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失いゆく日常


 眠れない日々が重なり続け、我慢の限界を超えて表情筋もこわばって、上手く笑えないところまできた頃。


市内で新聞形式のフリーペーパーの配達の仕事に就けた。


それまでは、免許も資格もなく、年齢もそこそこ重ねていた方だったこともあり、思ったようには就職出来ずにいたあたし。


 自分で稼げていないことが、彼に付き従う関係を更に色濃くする理由にもしていた気がする。


 自分は何も出来ていない、家に対して価値を持たせられない人間だと卑下していた。それゆえに、価値がある彼を支えなければならない……と。


 その裏では、家族の生活を本当の意味で支えて、自分の時間も体力も支えているというのに、なんでこんなに苦しいんだと嘆きながら。


 歪んだ感情の中でつかみ取った就職先。絶対に失えない。必死でしがみついてやると思っていた。


 配達の前日にはチラシ入れをして、翌朝には全員が出かけたのを見送ってから配りはじめる。


体を動かすことは、気持ちがいい。部数は200後半ほどだっただろうか。


それを配り終えると、約二時間が経過していた。


 わずかににじむ汗。首にかけていたタオルで押さえてやると、それだけで仕事を終えた満足感が胸を満たす。


お金が得られることはもとより働いているという現実が、どこか濁りはじめていた自分を癒してくれる気にもなった。


 自然と笑顔になって、配達中に会った知らない誰かにする挨拶ですら心地よくてクセになる。


忘れていた自分を思い出させてくれる。


この仕事に就いてよかったと、心底感謝した。


 彼がゴロゴロ転がって暴れて寝るようになった後に、あたしの右脚に異変が起きて引きずるようになった。どこの病院に行っても、何科を訪ねても、原因は見つけることが出来ずにいて。


 一番苦しんでいた当時にはという話。原因と病名は後に判明する。


 配達をしている時期も、若干脚を引きずりながらの仕事だった。それでもその生活にもずいぶん慣れてもいたので、大変さよりも仕事の心地よさの方が上回っていたと思う。


 そんな感じで仕事をしていて、彼が逆にサポートしくれたかというと全くだ。チラシ入れのための台を、DIYして作ってくれた程度。


全くないよりはいいのかもしれないが、普段の生活の中でのサポートはほぼ無し。 


 せいぜい一緒に入らされる風呂の時に、バスタブに入る時だけ手を差し出す程度。


 彼の方が健康なはずなのに、その状態のあたしに体を洗ってもらいたがった。


 風俗みたいな洗い方じゃないけど、本当に髪から体の末端まで隈なく。


数年前に彼が仕事中に脚を怪我して、片足にギプスをしばらく着けることになってから課せられた“作業”の一つだ。


 一時的なサポートだと思っていた、入浴時のサポート。それがまさかの延長になるとは、誰も予想しまい。


 その影響が大きく出たのが、子どもたちとの入浴が難しくなったあたり。


ちゃんと自分で洗えているかを見てあげながら、一緒にお湯に浸かって他愛ない話をする。


あたしにも子どもたちにも大事な時間だった。


 本当に一日中、彼のサポートばかりをしているように感じていた。


自分の脚が不便になっても、逆に助けてくれる手を彼は持ち合わせていなかったんだ。不思議なほどに、なにも助けてくれない大人だった。動くのは手足じゃなく、口先だけ。


 家の中には大人が二人いたはずなのに、引っ越しの準備段階の頃には口は出すけど、思っていたよりも手は出してくれなかったと思う。


 せいぜい車を出して、荷物を新居に運ぶ時くらいか。


それでも十分でしょ? と言わんばかりに、一仕事を終えた顔をしてふんぞり返っては自分のサポートをしてもらうのを待っていた。


そのあたりでも、負荷のかかる日々を過ごしていたんだと今なら思える。


眠ろうと思っても、心身ともに疲れすぎると余計に眠れなくもなっていた。


 配達の仕事に就いたのは、引っ越しが完全に済んでからのことだ。


義理の兄弟たちに義父の家を明け渡し、遺産相続だなんだの問題も終わらせ。


 悩みや疲れの原因にもなっていたそれが無くなれば、すこしは息がつけると思っていた。実際には、いつになっても息がつける状態にならなかったのだけれど。


 自分を助けてくれる人がいない中で、不便な脚をぶら下げてでも自分以外の誰かしらを支える日々。


その合間にあった、自分の時間。労働。


わずかな時間だけ、自分でいられた。


 体を動かすと、体の調子も上がっていくようにも思えた。結果だけでいえば、それはまったくの錯覚だったんだけど。


 自分でいられる時間を過ごし、家族を支え続け、脚が不便になった都合でそれまでよりもいろんなことに時間がかかることが増えてしまったのを埋めるべく、夜遅くまでも家事の残りなどをこなす。


 そんな状態でも、彼はマッサージの時間をすこしだけ短縮させつつも、性的な方の奉仕だけは継続させていた。


彼にとって一番都合がよくて、一番欲していた時間だったから。


 誰にも癒されも労われもしない体に、疲労は結構な勢いで積み重なっていく。


 しかも睡眠時間を削って家事をしているのに、その邪魔をするようなタイミングで彼が呼ぶのだ。


もしくは、今日こそ早めに休めると喜んでいたら、横から体を遠慮がちに触ってくるお邪魔虫が出る。


 脚に違和感が出始めたあたりにした、大きなケンカ。


 あまりにも勝手すぎる彼に、一度だけブチ切れた。


スマホゲームが上手くいかなかったからと、子どもたちもいる前でスマホをクッションへと投げつけて二階へ消えた彼。


こっちに何の落ち度も非もないのに、負の感情に巻きこまれた。完全に八つ当たりで、不愉快。


 子どもたちもビクついて、その日は長女を二階にあげずに一緒に一階で眠ったのを憶えている。


 その時にいろんなことを思いつく限り彼に吐き出したのだが、その際にやめてほしいことをいくつか挙げた。


挙げたものの中に、もう体の関係はナシにしたいと言いたかったが、それを言えば彼が違う方向へと暴走しかねないと予想し却下。


間を取って、回数を減らすこととヤるなら自分だけ準備するんじゃなく、相手=あたしの体の準備にも協力をということ。


風俗嬢のような扱いをされたくないと、ハッキリ伝えた。


 彼はそんなつもりは一切なかったと言い切った。


言わずともヤってくれるから、それは愛情故になのだろうと喜んでいたとも。


 節穴どころか、目が開いていなかったんじゃないかと思えるような発言だった。


呆れながらもした話し合いの末、遠慮がちに触れてきて、こちらの意見をうかがう回数が増えた。


 こちらは常に顔に出るほど疲れていて、かつ裸になっている暇があったら他のことをしたいとすら思っていた。


 あたしの願いは、睡眠時間の確保。


確保の一番の邪魔が、マッサージ込みの性交渉をしてくる彼。


「いいよね?」


と、確認というよりも押しつけに近い言い方。眠たい目をこすりながら、横目で睨む。


「眠たかったらさ」


そう言いかけた後に、寝ていいよという言葉だけを何度期待しても、その後に続いた言葉はいらんオマケつきのもの。


「俺が勝手にヤっておくから、寝てていいよ」


勝手にヤっておく=寝てても(触れれば濡れるって知ってるから、濡れたら入れて自分で擦って終わらせて、後処理も自分でやるなら、そっちに負担も面倒もかけないからヤっても)いいよ(ね?)という、長ったらしいカッコ書きつきの。


(あたしが動かなくてよくなったかと思えば、今度はオ★ホ扱いか)


「いい加減あなたが吐く言葉や行動のすべてが、あたしを傷だらけにすると理解してくれる?」と吐き出したかったのに、どうせ無理だろと言葉を飲みこむ。


 日本語が通じない。どの言語なら通じるのかが見えない。目の前の彼が宇宙人なのかとすら感じられ、うっすら涙がにじんだ。


 彼へ背を向けて、無言で拒絶する。


……が彼はその無言を肯定と取って、予告通りに勝手に始める準備をする。


剥ぎ取られるパジャマのズボン。


上はそのままで、オマケのようにパジャマの裾から胸の頂を指先でちょっとこねるだけ。


 息苦しさを感じながらも、睡魔に抗えずに夢の中に。


 勝手に行われる行為。


体はどこかで必死に彼を拒み続けていて、中の痛みに何度も目が覚めた。


質の悪い睡眠が繰り返され、疲労とストレスと、そして睡眠負債が溜め込まれていく。


 配達の仕事で時間はかかれども、たくさん歩いたのがよかったのか他の理由か。なぜか動けば動くほどに、右脚を引きずる時間が徐々に減っていく。


無味乾燥な日々の中での、ささやかな喜び。


 原因もわからず、病名もつかず。


そのせいで障害者手帳をもらうことも出来ず、健常者と障害者の間に浮いていた自分。


 脚を以前に近い状態にまで戻せられれば、違う仕事や同じ仕事でももっとたくさんの仕事がこなせるようになるかもしれないのに。


小さな願いを胸に抱くようになりながら、フラフラになっていてもがんばっていた。ひたすらに。顔を上げて。


 ある日のことだ。


配達中に、時間の経過に誤差を感じるようになった。


それと同時に、配達漏れが出始めた。その逆で、同じ場所に後になってまた配達をしていたり。


 重ねて配達をした時は、配達先の家の方がすぐさま気づいて声をかけてくれていた。


内心、会社への連絡がされなくてホッとしながらも、どうしてそうなったのかがわからず混乱していた。


 申し訳ありませんでしたと頭を下げながら、必死に思い出そうとする。


けれど思い出せない。


チェックしながら配っているのに、チェック自体に漏れがあるとなると信用できない。


自分がしている事なのに、信じられないとなると、もうどうしていいのかわからなくなる。


 そのうち、配達先の家の駐車場でしゃがんで寝入っていたところに声をかけられた。


具合でも悪いのかと案じて声をかければ、しゃがんでただ寝息をたてているだけのあたしがいて。


声をかけていいのか躊躇ったと、そこの家主は言った。


 ここでもまた頭を下げて、同じことはしませんと告げた。


告げながら焦る。


もうしませんと、本当に言える状態なのかわからないのに? と思えたから。


 そして、仕事中以外にも支障は現れる。


自転車で買い出しに行く途中、信号待ちの交差点。


ブレーキをかけ、歩道の上で歩行者信号が青になるのを待っていただけ。


自転車にまたがったままで。


 背中に何かが当たったと気づき、振り返る。


そこに立っていたのは、見知らぬおじさん。


「なんでしょう?」と首をかしげてみれば、怪訝な顔つきで歪められた口からこう告げられる。


「こんな場所で、こんな不安定な格好で寝るんじゃない。危ないだろう」


なにが? と言い返しかけて、顔を上げた。


 信号に付いているスピーカーからカッコウの鳴き声が聴こえ、そちらを見れば信号がさっきまでと違うことに気づかされる。


知らぬ間に歩行者信号が青になっていたようで、目の前ではその信号がまた赤になろうとしていた。


「信号が変わったのに動かないから、様子がおかしいと声をかけたんだ。俺は」


 目の前で若干怒りながらも状況説明をしてくれるおじさんは、もしかしたら信号を渡りそこねたのかもしれない。あたしのせいで。


「眠たいんだったら、ちゃんと寝てから出かけなさい。自分も危ないし、そのまま車道に自転車ごと飛び出しかねんだろう」


 赤になった信号を、自転車の隣で一緒に待っているおじさん。


「ほら、信号が変わるぞ。……急ぎの用か何かか? 帰って寝たらどうだ」


さっきまで怒っていたのに、表情はさほど変化がないのに言葉だけは優しくて。


「急ぎの用なので、なるべく早くすませて帰って寝ます」


正直にそう伝えると、やや間があった後に「そうか」とだけ言い、信号が変わって互いに何も言葉を交わさずに別れる。


 銀行に着き、駐輪所に自転車を停める。


鍵をかける手が震えた。


ついさっきおじさんに言われたことを、頭の中で想像してしまえたからだ。


 もしも本当に“そうなって”いたら、どうなっていたか……を。


背中がゾクッとして、その場でしゃがみこんで目をギュッと閉じる。


 怖かった。


もしかしたら、自分がここにいなかったかもしれないと思っただけで体が震えた。


そして、思い知る。


置かれている現状は、きっと異常なんだと。


 銀行の駐輪場でしゃがんでいると、そこでも声をかけられてしまう。


大丈夫ですと返して、ゆっくりと立ち上がった。


短く息を吐き、まだ震える体のままで銀行へと入っていく。


 用事をすませ、自転車を押しながら帰路につく。


乗っていたら、またどこかで寝てしまうんじゃないかという怖さがあったからだ。


 信号でつかまる。


すなわち、停止するようならば、遠回りになってもいいからタイミングよく信号が渡れるところまで進む。


ずっと歩き続けるのはキツいけど、万が一を考えれば愚策だろうが得策と思うよりほかになかった。


 自転車を楽に移動できるアイテムとして使っていたはずが、自分は乗らずに荷物だけ載せて帰宅。


 心身ともに疲労困憊になって入った家の中で、盛大なため息を吐いた。


自分の体には、思ったよりも大きな問題が起きている。


しかも、一日二日でどうにか出来る内容じゃない可能性がかなり高い。


 単純に“寝不足”という言葉で片付けられる気がしないのを、自身が一番肌で感じていた。



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