2 リリアンヌは首を垂れる
「……今日の昼休み、体育館裏に来なさい。誰にも言わずに一人でね。」
―ー昼休み、体育館裏。私は体育館の壁を背にぴったりとつけて立っている。顔の横には手。手はくの字を描く腕、そして肩に続き、肩は私の目の前で微笑む美しい顔に続いている。そしてその顔が近い。すっごく近い。
お分かりだろうか。壁ドンである。
「リリアンヌさん、あなた何かと私にかまってくるわね。私のこと素敵だとか、大好きだとか。何を企んでいるの?」
サクランボのような唇が放つその吐息すらかぐわしいような気がして、つまりは内容が全く耳に入ってこない。
落ち着け。落ち着くのだ私。私は賢いので同じ轍は踏まない。すっごく興奮しているからと言って、決してこの人に気持ち悪がられるようなことは言ってはいけないのだ。もうすでに手遅れのような気もするが。
「……あなた、何を知っているの?」
知っているどころか、ゲームのスチルはもちろんプロフィール欄の余白の模様まですべて暗記しております、なんて言ってはいけない。言ってはいけないのだ。
決意を固めて顔を上げ、彼女と目を合わせた。
駄目だった。
ゆるくウェーブした金髪に編みこまれた水色のビーズは風に乗って揺れる。
一番きれいな空の色の瞳は金色の長いまつ毛に縁どられて鋭く吊り上がり、思春期だというのにその肌にはニキビの跡一つない。
漂ってくるのはミントの香り。そうか、この人はミントの香水を付けているのか。
前から画面越しでないの最高、とは思っていたけれど。こんな至近距離から見てしまったら、芸術品なんて言葉では生ぬるい。奇跡だ。私は生命の奇跡を目の当たりにしている。
祝福の雨が私の頬を伝う、と思ったら涙だった。唐突に泣き出した私におののいたのか、マリーベルは慌てて壁から手を外し、気まずげにスカートのすそをつまむ。そのしぐさすら完璧だ。可愛い。愛しい。天使。
偽ってはならない。罪人が神の子に首を垂れるが如く、私のよこしまな心は隅々まで浄化される。同時にこの性癖の塊に一切の隠し事をしてはならないという神の啓示が、心の雨と一緒に降ってきた。
「……その……」
「……」
「……悪かった。」
「前世からお慕いしております。」
「は!?」
心は定まった。気持ち悪がられたり嫌われたりするのが怖いとか、私の心はそういう次元の外にいた。こんな私を前世の友が見たらこう呼ぶだろう、狂信者と。
「前世では生ぬるい、前々世、いや前前前世からあなたを探し始めたのに違いないのでございます!」
「なんか君口調変わってない!?」
うつむいて眉間をもみだすマリーベルを見て、私はうっとりとため息を漏らす。
「口調が変わっているのは、お互い様ですね。」
「――っ?」
慌てて口を押えるマリーベル。
「隠さなくても大丈夫です。その口調のことも、私前世から知っていました。私、マリーベル様のことなら何でも知っているのよ。」
マリーベルのこちらを見る目が、もはや化け物のそれである。
「……で、電波。」
「私、マリーベル様を推しながら生きていけるなら電波呼びでもいいです」
よこしまな感情にとらわれすぎて、私の心は一周回って浄化され凪いでいた。
「あなたは素敵です。 私、金髪で高飛車な女の子が大好きなんです。あと、男勝りで男言葉を使う女の子も。 あなたは、それの混ざり具合が絶妙なんです。その合間合間に見える影とか、もうたまらない。例えば私が二次元……絵や文章で私の好みの女の子を創作しようとしたとしても、決してあなたにはならない。あなたは、私にとって何か人知を超えた、宇宙の力みたいなものを感じさせる。あなたと私が出会えたことは運命で、それでいて奇跡なんです。ああ、なんて言ったらいいんでしょう……、言葉で表現することは難しいけれど、とにかくあなたは私を救ってくれたんです。ずっと、ずっと前から。あなたが大好きです。あなたがいてくれさえすれば、きっと私には一つも怖いものなんてないのだわ」
言葉を終えないうちからマリーベルの顔はだんだん虚無、みたいな感じになってきて、瞳からはハイライトが失われていった。まあそうだろう、この感謝の気持ちなんて伝わらないだろうって思うけれど、私は伝えずにはいられなかった。気分は踏み絵ができなかったキリシタンだ。
「えっとつまり……きみは同性愛者なのか。」
「同性愛とか異性愛とか、そういう領域を超えたものです。性別じゃなくてジャンルを愛しているというか……。そうですね、あえて名前を付けるなら性癖愛ですね。」
「性癖愛……」
マリーベルは何か遠くを見るような眼をして言った。
「俺は君のことを、もっと違う感じの人間だと思っていた。何と言うか天真爛漫で、思い通りにならなかったことなんて何一つないような、それでいて誰からも愛されないことはないような種類の人間だって思っていたんだ。何というか、君の本来の姿が今日知れてよかったな」
「あら、私はマリーベル様の新たな面を見ない日はありませんよ。毎日毎日、マリーベル様は私の新たな性癖を開拓していく。そして、私はもっともっとマリーベル様のことを好きになるの」
「あ、そう……」
プイっと向こうを向いてしまったマリーベルの耳が少し赤いことに気が付いて、少しはこの愛が、感謝が伝わったのかもしれないとうれしくなった。
「さっさと教室に戻るぞ。昼食を食べ損ねる」
「あら、今日の私のお弁当はマリーベル様が捨ててしまったではないですか」
「は?」
ぎょっとしたようにこちらに向き直るマリーベルを見て、私は胸に不穏なものがわいてくるのを感じた。
「え? いつもマリーベル様が捨ててたんじゃないんですか? 体操服とかと一緒に……」
「体操服も? 俺は知らない。まさか取り巻きたちが勝手に……、悪かった。これはさすがにやりすぎた。取り巻き達には俺から注意しておく。」
「いえ、弁当箱も体操服もごみ箱から回収できるし、便所に捨てられていた前世と比べたら断然ましなのですが」
「な、何かわからないけど苦労してたんだな……」
「あの弁当箱はフェイクで、もやししか入っていないのでお気になさらず。」
「本当に手馴れている! いや、それでもやりすぎはやりすぎだ。あいつら、ちょっと暴走しやすいところがあるとは思っていたけれど、まさかこんなことまで……」
呟きながら校舎に戻るマリーベルの背中を追う。私への嫉妬をこじらせたマリーベルの取り巻きが暴走した。本当にそんな理由だろうか。
湿った風が吹いてきたので空を見上げると、先ほどまでさんさんと輝いていた太陽は、すっかり厚い雲に覆われてしまっていた。
〇
暗がりの中で目を覚ました。あちこちが痛む体に顔をしかめながら起き上がる。地下室の中はいつものようにやたら寒い。
「光魔法、なんかいい感じにぼわってなるやつ!」
自己流の呪文を唱えると、手元にカンテラ大の光の玉が浮かび上がる。私は光の玉を掲げながら、地下室の中を見渡した。
足元には血文字のような巨大な魔方陣。ところどころ、水色の石が埋め込まれている。魔方陣の周囲にはビロードのような黒い布があちこちに垂れ下がっている。布の向こうでは人の気配。きっと生贄の儀式を執り行おうとしている人たちだろう。
スチル通りの光景。これが例の儀式か。実物で見るとやはり迫力が違う。思わず見入りそうになるが、いつまでもこうしてはいられない。ぐずぐずしているといい感じに立った攻略対象が、つまり私の場合は攻略対象全員が、この場に踏み込んできてしまうのだ。
私はいつものように光を屈折させて自らの体を透過させる魔法を使う。本来なら私は力いっぱい光がバンってなるような魔法が得意で、このように繊細なコントロールが必要になる魔法は苦手なのだが、今まで何度も練習したし、実際に何度も使ってきたのでこの場でこれを使うのは簡単だ。
暗幕の向こうでいきなり消えた生贄に驚いているような気配がするが、私は構わず人の間を潜り抜けて、部屋の隅へ向かう。
ほら、あった。もしも儀式の準備のために開かなかったらどうしようかと思っていたが、部屋の角に作られた隠し扉はいつものように容易に開いた。
そう。私はこの地下室に何度も忍び込んだことがある。ゲームのストーリー上私が地下室に連れ去られることは承知していた。
ならば普段から地下室に忍び込んでおいて、造りを把握するまでだ。
隠し扉をくぐって狭くて暗い通路を渡る。このような暗い場所を通っていると、前世でトイレの用具置き場に閉じ込められていたころのことを思い出す。
廊下を歩いていると汚水をぶっかけられたこと。先生がいない時を見計らって蹴られ、チョークの粉をぶっかけられたこと。学校を休みがちになった私に向けられる、酷く怒った母の顔。中学生の時の記憶は特に鮮明だ。
密かに気になっていた男子が心配してうちに来て、母親と話をするよう励ましてくれたこと。母親が泣きながら謝って、私を抱きしめてくれたこと。私が学校に行っていないからと、友達が勉強会を開いてくれたこと。念願の高校に合格して、みんなでお祝いしたこと。何度だって思い返したから、瞼を閉じれば、今でも昨日のことのように思い出せる。
幸せは暗闇に比べれば、今辺りをほのかに照らす手の中の光のようにちっぽけなものだけれど。それでも、私はその光を愛していた。光を与えてくれた私の世界を愛していた。これから先のことなんて、真っ暗で少しも見えなかったけれど、私には確かにやりたいことがあった。この光をくれた人たちに恥じない人間になること。私自身を見て、手を差し伸べてくれた、たくさんの人たちに恩返しをすること。
素晴らしい力を持っていて、だれからも評価される今世よりも、私はもう二度と戻ることのできない前世を未だに恋しがっている。私は狂っているのかもしれない。
狂っていてもいい。狂っていても、私は残された光のかけらを見つめながら生きていく。
マリーベル。最後に残された私の前世の痕跡。私の最後の光。
通路の突き当りの扉を開けるとまぶしい春の日の光が差し込んできたので、私は少し眉をひそめた。目が慣れてくると、いつも通りここは中庭だ。腕時計を見る。そろそろ卒業パーティーが始まる。慌てて会場へと足を急がせた。