9 リリアンヌはリリアンヌである
「一目でいいから前世の世界が見たい」
「それで帰したら、まる一日たっても戻ってこないと」
額を押えるマリーベル、天を仰ぐ従者にマルクルは笑っていった。
「いやー、あんなところすぐ飽きるだろうと思っていたんだけどね」
リリアンヌの部屋の床に描かれたのは、巨大で複雑な魔方陣。その真上に、大きい真っ黒な穴が浮かんでいる。
「マルクル様、あなたはなんでこう時々――いや頻繁に馬鹿なんですか」
「失礼だねー、僕は結構、成績いい方だよ?」
「知ってますとも!」
ギャアギャアとやりあう従者とマルクルを放置して、マリーベルは穴へ近づく。
「ここから連れ戻すのか……」
眉間にしわを寄せてうなるマリーベルに、マルクルがうんうんとうなずく。
「僕が何回帰ろうって言っても首を縦に振らないんです。これはもう、マリーベル様に何とかしていただくしか」
「他力本願ですか!」
「仕方ないじゃないか、多分聖女になったら、こんなふうに大掛かりな魔法を使うには長い手続きがいるだろうし、それならなる前に彼女の望みを一回かなえちゃった方がいい」
マリーベルが虚無の顔で言う。
「あんなに恋しがっていた世界から、重責のあるここに戻るよう説得できる可能性があるのは、もはや理想の美少女である俺しかないわけだが」
「もう自分で言っちゃうんですね」
「しかし、家族や友人がいて、普通の女の子でいられる前世に勝てるか……?」
「え? むこうにアンヌの家族はいないよ?」
マルクルはきょとんとして言う。
「は?」
「だって、全部幻なわけなんだからね」
「あ、あの、マルクル様……」
「あれ、もしかして君たちも前世なんて、本気で信じてたの?」
マルクルはぼりぼりと頭をかく。
「あるわけないだろう、前世なんて。」
〇
暗闇の中で、マルクルはぺらぺらとしゃべる。
「アンヌ、君の話を聞いてから、すぐに神殿に行って調べたんだけどね。時々、光の依り代の中には未来や過去、異世界を見れるものがいたらしい。本当に時々だけどね」
分かったよ。
「君が前世の記憶を見たのは、10歳前の話だろう?……ほら、やっぱりそうだ。基本的に10歳までは、魔法が安定しないんだ。魔力量が大きければ、なおさら」
分かったから。もう、言わないでよ
マルクルが開いた穴の中からたどり着いたのは、暗い闇の中で揺蕩うふしぎな光だった。いや、光の中にチラチラと何かの風景が見える。
別に、聞いてないけれど知っている。あの光、一つ一つが世界。
「でも、君の幼い頭では情報量が大きすぎて、受け止めきれなかったんだろう。異世界の一人の女の子の人生に、他のもろもろに加えて、セキハン国の未来の分岐まで。それで、君にも理解できるように、まぜこぜになって、整理されて、白昼夢みたいな形で認識されたんだろうね。いやぁ、自国の未来を異世界のゲームとして整理するって、幼子の夢って面白いね」
やめて、聞きたくない、聞きたくない。
それでもマルクルは言葉を続ける。
「ここは、異界のはざま」
「この光の中に」
何故だろう。声が震える。
「私の世界はない」
「アンヌ、よーく思い出して?」
言わないで。知ってる。私この場所知ってる。
「ここが、君が昔見た場所。つまり、君の前世だよ」
浮かんでは移り変わっていく光の中に、ちらほらと私が知っている景色が映っては消えていく。ああ、そうだ。思い出した。全部思い出した。
私はリリアンヌ。生まれた時からリリアンヌ。
私自身を見てくれる人は誰一人いない。 お父さんもお母さんも父もヤコブも近所の人も、皆私を透かして光の聖女を見てるから。違う、私自身に見るようなものなんて何一つないから。
私は何一つない、屑だった。
「じゃあ、僕は帰るね。気が済んだら、アンヌも戻ってきてよ」
言い残して、マルクルは闇の向こうにすっとに消えていった。
私は揺蕩う光の一つを見る。中に、ふわりと少女の笑顔が浮かぶ。ああ、あれ、前世だと思っていた彼女だ。
私の愛した世界を、本当に生きていたあの子。苦難の多い人生を耐え抜き、たくさんの人に囲まれながらも、若くして亡くなってしまった彼女を見る。
ただただ、自分が情けなかった。
〇
「リリアンヌ嬢、帰るぞ」
座り込んだリリアンヌが振り返ると、マリーベルが立っていた。
「ああ、マリーベル様か」
リリアンヌはぼんやりとした目で一瞥する。
「そうか、ごめんなさい。あなたにはいろいろ迷惑をおかけしましたね」
「――ようやく男だと理解したか」
「うん。ここから、過去にあなたたちが奮闘しているのが見えた」
そういうと、リリアンヌは遠い目をした。
「あの会議で、あなたたちは何をしていたの」
「あのな、大体、君のせいだからな?」
はー、とマリーベルはため息をついた。
「そうだ、君のせいで俺たちはすっっごい苦労を被ったんだ。分かったんならさっさと帰るぞ」
「苦労を被ったんなら」
リリアンヌはゆるゆると頭を前に戻す。
「迎えになんて来なくていいじゃないですか」
「わざわざ探しに来てやったのに、そういうことを言うか」
「だって」
リリアンヌは言葉を紡ぐ。
「だって、今の私が魔力操作が完璧になったって、ますます不安要素が高くなるだけじゃない。一人だけ強い力を持った部下がいるって、パワーバランスが悪すぎるでしょう。父たちだって、これ幸いと政治にうるさく口を出すようになりますよ」
「分かったんなら、せめて聖女騒動だけでもスムーズに動くよう手伝え」
「帰りたくない」
リリアンヌは吐き出すように言った。
「もう私には、大事な物なんて一つもない。よりどころだってない。それなのに、あの世界で耐え抜くなんてできない」
「あるだろ、君の大事な物」
「何よ」
「可愛い可愛いマリーベル様」
リリアンヌはぽかんとして、マリーベルを見る。
「……あなたは何を言っているんですか」
「ここに来る前、従者と話した。俺は男に戻らない。辺境にもいかない。王都で、マリーベル様として暮らしてやる。幸い、王妃にはもう一人幼い嫡男がいる。彼を引き取って常識的な教育をして、王位につければいい。もう見通しはついたし、父も説得するつもりだ」
「――そんなことしても、私はあなたが男だって知っていますよ」
「光は時空を活かし、闇は時空を殺すって通説、知ってるだろ」
マリーベルは神から水色のビーズを引き抜いた。一気にビーズを通ったひもはマリーベルの手の中に転がり落ち、暗く光り出した。
「俺の魔法でお前の記憶を消してやる」
「何で――」
リリアンヌは口をはくはくとさせながら、かすれた声で言った。
「何で、そこまで」
「俺の両親は」
マリーベルは言った。
「俺の両親は、いつも俺がかわいそうだって嘆いていた。闇の魔力なんて持って生まれたばっかりに、女に身をやつして生きていかねばならないなんて、かわいそう。こんなに忌々しい姿にさせられて、なんてかわいそうなマリーベル。同年代の貴族連中には、嫉妬された。なんであいつばっかり、地位も魔力も持っているって。取り巻き連中もいい顔して近づいてきてはいたけれど、やっぱり裏では俺を憎んでたな……俺も、『マリーベル』が大嫌いだった。親を泣かせて、俺らしく生きるのを邪魔する『マリーベル』なんて、早く無くなればいいと思っていた」
マリーベルは続ける。
「『嫌われ者のマリーベル』を、心の底から全肯定されるのは、――悪い気はしなかったよ。だから、仕方がないからもう少しお前のマリーベルでいてやらないこともない」
そういうとマリーベルはにっと笑って、長い髪を手で振り払った。
「このわたくしがここまで言ってあげたのよ。せいぜい感謝することね!」
リリアンヌは目を見開いた。まぶしい、まぶしい。すごく華やか人なのに、はちみつ色の金髪も、水色の目も、この人を構成する色は、泣きなくなるほどやさしい。
マリーベルは先ほどほどいた水色のビーズと、懐からチョークを取り出していった。
「じゃあここに魔道具はあるから、さっそく記憶削除に入るぞ。……あれ、魔法がかからない。――おい、お前また火花出てるぞ。おい、俺の魔法跳ね返してるから。一回落ち着けって、おい」
まぶしい。まぶしい。まぶしい。
まぶしすぎて、あたりに揺蕩う光も、一面の暗闇も、もう、何も見えない。