9話 ラウラの願い、ダーレの願い(L)
「嫌だ」
「貴方を危険な目に遭わせるわけにはいかないの」
「僕は自分から望んでラウラと一緒にいたいんだ。危険な目なんてどうにかすればいいだろ?!」
「貴方は客人なのよ! これ以上はだめ……もう終わりにしないと」
一ヶ月も滞在した今なら、姉様たちも破棄することを認めてくださるはず。
彼は客で、本来は山の麓の広大な土地の領主だ。小国に構う時間はない。守るべき領民がいるはずなのだから。
「ラウラ、嫌だ」
私の近くにいるとだめ。もしかしたら今度はあの怪我よりもひどいことになるかもしれない。
「お願い……だめなのよ」
忘れもしないわ、私のせいで父様も母様も亡くなった。
これ以上、大切な人を失いたくない。同じことを繰り返してはいけない。
「……魔法とか南の隣国とか訊きたい事ばっかりだったけど、正直もうどうでもいい」
「え?」
「ねえ僕達、本当はあの日より前にも会ってたの知ってた?」
急な話で私は返す事が出来なかった。あの日出会う前に?
「やっと思い出して、やっと繋がったんだけどさ。小さい頃、大伯父に連れられて顔合わせはしてるんだよ」
あの頃の君は僕の後ろを嬉しそうについてくるだけだったけど、とダーレは言う。
自分に婚約者がいることは小さい頃から知っていたけど、会っていた記憶はなかった。
私は誰とも結婚するつもりがなかったから、相手がどんな人物かなんて知ろうとも思ってなかった。だからこそ、ダーレと出会って彼がその婚約者だと知って驚いたのだけど。
「今更小さい頃の話なんてって思うかもしれないけど、小さい頃もあの日の事も、今こうしてラウラが僕の目の前にいるのも、全部意味のある事だと思ってる」
「ダーレ」
「やっと会えたのに、すぐにさよならは嫌だ」
ぐいと腕を引かれそのまま抱きしめられた。もうすっかり彼に抱きしめられることに慣れてきた気がする。
この一ヶ月、私の心内はダーレがちょっかいを出してくる度に乱されてばかりだった。その中に、少しだけ落ち着きのある心地良さまであって、今の今になって恥ずかしくて頬に熱が灯った。見られてるわけじゃなかったけど、見られたくなくて彼の胸に顔を埋めると、ダーレの肩が僅かに震えた。
「あの、ラウラ」
「悪くは、なかったわ」
「え……」
「調子が狂ってばかりだったけど、悪くはなかったの」
「それ、」
彼の喉が鳴るのがわかった。
そう、悪くはなかった。彼の言動と行動には散々振り回されていたけど。
ここできっぱりとさよならを告げないと、と口を開くも、どうしても言えなかった。婚約破棄を認めてもらって、彼は領地に戻り、私はこの小国で今までと同じ日々を送る。
それでいい、そうすれば彼が怪我をすることはないのだから。
なのに、一向に私は声を出す事が出来なかった。さっきやっとの思いで破棄を言い渡せたのに。
「ラウラ」
やっぱり無理だとダーレが私の言いたい事を否定した。
婚約破棄なんて嫌だと、ここを去るのは嫌だと。
一緒にいたい、ただそれだけの為に、この国にいたいと。
「僕は……ラウラと一緒にいたい。君の隣に立っていたい。それが僕の願い」
ラウラは、ときかれた。
私の願い。
そんなものない、と告げる。だって私が望んでいいわけないのだから。
「ねえラウラ、本当は飛びたい?」
「!」
肩が鳴った。安易にそうですと言わんばかりに。
「ラウラがたまに空を飛ぶ鳥を見て目を細めているのも知ってる」
「え」
「この前も梯子を使ってる姿を見て申し訳なさそうにしていたのも、俯いて泣きそうになってるのも知ってる」
「そんなこと、」
ないとは言えなかった。
魔法が使えなくなった事と同じく、飛べない事は私にとって引け目以外のなにものでもなかったから。
「ねえ、ラウラ。今は僕しかきいてないから」
教えて、君がしたいこと、と優しく問われる。
喉が渇く。瞳に競り上がってくるものを感じたけど、流す事だけはこらえた。ここで泣くなんておかしいもの。
「……」
「……」
「……」
「……飛びたい」
「うん」
「飛び、たいの。前、出来たように、自由に、空を」
「……うん」
「ずっと、飛びたいって、思って」
泣いていないのに、泣いてる時のようにしゃがれた声が出た。
「ラウラの願い、叶えようよ」
「え?」
「一緒に考えよう? 君が飛べるまで」
「そんな、の」
私が飛べるようになったってダーレが得をするわけじゃないし、それに私が飛べるのか私自身が信じていない。崖から落とされても翼は戻ってこなかった。彼に怪我までさせたのに。
「ラウラ、大丈夫。出来るよ」
その言葉に声を上げて泣きたくなった。どうしてダーレは欲しいと思った時に、欲しい言葉をくれるの。
「ダーレ」
あの日から、周囲は私を気遣って飛ぶ事に関する一切の会話をしなくなった。もちろん飛ぶ事もなくなった。その優しさが有り難いと同時に、どうしても申し訳ない気持ちを消せなくて、私は私なりに何かで償うしかなかった。それが自己満足だったとしても。
だから、今ここでダーレがただ私の気持ちだけを汲んでくれることが嬉しくて、今まで意識してなかった身体の内側がことりと動いた。
「ラウラが好きだから、ラウラの望む事を叶えたい」
「ダーレ」
「これは僕の勝手だ。君が許してくれるなら、僕は、」
抱きしめた腕が緩み、片方の手が私の頬を包み、そのまま上向された。
ダーレの真剣な瞳とかち合って小さく息を飲む。いつもと違って真剣な瞳は深みを帯びて色を変えていた。空と同じ色の瞳だった。最初会ったときから変わらない私が求めてやまない空の色。
「ダーレ」
小さく呼ぶと彼は僅かに目を細めた。
「……」
そのままゆっくり近づいて来る。鼻先が触れ合ったところで、私は瞳を閉じた。