時計塔の音
デートの約束をした日曜日の朝、セットしていた筈の目覚まし時計は沈黙していて、私は急いで家を飛び出した。
待ち合わせは3駅先の時計塔の前。
乱れた髪を手で押さえ、飛び乗った電車に揺られる。
日曜日の午前中は人もまばらで、席に座る事も容易だけど遅刻しそうな焦る気持ちから、立っている方が落ち着けた。
このまま行けば10分程の遅刻で済みそうだわ。
キキキキキキィー
嫌に高い音がして体が傾いた。
手すりを握りしめていたおかげで何とか倒れずに済んだものの、電車は駅でもない場所で止まっている。
乗客の皆さん。
そうアナウンスがあって、急停車した理由が告げられる。
線路上にある物の撤去作業が終わるまでは電車は動かないらしい。
もう、これは完全に遅刻だわ。30分?1時間?
デートはキャンセルになったかな?それとも待ってくれてるのかな?
絶対に遅刻しないと約束したんだけどな……。
ギシギシと軋んでいる首を下に向けて、手すりを握りしめたままの手の、小指を見つめる。
約束、したんだけどなぁ……。
リーンゴーン♪
待ち合わせ時間を告げる時計塔の音が、遠くに聞こえた気がした。
いつ作業は終わるのだろう?
乗客達は大人しく席に座っていて、本を読んでいる人や音楽を聴いている人、寝ている人がいる。
よく落ち着いていられるわね……私だけでも下ろしてもらって、走って待ち合わせ場所まで行こうかな?
作業の進み具合を中継してくれるアナウンスがあれば、少しは気がまぎれるのに、始めにアナウンスがあっただけで放置するなんて、不親切にもほどがあるわ。
ガタンゴトン。
皮肉なものね……早く着くからと乗り込んだ準急より、普通電車が本当に普通に通り過ぎていくなんて。
私の電車が止まったニュースが駅に流れてくれたら、遅刻の言い訳をしなくて済みそうだけど……まず会ったら遅刻した事を謝らないとね。それからー……そうよ、電車が止まった事をそのまま説明すれば良いんだわ。だから寝坊した事は黙っていよう。
うんうん、少し落ち着いてきたわ。
動かない電車の中で握りしめたままだった手すりから手を剥がし、その手を頭に乗せて乱れた髪を整えるために上下に動かす。
ギシギシと軋む首と、力の入らない指先。
カバンの中に櫛は入っていたかしら?
そう思って肩から掛けていた筈のカバンを探してみて、実は急停車した時に向こうの方まで飛んでいっていた事に気が付いた。
リーンゴーン♪
何度目かの時計塔の音が耳の奥で鳴っている。
ここから駅前にある時計塔の音が聞こえるのだから、本当に近くまで来ていたのね。
電車はまだ動かない。
もう!どれだけ遅刻させるつもりよ!
頭に張り付いたままだった手を手すりに戻し、ベトベトと気持ちの悪い首元を、デートの為に買ったスカートの裾で拭い、どす黒い汚れが着いてしまったオニューのスカートを眺めて溜め息が出た。
どこに怒りをぶつけたって、元はと言えば私が寝坊をしたのがいけなかったのよね。その時に少し遅れると連絡して、急がずに歩いて駅に向かっていれば、こんな急停車に巻き込まれなくて済んだのよ。
今、何時だろう?
そう思ってギシギシと軋む首を下に向けて、腕時計をはめた右腕を軽く上げてみた時、それまではかろうじて繋がっていた右腕が肘の部分からポキンと折れて足元に落ちてしまった。
落ちた腕を拾い上げて腕時計を見ても、その時計は割れていて、止まっている。
どうやら腕時計の電池が切れていた事にも気が付けないほど朝の私は急いでいたようだ。
私は、3駅先の駅前にある時計塔の前で待ち合わせをしているの。
その約束の時間はもうとっくに過ぎてるけど、まだ待ってくれていると信じて電車が動くのを待っている……。
プルルルルルルル。
「長らくーお待たせしましたー」
ようやく電車が動くのね?
だったらカバンを取りに行かないと。
手すりに張り付いたままの右手首を、引きはがし、ヒールの折れてしまった靴でカクンカクンと歩きながらカバンを拾いに向かい、そこから近い席に座ってカバンを開けた。
ガタンゴトン、ガタンゴトン。
ようやく動き出した電車は2分もしないうちに約束の駅に到着した。
あぁ……やっと、やっと着いたわ……。
あの人はまだ私を待ってくれているかしら?
それとも、もう私の事なんて……。
「あ、こっちこっちー。聞いたよ、電車が大変だったんだって?」
時計塔の方から聞こえてくる声に目を向けると、両手で高く首を持ち上げている彼が人込みの中から私を見つけて笑っていた。
「お待たせー!そうなのよー。もう右腕がボロボロ」
手すりを握っていた右手は急停車の衝撃をまともに受けてしまって、手首は千切れて肘もポキンって取れちゃったのよね。
緊急用の裁縫セットは持ってきてるけど縫う時間が勿体ないから、今日は取れたままでいいかな?
「俺は心配し過ぎて首が取れちゃったけどね」
うん、それはどんな状況かな?
「じゃあ公園で仮縫いだけでもしよっか」
綺麗にくっつけるにはサロンに行くべきなんだろうけど、デートの時間をこれ以上短くするわけにはいかないよね。
「そうしよう。あ、今日のスカート綺麗だね、その血染めっぽいのが良い感じだよ」
褒めてくれてありがとう……だけど、ただ汗をぬぐった時に血が付いただけって事は……言わなくて良いかなっ!
リーンゴーン♪
駅前にある時計塔の音が聞こえる。