悪化の一途
「ああ……マジでヤバイ」
一人きりの家の中で呟いたそれに、それ以上の表現はないなと思った。
命がかかっている。
眠れていないばかりに、間接的な理由で死ぬところだった。
「まさか寝不足でこんなことが起きるなんて、誰が予想出来る?」
自問自答。誰かに答えを求めたわけじゃない。
誰もいない部屋だからこそ、声に出す。
今回は公の場所で危うく死ぬ可能性があった。けれど、家の中でだってそうなる可能性がゼロじゃないと思えてしまう。
急に、何の前触れもなく寝落ちた。あの時の感覚は、本当にそれだったんだ。
それが例えば入浴中だったら?
風呂の気持ちよさにウトウトすることは、本来気絶しているというらしい。
でも、気持ちよさなど無関係にお湯に浸かった状態で寝落ちたら?
あの時は通りかかったおじさんの好意で、事が起きる前に目を覚ませられた。
場所が浴室へ変われば、起こす人がいなきゃ溺れていることに気づけるかもわからない。
溺れたらさすがに目覚めるでしょ? と誰かに言われそうだけど、本当に目覚められるの? と疑問符を浮かべずにはいられない。
これはさすがに彼に相談しなきゃいけない上に、本気で協力してもらわなければならない案件だと感じたんだ。
自分にしては珍しく、かなり早い段階の決断だったと思う。行動に移すまでが早かった。
なんせ生き死にがかかっていると自覚しちゃったもんで。
そう決断して動きはじめた時点で、ふと思ったこと。
(あたしってまだ生きていたいと思ってるんだなぁ)
ということ。
彼と出会う前の自分を振り返り、このまま生きてても楽しくないと何度も思ってた。別人格に守られているようで、振り回されてもいた頃。
その原因になった出来事そのものが、自分に大きな傷を残したまま。いまだに胸の奥にしこりみたいになっている。
何かにつけて自分の足を引っ張ってきた、過去の出来事。
その影響で壊れた自分と、そうなった過程で出来上がった男性からすれば楽が出来る体を持った自分がいて。
彼がそれを利用したつもりはないといくら言ったところで、結果が利用したようなものならば同じ話だ。
いくら自分の心と体を恨めしく思ったところで、心も体もリセット出来やしない。
機械のように記憶も一緒にリセット出来たらと思ったのは、一回や二回じゃない。
理解も協力もしてくれていたはずの人が、一番の弊害となった現在。生きてて楽しいと言える自信など、どこにも見当たらなかった。
そんな感じで繰り返されていく、いろんな事が上手くいかないと凹む日々。
協力者よりも、保護対象者の方が多い現実。
味方はいなくて、自分の時間も体力も削ってタスクをこなしていくだけで時間が過ぎていく。
面白みのない毎日。
子どもの成長だけは楽しみだったけど、本当にそれだけ。
それだけでもあれば十分でしょ? と思ってもいたが、人間どこかが満たされればもうちょっとと欲が出るもの。
さっきボヤいたように、自分に使える時間が手に入ればもっと潤いのある日々になるんじゃないかと思いたかったのに。
それを叶えられる日がいつか来るなんて、夢みることは途中であきらめた。
だって、最愛の女だという相手に無体を強いるような男だから。
日本語通じない人だし。
こっちが泣いていようが暗い顔をしていようが、自分の都合だけが通るか否かのみが大事な人だから。
優先順位が、一般的なごく普通の人たちとは同じにならない人だから。
いわゆる、おかしな人だから。
彼への感謝を込めたいろんな行動を通じて、自分が何をどう願っても嫁が叶えてくれると信じきってるある意味純粋な人だから。
総合して、自分勝手だから。
もっと短く言うと、気分屋だし。
「……最悪な相手に、話が通じるだろうか」
伝えなきゃと思うのに、伝え方が決まらない。
頭が痛い。いろんな意味で。
「とにかく今日あったことを話そう。それと、配達中に起きたことも多分同じ流れの話だ。報告しなきゃ」
こういった事態に陥った。だから、ちゃんと眠れる環境にしなきゃいけない。諦めていたいろんなことを思い出す。それも原因だと思えたから。
ちゃんと眠る。
そのためには、今までと同じ生活ではいけない。それは自分一人でやれるわけじゃなく、寝る時にそばにいる人の理解と協力が必須なんだという話も若干おおげさに。
それくらいにして話さなきゃ、きっと本気になってもらえないはず。
最低限、そこまではしなきゃ。
そう心に決めて、彼が寝つく前に打ち明けた。
「ただの寝不足じゃないの? 寝足りないなら、昼間に仮眠とればいいだけじゃないの?」
こちらの話を聞いた彼は、案の定で自身にも起こりうるよくある寝不足な時の対処の話になった。
けれどあたしの場合、さすがに状況が違う。
素人判断とはいえ、話をそれだけで終わらせちゃいけない。あたしはこれまで、散々巻き込まれてきたんだ。
(今回はこっちの方が巻き込む側になるんだ)
珍しく彼に折れない姿勢を見せて、ちょっとだけ勇気を出す。
「病院に行きたい」
あたしの意見だけだと話を聞きそうにもないのなら、専門家の意見がつけば考えてくれるかもしれない。
どうにかして首を縦に振らせなきゃいけない。
その気持ちで胸をいっぱいにして、彼に頭を下げる。
最初の方に書いた通りで、その後は小児科の先生から聞いていたクリニックに通院し、投薬治療を開始。
半死半生のような体調を、無理矢理眠らせることで整えることになったわけだ。
ここまでが長ったらしい、うちの二人目の旦那の話にあたる。
文字数にして何万文字だろうか。前置きか前フリかさておき、長すぎだろう。
投薬治療によって睡眠を確保したものの、家の中に不都合がポツポツと生じはじめたことで薬を飲むことをためらうようになり。飲むことへの負の感情も抱くようになり。そうしているうちに最後のクリニックを訪れるところへと繋がる。
初診時は少し長めにカウンセリングというか、これまでのことを整理しながら話していく。たとえ紹介状があったとしても、別物だ。
話を整理しつつもとても長い話をした。
心療内科で初診の時は、どこに行っても最初はそういう流れなんだと知っていた。
一番最初のクリニックで、その旨の説明をしてもらえていたおかげだ。
二つめのクリニックでは、初診時の問診は担当医の前に、助手のような人から聞き取りの時間が長めに設けられ。それが文章化され、パソコンに打ち込まれたものを読みながら担当医が診察をする形式だった。
最初のクリニックからの紹介状もあったので、医師側と患者側の状態の記憶の誤差がないかの確認に近かったと思う。
そこの部分に関してだけは、治療開始をしたクリニックより楽だなと単純な思考回路でどこか安心していたのに。
蓋を開けてみれば、その二つめのとは本当に相性がクッソ悪かった。口汚いが、クッソ悪かった。
最初に聞き取りをしてくれた助手さんが書いたものがおかしいのか、読んでいる担当医がおかしいのか。
はたまた他の患者さんのデータでも見ているのか? と思えるような会話ばかり。
あまりにも多すぎて、思わず聞き返したほど。
「そこに書かれているのは、本当にあたしの名前であたしについて書かれているものですか?」
と。担当医に直接。
聞かなきゃ納得できないくらいに、すれ違った会話になっていた。
眠れない体と疲れている心をどうにかしたくて訪れたのに、どこかカリカリした反応の担当医の態度にムカつき。
最終的に病院に来た方が具合が悪くなったと言っても過言じゃないメンタルで、クリニックを出た。
医療機関に行って悪化するって、リアルに起こりうるのかというのを初めて体感。
一つめのクリニックの閉院の話を聞いた時、薬を使って眠る自分にある種の不安要素があった。
その不安を抱えた状態で訪れた、転院先のクリニック。
担当医のその態度に躊躇っていたこととは別な意味で、薬をもらいに行くことが嫌になった。
処方箋を出してもらうには、担当医に会わなきゃいけない。でも、求めなければ会う必要がない。極論といえば極論。
その担当医と顔を突き合わせてから、意外と早い段階で「これもチャンスだと思おう」と勝手に決めつけて通院を控えた。なんで病院に通ってるんだっけと言われそうな決断だ。
自分の心身のためだと理解していても、正直なところ顔も見たくなきゃ声も聞きたくない相手。そこまで人を毛嫌いしたのは、かなり久々の話。
あたし自身や三女がそうなのだが、生理前の女性に起こる場合があるPMSやPMDDなどの、心身がホルモンバランスの乱れやストレスで苛ついたり落ち込むことがある病気があるのだ。
最近じゃ男性でも更年期があるとかいう話も聞くくらいだし、いろんな不調が誰に起きても不思議じゃないことくらい知ってる。
この女医さんって、もしかしてそうなんじゃ? と思えるほどに、心を痛めている患者への態度とは思えない酷いものだったのだ。
同性を蔑むつもりはないけど、更年期か生理前のご機嫌ナナメな時期なら、理解できなくもないと思ったほど。
それっくらい、担当医がわかりやすいほどに苛ついていた。
むしろ、その病気のどれかですと前置きしてくれていた方が、心づもりが出来たかも。
医者といっても、同じ人間。
心も体も調子が悪い時なんか、普通にあるでしょ。医者なんだから、絶対に不調になっちゃいけませんなんて誰も言えないはずなんだ。
……中には言えちゃう人もいるんでしょうが。
だから、あの時、あの瞬間に誰か教えておいて欲しかった。
「うちの担当医、今日ダメな日です」
とかなんとか。
そうしたら心身がめりこみかけていたとしても、担当医の態度を待っ正面から受け取めずにすんだ話。
状況を知ることも出来ず、ただただ悪意の攻撃と口撃を散弾銃なみに撃ち込まれ続けちゃった。アレは、かなりキツかった。
別にね? 心療内科の諸先生方は、なんでもかんでも優しくて甘い言葉で接してくれという話をしてるんじゃない。
せめて普通に会話がしたかっただけ。
ちょいちょいわかりやすいほどのため息を漏らされたりすれば、こちらの気が病んでいようがいまいがいい気持ちにはなれない。
八つ当たりとかどうとかっていうレベルじゃなく、不機嫌の原因=あたしにケンカふっかけてる? と思えそうなほどの感情のぶつけられ方だった。
気のせいだと思いたかったが、冷静になればなるほど、相手の態度が態度だったので受け入れられなくなった。
ようするに、こっちだけの問題じゃない。
というか診察云々抜きにして、人対人が向き合っている状況としても、決していい状況とは言い難かった。
先に書いたように、薬を控えようと思いはじめていた時期なのもあって、都合よく先生に会わずにすむのならそうしようと勝手に決めた。
もういい! と。
重ねて言うが、元々は眠れなくて通い出した心療内科のはずなのに。
また眠れない日々が増えてきたり、睡眠の質自体が落ちたとしても、今回に関しては自己責任。治療しようと思えば出来るはずのことから、逃げるようなものなのだから。
言葉を選びながらクリニックが変わったことと、変わった先での担当医とのやりとり。そして、初診の時に受けた印象を何度通院しても拭うことが出来ず。生理的に無理なところまで来てしまったこと。
それプラス、薬が体に残ってしまうようになって辛い時があることと、一時的にとはいえ一番危うかったところは越えたらしいから、薬なしで眠れるようにしてみたいと。
眠れなくてもいいとは思っていないけれど、このまま薬に頼って眠るのは心身の両方によろしくないのと、正直それがなきゃ寝れなくなる状況になるのが怖いことも打ち明けた。
そして、薬を飲んでしまうと後から出てくる家族があたしに頼みたい用事があっても、実質、対処しきれていない現実についても。
家族に対して、アレもコレも過保護にフォローしすぎだったと自覚していた。
その上で、今後に可能なフォローについて話をする。
薬を使って眠る前に用事をすませたつもりでも、本当に全部終わったのかと不安になって朝一で不安を抱えながら起きたことがあったことも話した。
そんな話をしたところで、家族の生活がガラッと変わるわけじゃないからか、反応は思ったよりも淡々とした感じだった記憶がある。
「ママがツラくない方を選んでいいよ」
そう言われて、どうだとツラくないんだろうかと即答できる答えを持っていなかった。返したのは、苦笑いだけ。
みんなに話したように、自分がコトンと寝入ってしまった後の家の状態をみることが出来ないばかりに、あたしだって不安だった。子どもたちだけじゃなく。
どうすればツラくないのか、不安じゃないのかが上手く言葉に出来ない。
急に誰かが具合が悪くなったりした時にも、起こしようがないほどの状態でもあった。それだけ負担が大きい薬でもあった。
そういう意味での不安も解消になるならば、飲まないという選択肢も案外悪くないはずだ。
とか、思っていた。この時は。
だから、改めて伝えた。
とにかく、しばらくは薬なしで頑張ってみるからと。
ただ、もしも。もしも、どうにも出来なくなったら、違う病院に通ってみるとも。
その判断をしてから、しばし経過。ここからどんどん、状態は悪化していく。
通院を控え、どうしても寝なければマズい体調の時だけ、家族に先に話をしっかりしてから薬を使った。
それでも、片手で足りるほどの回数だったはず。
眠れなくてもそれでもいいと思ってたわけじゃない。んなわけない。
が、元々眠れていないこともあり、感覚が麻痺している事にも気づかずに“過ごせてしまっていた”んだ。
いたって普通に、家事をしたりしながら。
自転車に乗ったまま、寝ることがなくなったという程度の違いだけで。
それっぽっちで安心するにはまだ早かったのに。