7話 快感と挫折
スタジオ内へ入ると僕は真っ先にエレキギターを取り出した。そしてこの美しく赤い艶やかなボディへ頬擦りしたくなる気持ちを抑えながらチューニングすると、シールドを繋いでエフェクターを通してアンプを調整した。家とは違い大音量で音を扱えることに尚のことテンションは上がり、僕は思いっきり弦を弾くと音の中へと呑み込まれそれだけの世界へと没頭した。そしてロック調の課題曲をイントロから弾き始めて皆の準備が終わるまでに1曲弾き終えてしまい、皆がポカンとした表情で僕を眺めていた。
特にキーボードの加東さんは小さい頃からピアノを習っていて音楽に見識が有った為に、僕のギターを拍手をしながら
「時垣くんってめちゃくちゃギターが上手なんだね。凄い上手! 」
そう褒めてくれ、僕は初めての近い人にギターを褒められた事がとても嬉しくて、もう1曲流行の歌を弾いた。その皆の知っている流行の歌を弾いた事で他のメンバーにも僕の技術を理解できた。しかし楽器隊のメンバーが感心する裏でボーカルの吉坂が嫉妬に似た気持ちで不服そうにしていることをまだ僕は知らなかった。
そして僕と加東さんが手伝いながら機材のセッティングを終えて、いよいよ僕達は初めてのバンド練習をスタートした。
ドラムの前田が力強くカウントし、スネアドラムを叩くリズムに合わせて僕はギターを掻き鳴らした。それと同時に加東さんのキーボードのメロディーと沢木のベースも入り、ぎこちないながらも音を合わせる事が凄く楽しかった。そしてイントロが終わりAメロへ入ると、ボーカルの吉坂は歌い出しを入り損ねている上にキーが合って居なかった。しかし初めての合わせで止めるのも野暮であると思いそのまま演奏を続けた。しかし吉坂はサビの部分まで結局キーが合っていない上に歌詞を間違えている。そこまでは良いとしても当の吉坂は気付かずに楽しそうに歌っている。僕はその心のモヤモヤに限界を感じて演奏を止めてしまった。そしてそれに気付いた楽器隊のメンバーも、僕が演奏を止めた事に気付いて演奏を止めたが吉坂はそれでも歌い続けていた。そして少し遅れて吉坂は歌い止めて
「せっかく良いところなのに何で演奏止めるんだよ。」
不服そうににした。演奏をするメンバーはその理由に気付いていたが、全く気付いていない吉坂に誰も理由を話せないで場の空気はまるで事件の有った学級会の様に嫌な感じになっていった。その空気を裂いて僕は吉坂に言った。
「吉坂くん、最初から歌のキーが合ってなかったの気付かなかった? あと歌詞も入ってないし。文化祭まで時間も無いからちゃんと練習してこようよ。」
明らかに吉坂は不機嫌な顔をしたが、ミスの多さを指摘された事へ言い返す言葉も持って居らずに黙り込んでしまった。静かな時間は実際よりも長く重く苦しくて、その事から逃げる様にドラムの前田が
「スタジオの時間も余り無いし練習やろうぜ。それじゃ行くぞ。ワン、ツー、スリー、フォー! 」
とカウントを強引に始め、それに合わせて僕達も演奏を開始した。僕からの指摘を受けた吉坂は浮かぬ顔で歌い始めたが、調子が合わずにその後はずっとグダグダなままで僕達の初練習は終わった。そしてスタジオを出るとカウンターの店主へ頭を下げて、僕達はスズモト楽器を後にした。その時に吉坂だけが頭を下げていなかった事が少し気掛かりになりながらも皆と挨拶を交わして家へと帰った。
僕は初めて他の楽器と音を合わせていく事の楽しさを思い出しながら、少しにやけ顔になっていた。
「おい時垣。そんなに俺の歌が可笑しかったのかよ。」
その声と共に僕は壁に背中を激しく叩き付けられ、襟を掴んで押さえられ、呼吸が上手く出来ずになりながら前を見ると、そこにはさっきまで一緒に練習をしていた吉坂が憎しみを込めた目で僕を見下していた。バスケ部で身長の高い吉坂に壁に押さえ付けられると僕は足が地面から離れて身動き出来ないでいた。そして何よりも気掛かりなのは背中に背負ったテレキャスターだ。僕が息苦しくて動けずにもがいて居ると吉坂はニヤリと笑い、そのまま前に引き倒し、僕はアスファルトの上へと転がった。その瞬間、吉坂は僕の腹部を激しく蹴った。息が詰まり呼吸が出来ない。血のような臭いが口の中に拡がり胃の中の物を吐いた。それでも吉坂は僕への攻撃は辞めずに胸の所を踏みつけて動けなくするとツバを吐いて
「お前よくも俺に恥をかかせてくれたな。ちょっと音楽が出来るからって調子に乗りやがって。だから何だって言うんだよ!」
吉坂は語気を強めて、僕を踏んでいた足を離すとそのまま僕の腕を蹴った。僕は必死で立ち上がろうとうつ伏せになると吉坂はニヤリと笑い僕のギターケースへと手を掛けた。抵抗出来ない僕の背中からテレキャスターを取り出し
「こんなもんが有るからお前調子に乗るんだよ。」
そう言うと、吉坂は僕がスズモト楽器のお兄さんに託された大切なテレキャスターを躊躇なく電柱へと叩き付けてネックを折ってしまった。もう元には戻らない程に破片が散らばり、それを倒れたまま眺めている僕を吉坂は躊躇無く蹴った。僕は全身の痛みと粉々に壊れたテレキャスターを前に何も出来ずに嗚咽しながら蹲った。
「お前、もうバンドに来なくて良いから。クビな。」
吉坂はそう吐き捨ててその場を立ち去って行った。僕は地面を間近に見ながら、アスファルトの隙間には無数の砂粒が入り込んでいる事なんかを知りながら、震えて心と離れた身体にアスファルトの熱だけが現実を伝えた。そして吉坂の足音だけがその場に響いて、音が遠ざかるのを確認して僕はゆっくりと起き上がった。転がったテレキャスターの破片を拾い集めながら、胸の中のグラスが溢れ返り、僕は涙や鼻水や涎や汗が止まらずに人目を憚らず蹲った。
そしてそんな僕を見捨てるかの様に夕陽は海へと潜り、暗闇だけが僕を受け入れて包み込んだ。
何もかもが熱くなって静まらない僕へと海風が吹き抜けた時に僕は散らばった全てを拾い集めて家へと帰った。僕は親を心配させまいとコッソリと部屋へと戻り、ネックが折れてボディも割れたテレキャスターを眺めては自分自身への情けなさと、やり場の無い怒りに泣いた。泣いて、泣き続けて、泣き疲れてそのまま眠ってしまった。




