7 リリアンヌは実家に帰る
晴れやかな目覚めだった。
私、リリアンヌは黄色の木漏れ日の中で目を覚ました。
保健室のベッドから体を起こす。ベッドのすぐ脇の窓を見ると、木々の向こうに朝日が見えた。何と、私が気絶してからもう一晩もたってしまったのである。
こうしてはいられない。私はベッドから飛び降りると、軽く制服をととのえ、髪を結わえなおした。
マリーベル、結局マリーベルと指輪はどうなったのだ。
「あ、もう目が覚めたんだ。よかった、よかった」
振り向くと、カーテンの隙間からのぞく顔があった。攻略対象の一人、マルクルだ。彼が何故ここにいる。いや、それよりも。
「マリーベル様は!? マリーベル様はどうなったんです!? あの腐れ外道をなんとかしないと!」
「え? ――ああ、マリーベル様ね。大丈夫、全部君の誤解だから。君の愛するマリーベル様が、そんな男に騙されるわけないだろう?」
「本当? 本当ですね? 嘘だったらお前もついでに光の生贄ですよ?」
「君ずいぶん性格変わったねぇ……面白いからいいけど」
「後、指輪は? 私結局回収するの忘れちゃった……」
「ああ、指輪なら大丈夫。マリーベル様が持ってるから」
それを聞いて、ほっと胸をなでおろす。ああ、よかった。やっぱりマリーベル様も、ちゃんと聖女になる気あるんじゃないの。
あとは、どうにかするのは一つだけだ。
「とりあえず、僕は朝ご飯持ってきたから……何やってんの」
「見ての通り、魔方陣を書いています」
「そりゃ見たらわかるけど、なんでまた」
「今は飯食ってる場合じゃありません」
カリカリとチョークで陣を描いていく。マルクルは興味深そうにそれを見る。
「これ、水に流れをつける陣? こんなところに流れるプールでも作る気?」
「まさか。これは別に描かれた陣に移動するための陣ですよ」
マルクルはへぇ、と声を上げた。
「普通の陣に加護が付いた魔力を注ぐと、それぞれ別の性格を帯びて、全く別の魔法になるって、あれやっぱり本当だったんだ」
「みたいですね。詳しくないですけど」
いつまでいる気なんだろう、この人。私は立ち上がってぞんざいに手を振った。
「分かったらさっさと退散してください」
「あはは、君本当にいい性格になったねぇ。その方が魅力的だよ」
「いい性格してるのはあなたの方でしょう……朝ごはん、ありがとうございました。ではさようなら」
「どこ行くの?」
「実家」
「ついてくよ」
「いりません」
「ほら、君一応聖女候補だし。ここに護衛A、御供致します」
「護衛なんかいらないって、あなたが一番よく知っているでしょう」
私はため息をついて頭を回した。私はすぐにでも帰って、実家に根回しをしたいのだ。
私の最後の仕事は、実家を押えることだ。なんとか父に私を聖女にすることをあきらめさせなければならない。
それさえ達成すれば、便乗して私を聖女にって言ってるほかの家も、おのずと諦めるだろう。
しかし父を納得させる、それが一番難しいのだ。何日かかるかわからない。だから一刻も早く戻りたい。
そんな気も知らずにマルクルは言葉をつづける。
「光は時空の流れを生かし、闇は時空の流れを殺す。なるほど、それで水に流れをつける陣が、空間に流れをつける陣にまで昇格されるわけね。だけどね、アンヌ。この陣――」
マルクルが無表情で顔を上げた。
「間違ってる」
「……」
私も無言で顔を上げる。
「自己流ですから、間違ってるもくそもないです」
「でも、移動に地味に時間かかるでしょ?」
「……」
「僕ならね」
マルクルはにっこり笑った。
「五分の一にできる」
「……」
私はすっと立ち上がった。
「護衛A様かっこいい―!」
「呑み込みが早くてよろしい!」
〇
完成した新・移動陣でリリアンヌとマルクルが飛んだ3時間後。
「――っ、ほん、とに、移動した……くそ、ここちゃんとキナコバター領なんだろうな!?」
吐き気がするほどの違和感をこらえながら、マリーベルが立ち上がる。足元には、成程魔方陣が描かれている。
「うえっ、えづきがひどい……間違いなさそうですよ。ほら、えぷっ、あそこに見えるのが多分キナコバター男爵の屋敷でしょう」
従者が口を手で押さえながら指さす。遠くに生成り色をした大きな屋敷が立っているのが見える。
保健室からリリアンヌが行方不明になったと聞いた会議室のパニックはすさまじかった。
何せ、さっきまでリリアンヌが起きたら速やかに指輪譲渡の儀式を執行しようと、宮廷魔術師たちが準備万端でスタンバイしていたのだ。
保健室の出入り口はもちろん、窓の外にも魔法が使える見張りを置いていたのに。おまけに何だ、床に描かれたこの意味深な魔方陣は。
また世界を壊す計画を始めていたらどうしよう。よしんばしていなくても、どっかをぶらぶらほっつきまわっている間に、他国に引き抜かれたらどうしよう。
皆を落ち着けて部屋に帰らせ、ようやく落ち着いたマリーベルが発見したのがベッドの下の、マルクルからの置手紙だ。
いわく、リリアンヌが実家に帰ると言い出した。
面白そうだから自分もついていくと。
陣にはもう一度二人まで移動できる仕掛けをつけてある。現在リリアンヌの部屋に描かれた着地の陣は、どこか別の安全な場所に書き直しておくから、着たきゃ来いと。
さすが、なんだかんだ言って仕事ができるマルクル。
どうせならリリアンヌの移動を無理やり阻止して、自分たちを呼んでほしかったなぁ、と哀愁に浸りたいところだが、そんなことをしている場合ではない。一刻も早くリリアンヌを確保して儀式を始めなければならないのだ。
マリーベルはすぐさまリリアンヌを護送する馬車を手配してから、自分も従者を連れて陣で飛ぶことにした。
キナコバター領へは馬車で三日はかかるから、とりあえずその間は自分がリリアンヌを落ち着かせた方がいい。
キナコバター領の町はあまり活気はないようだった。
屋敷につくと、想像以上に豪奢な造りをしていた。玄関で侍女を呼ぶと、マリーベルの名前を聞いたら飛び上がって客間に案内してくれた。
暫くして男爵がやってきた。
「これはこれは、ブロッコリー公爵令嬢。遠方からはるばるようこそ、まずはお茶でもいかがでしょう。妻にもてなしてほしいところですが、あいにくここずっと病で臥せっておりまして」
「まぁ、まぁ。急に押しかけてしまったのに、このように歓迎していただいて恐縮ですわ」
マリーベルは素早く令嬢の皮を被る。
紅茶をひと口飲みながら、男爵を観察した。一見穏やかそうだが、眼が野心的にぎらついている男だ。
「わたくし、リリアンヌさまをお迎えに上がりましたの」
「おや、わざわざ公爵家のご令嬢が何故?」
「彼女が将来、聖女になられる方だからですわ」
マリーベルが言うと、男爵はおや、とわざとらしい声を上げた。
「ブロッコリー公爵令嬢ともあろうあなたが、聖女候補の座から退くと?」
「ええ」
応えると、男爵の態度は一気にぞんざいなものとなった。
「やはり、あの噂は本当でしたか」
「噂?」
「マリーベル様に聖女の位を継がれる気がないと、このような田舎でも王都と交流のある商人たちの口から、伝わってきておりましてな」
男爵はかちゃりとティーカップを置いた。
「ご実家のブロッコリー領にお帰りになるのでしょう?」
マリーベルは紅茶をもう一口飲んだ。
確かにまだ女でいなければならなかった頃は、早々に聖女合戦から抜けて、卒業後は自領に身を隠すよう手はずを整えていた。自分を聖女にと推す事情を知らない貴族たちにも、根回しは済ませておいたが、男爵にも伝わっていたか。
まぁ、今となっては事情が違う。しかし、この男爵には言う必要のないことだ。
問いには答えずにマリーベルは微笑んだ。
男爵は肩をすくませながら続ける。
「しかし、いや、マリーベル様は引き際をわきまえていらっしゃる。やはり自分の分をわきまえているというのが、貴族令嬢には必要なものです。マリーベル様はそうであるというのに、うちのリリアンヌはまだ小娘でしてな。自分は聖女にならんとのたうっておりました。何のためにここまでしてやったと思っているのか――父である私が何を言っても聞きませんでな。いやはや、前から礼節のなってない子供でありましたが、いつの間にあんなじゃじゃ馬に育ってしまったのか」
「……リリアンヌ嬢は今どこに?」
「噂の話をしたら、出所を確かめてくると、飛び出していきました。大方、この辺りで一番大きな商家のところでしょう」
「そうでしたの。突然お邪魔をしてしまって、もうしわけありませんでした」
「いえいえ。――あの、マリーベル様。」
男爵は含んだ笑みを見せた。
「あなたからも、リリアンヌが聖女になるよう、口添えをしていただけませんかな?」
それを、マリーベル自身に言うか。
「……努力しますわ」
「いや、ありがたい。ブロッコリー公爵様がうらやましいものです、このような立派な娘さんを持つことができて。案内の者を呼びましょう」
「感謝しますわ」
マリーベルはぼんやりと虚空を見た。この父親に、聖女にならないと宣言しに来たのか。
……相変わらず無邪気なことで。