じで。
それまで睡眠の邪魔をしてきた相手は、夜遅くまでメッセージを送ってきたりはするけれど、横で眠ったり抱きついたりしてこない。
それまでと比べるまでもなく、適切な睡眠環境のはず。
どうでもいい話ばかりで、なかなか切らせてくれない電話はあるけれど、くだらない囁きを直接垂れ流してくる奴はいない。
体感するものがないはず。
なのに――――眠れない。どうしても、なんでか。
というか、限界がきて寝落ちしたはずなのに目覚める。
マンガみたいに、「…はっ!」とか「うあぁっ!」とか言いながら。最悪な目覚め方で。
そんな状態で起き、結果的に短時間しか眠れない。
短時間だろうが、質のいい睡眠だったら多少違ったのかもしれず。
が、質も悪けりゃ時間も短時間どころじゃなくうたた寝レベル。超・短時間睡眠。
邪魔者はいないのにね。
その状況に混乱したのは、もちろんあたし。
時々電話をかけてくる誰かさんは、「俺がいないんだから、好きに眠れるのに寝れないの? もしかして、寂しくて眠れない? それか、くっつくのがいなくて寒いとか?」なんて、その言葉自体が寒いよと返したくなるセリフを吐く。
彼がそういうセリフを吐く時は大抵、あたしの気持ちを推し量っているんだ。
そのセリフの裏には、違うって言ってほしいという願いがこもっている。
んな思考回路になるのは、彼が実母とそこそこ長いこと別居していたことが起因だろう。
むかしむかしの、彼の話。
時々ぷらっとやってきては、生活費とこづかいを渡していなくなる母親。
決して一緒に暮らそうとは言ってくれない母親。
子どもが一緒に暮らしていたら、仕事にならないからというそれらしい理由だけを子どもに告げていた母親。
実際は、収入を得るための別居でもあったが、当時付き合っていた彼氏と一緒に暮らしていた母親。
まだまだガキな自分のためにと働いてくれているんだとしても、貧乏だっていいから一緒に過ごしたいと彼が寂しがっていたことを知らなかった母親。
その事実に大人になってから気づかされたものの、「あんたのために仕事していたのに、一緒に暮らせない程度のことをどうして責められなきゃいけないの」と理解する気が皆無な母親。
自分の性格やそれまでしてきたことを肯定する人以外、懐に入れようともしない母親。
母親からの愛情に飢えていた彼は、自分のお願いを聞いてくれて自分を案じてくれるだろうあたしに執着していた部分があった。
故に、離れるのを怖がっていた。
新たに誰かとの関係を構築するのは得意じゃない。コミュ障っぽくもあったから、なおさら。
それに、子どもたちへの物と大差ない情を、自分にも向けてくれる母親のような相手=あたしを逃したくない。
たとえその情が求める形の愛情じゃなく、家族愛なだけだとしても。
愛されているかもしれない自分のままでいたい。
客観的に見てみれば、そんな感じだろうか。
そんな彼の本性にもっと早く気づけていれば、きっと楽に生きられたはずなのにな。あたし。……とか思う。
彼が地方に行ってからは特に顕著な程、彼と心の距離も開いていったあたしだ。
仕事のためでもなきゃ、物理的な距離を開けたくなかった彼。
思考回路が子どもの域を越えない彼故に、あたしの心が離れていくのを想像して、仕事をしない自分を見せれば尚更嫌われるとも思っていたらしい。
嫌われる要素は少ない方がいい、と。
(いやいや、無職の旦那ってどこの家でも普通に煙たがられるでしょ)
彼だけの話じゃないんじゃないのと考えながら、ため息を吐く。
もちろん、自分に声をかけてくれた友人のためにも地方に向かった気持ちもあっただろうけれど。それでも、一つでも嫌われる原因は排除したかったらしい。
その辺の話については、あたしの勝手な妄想や想像じゃなく、本人に聞き取り済みの内容だ。
彼なりにいろんな気持ちを抱えながらの、地方での仕事。よく見知った相手がいる会社で、自分が苦手とする人間関係に悩まなくてもいい職場。
色々考えれば考えるほど、その時の自分が逃していい相手じゃないと思えたという。
これを逃したら、どこに行けばいいのかわからないと思っていたほどに。
実際、その会社へのお誘いが来る前の彼は、自分には何が出来るのか、他人とどんな顔をしてどんな話をすればいいのかわからなくなっていたそうだから。
それまでやっていた仕事とは違う、通信関係の仕事。ようするに回線を開く時の工事をする、下請けのような会社。
その仕事の前は、短期で鉄工所にいて。それより前は、ほぼ鳶や土工といった仕事ばかりだった彼。
入社した通信関係の会社で、高所での作業があるよといわれたところで、それが怖くて無理ですと口にするほどじゃなかった。それまでの仕事で、もっと高所で作業をしたこともあったから。
普段から運動神経や反射神経には自信があった彼。年齢的な筋力や判断力の遅れはあったらしいけど、それでも問題なく仕事ができる範囲だと彼は思っていたとか。
そんな調子で、慣れない仕事だけど直近の職場であった人間関係に悩まされることもなく。家族にそうそう会えないということと、なかなか経済的な余裕が出来ないという悩みがあるくらいにはなった彼。
彼自身のせいで無職=無収入の時期がちょこちょこあって、マイナスから始まった転職。そして地方での久々の一人暮らし。
転職先の会社の社長さんの温情で、分割払いをする約束でまとまったお金を手にし、ひとまずで家族の生活を普通まで戻す。
そして、地方での自分の生活基盤も整えて。
そんなことが最初にあれば、一日二日で財布に余裕がなくても致し方なしの日々だった。
距離があいた途端、子どもたちも彼がいない生活の方が肩の力が抜けていく。あっという間に家の雰囲気が変わっていった。
久しぶりに顔を合わせるだけの関係になれば、そういう変化には敏感になりもしたんだろうな。毎日一緒にいた時よりと比べれば、なお。
こちらにそんな空気を醸し出したつもりがなく、その裏側に悪意がないとしても。
地方に行き、仕事をし。時々、顔を見に来て、一緒に食事をし、同じ屋根の下で眠り。
違和感という名の家族の変化を肌で感じて、彼は彼なりに恐怖めいたものを感じてもいたらしい。かなり後に、その話を聞かされたことがある。
家族が自分からどんどん離れていく、と。
家族のために頑張っているのに、なんで? と思いもしたとも。
彼がそんな風に焦っていたことに気づかない家族。
けれど、もしもの世界線の話で、気づいていたとして何か変わったかどうかという話で。
まあ今振り返れば一緒にいようがいまいが、彼の行動や思考が変わらないままならば、いずれ家族は彼から離れていた。そう断言しよう。
それくらい彼が地方に行くまでに積み重ねてきた家族への態度というか、あたしに対しての態度は褒められたものじゃなかった。
あたしへの態度は子どもたちが遠巻きに見ていても、なんかおかしいなと思える歪な感じがしたそうだから。
どうしてそこまで父親の言動や行動に母親の行動が縛りつけられているのかが、不思議でならなかったとか。
ただ漠然と子どもの立場でいるだけならば、そこまで考える必要なかった。……のに、一度違和感に気づいてしまえば、何かにつけて視界の中で交わされる会話やいろんなやりとりに疑問を抱く。
疑問程度ですむ内容なら、まだ軽症の範囲内。
胸の内にいろんなものを抱えて、言いたいことを飲みこんで。夫婦って片方だけがこんなにもキツそうなものなの? と結婚について、悪い印象しか抱かせられなかったよう。
親として、申し訳ない姿ばかりだった。あたしも、彼も。
そんなことを考えながら両親を見ていた子どもたち。嫁を好きだの愛しているといいながらも、最終的に自分にとって都合がいい方へと、その行動を制限していく父親。
物理的な距離など近かろうが遠かろうが、いずれ破綻した。間違いなく。
一人だけの犠牲という名の献身で、永遠にバランスを取っていける家族なんて夢か幻だ。
ご都合主義もいいところ。
別れる直前だときっと、彼からすれば夢も憧れも何も抱けない生々しい現実でしかなくなっていたはず。
それまで隠していたか、自分が見ないフリをしてきた家族の本音に触れつつあったのだから。
彼は混乱しながらも、それでも自分から身を引くという選択が出来ずにいた頃。
嫁の方はといえば、彼とはそれまでダラダラとつかず離れずの関係だったけれど、人間、生死がかかると最後は自分が可愛く思えることを知ってしまう。
自分が生きるためになら、なくてもいいカードは捨てられるもの。
大事に持っている必要も意味も、自分の中になくなれば。
ただ、実際はカードを捨てるまでにいろんな手間暇も葛藤もあったり、パッと聞いてて悪口に聞こえない言葉を吐かれたりもするんだけどね。
そんな彼は、家族というよりもあたしが離れたらどうしよう……だの、置いていかれたくない……だの思いはじめては暴走していく。
暴走という暴走じゃないと彼は言っていたが、こっちからすればかなりな暴走だ。
月に一回ほど、フラッとやってきて泊まっていく彼。かかるガソリン代などを考えれば、月に一回でも結構な支出だ。
長距離運転で疲れると知ってても、それでも家族の元に向かいたい。その気持ちだけを抱いて、仕事が押してて疲れていても高速に乗る。
その夜は、絶対に嫁の横で寝るんだと心に決めて。
彼が勝手にそう決め込んで帰路についていても、嫁の方はせめて布団は別でと決めていた。
潜り込んでくるなよ? と。
嫁がそう決めていても、地方に部屋を準備した都合で、布団を一つ持って行ってしまった彼。
これ幸いといわんばかりに、一緒に寝ようと言い出す。嫁はリビングで毛布片手に寝る気なのに。
嫁がそう決めていても、ソファーで寝ると疲れが取れないだのなんだのと延々言い続け。いつぞやの時の再来か、布団に来るまで張りつく。
そうしてあたしが渋々布団へ入れば、背中にぺったりくっついてきていた。
背中合わせで寝てくれと頼もうが、寝心地が悪いからこっちを向きたいという。
じゃあ、寝る場所を逆にしようと提案しても、どうでもいい下らない言い訳で同じ流れになる。
そうすることで、嫁が自分へどんな感情を抱くのかを理解しておきながら。本当は嫌われようとしているの? と聞きたくなるほどに。
くっついてきて、ただ抱きついているだけならまだ可愛い。
が、それですまないのが彼という男だ。
モゾモゾと動き出しては、「最後までしないから触らせて」とか守れない約束を交わしてくる。勝手に。
しかも、相談してきながら返事を待つこともなく、相談とほぼ同時に触れはじめる。
そんなことをして誰が一番困るって、彼自身なのに。
その言葉と手の動きを無視するつもりで、無反応を決め込むあたし。
それに対して彼がしたことといえば、反応がないあたしを不思議に思って、気持ちよくないのか聞いてきては触れる場所を変えたり。最後までしないといいながら、こっちの下半身だけ剥き出しにして触れてくること。
自分のことはどうでもいいからとか言いながら、自分の体が反応して困ったと囁くという謎行動。
そういう日々が、月に一回あると思うと、たった月一でも避けたいと思う。
たとえ、何度邪魔をされたとしても。
アレコレ考えてはみても、何度別でと訴えても、やはり叶うことはなかった。
長女が自分の部屋に逃げてきてもいいよと何度か言ってくれはしたが、そうしたとしてもまた夢遊病のような彼がやってくるはず。自分と一緒に眠るまで人の寝顔を見下ろすところを、娘に見せたくはない。
どんな人でも、長女にとっては父親なのだから。
情けない姿ともいえるそれを、たとえあたしの口から状況を聞いていたとしても、実際に見るのとは話が違うはずだから。
それでなくても、父親のダメなところしか見てきていないのに、それ以上は酷だなと思った。
彼にとってというよりも、長女の精神衛生上のために。
なので、いろんな事を加味しても、長女の気持ちだけ受け取って、部屋に邪魔するのはやめた。
内心、床でいいから毛布持っていって眠りたいと思ってはいたけれど。
この選択肢によって、彼にまたゆっくりと首を絞められていくのに気づけず。その生活を嫌がりながらもなかったことには出来ずに過ごしていくあたし。
その体調の自分だけで、子どもたちを養えないという現実がそこにあったからだ。
そして、自分が思っていたよりも彼に縛りつけられている自分がいたんだという事実も。
気づくまでに相当の時間がかかったけれど。