29話 time writeと紬
僕は走った。全力で追い付かれないようにと走ったのだが、元々バスケ部のエースで運動神経抜群の吉坂は直ぐに僕の後ろ襟を掴んで僕を引き倒した。僕は夏の陽射しに焼けたアスファルトの上に倒れ込み、アスファルトの尖った小石が僕の肘の皮膚を裂いて血が流れた。
吉坂は倒れた僕の襟首を掴んで無理矢理引き起こすと
「お前なに逃げてんだよ! 俺から逃げられる訳ねえだろ。」
そう言って僕の頬を殴ったのだと思う。頬に受けた衝撃で頭の中で光りの粒が弾けて目の前が真っ暗になった。そしてアスファルトの上で頬が焼けるような感覚に陥り、気付けば僕は病院のベッドに寝かされていた。今が何時か解らない。僕はなんでここで寝ているのだろうか? ああ、壁が白い。
それから父と母が病室へと現れて僕の現状を聞かされた。コンビニの前で暴漢に襲われて店員の通報により駆け付けた警察官に吉坂は逮捕されたらしい。そして意識の無かった僕は救急車で運ばれて今。
そんな事はどうでもいいのだ。
僕は、僕の人生は、僕の運命は
あの時から何も変わっていないのだ。
それから僕は検査の結果、脳や骨には異常は無く退院出来る事になった。ただ無事だと言われても僕は動く気がせずに、ベッドから出る事も無かった。白い壁と窓が有るだけのこの部屋でただ空を眺めた。それから警察が事情の聴取を行い僕は答えるとあっさりと終わった。そして僕は父と母に連れられて家へと帰ることとなり、父の運転する車の中では終始無言であった。まさかの犯人が僕が学校へ行けなくなった原因の人物であったからだ。その無言は僕の中での不快な想いを育てるのには充分であった。
夜に僕は家へと辿り着いた。自分の部屋へと戻り、明かりも点けずにカーテンを閉めてベッドへと潜った。そしてスマートフォンでAzamiへメッセージを送った。
ベッドへ入ると体中の擦り傷が痛み、その度に僕は劣等感に押し潰されそうになり。自分の中の世界へと逃げてそのまま眠りに着いた。起きたとしても空に二つの穴が在るばかりでそこから見えるのも壁か天井だ。ただただこの静けさだけが体の中へと入り込んでくる。
このままこの闇に、この静けさに飲まれて消えてしまえばいい。僕もこの世界も。
何が動画ミュージシャンだ。音楽を伝える? こんな情けない僕の何を伝える。心と世界を変える? ただの単純な恐怖や暴力にすら抗えない、自分も変えられない僕が何を変えるのだ。美しい世界も全てがまやかしだ。たまたま調子が良くて調子に乗っていただけだからいつも現実に叩き潰されるのだ。もう彼女の事も思い出せない。Azamiの事も。誰も入れない自分の中の世界で僕はうつ伏せになり、ザラザラとした不快な感触の中に埋もれていく。
そうだ僕はあの時もスズモト楽器の若い店員のお兄さんから受け継いだテレキャスターも守れずに壊されて、バンドで演奏する事も無く、学校へ通うことも終わらせてしまったのだ。僕は何一つ出来ないただの木偶の坊だ。ただ厳しい世界に役立たずの僕、そうだ僕はこのまま...... 。
矢継ぎ早に続く負の思考はアッと言う間に僕を飲み込んでしまった。その事が何故か心地好くすらも感じた。吉坂は僕が動画で歌っているのを知っていた。あの動画を見て『時垣』を『時書き』で『time write』なんてチープなネームを付けた事に僕の同級生達は気付いて、笑い者にしたり金蔓にしようとしたりと悪い感情を持っているのだ。
『こんな世界なんて消えてしまえ。』
そう心で呟いた僕は自分の中の世界を更に深く潜り、空に空いた二つの穴すら見えない深くへと潜った。
△▼△▼
夜になり海辺の喫茶店『マリールー』で、店主の朗次と月下契約のAzamiのボーカルレッスンを終えた私は自分のアパートへと帰っていた。
優しくさざめく波の音に、それを見守る様に照らす月明かり、涼しい風が私の首筋を通り抜けた時に、ここに彼の歌が有ったらどれ程心地好いものかと夢想しながら海沿いの歩道を歩いた。私は何回も朗次とAzamiの指導を受けてやっと少し上達を実感できる様になった。私の歌の上達は少しtime writeへ近付けた気がして嬉しかった。
私はアパートへ戻ると朗次やAzamiから受けた指導の事をノートへと書き込み、それを復習して寝る様にしていたお陰で二人から上達を褒められていた。最初出来なかった腹式呼吸の発声やリズムの取り方等、細かい所を言えばきりがないが少しずつ少しずつ積み重ねて行くのが楽しかった。その事を話すとAzamiと朗次は声を揃えて
『それを人前で聴いて貰えるのはもっと楽しいぞ。』
と私に言っていたのを思い出して私は先に有る楽しみにウキウキとしながら眠りに着いた。
――朝の陽の色は薄く青く、涼しい空気を伴い世界を少し透明にする。
海辺の喫茶店へ近付くと私は歩みを止めてこの風景を眺めた。喫茶店の向かいには停船所が在り、その間には海側へと伸びたコンクリート舗装の道が在るそしてその先にコンクリートの堤防が伸びて灯台が建っている。その堤防に二人で腰を下ろして話している姿を見掛けた。その二人はAzamiと朗次であった。
朝陽に凪、遠く伸びた煌めきは水平線の向こう側にまで在して、二人はその煌めきの中で二人並んで座っている。少し離れて居るけれど少しお互いが手を伸ばせば繋がれる距離で笑っている。
私は少し微笑んで、その反対方向の駅の方へと向かった。そしてバッグからスマートフォンを取り出して
『すみません。今日は午前中に用事が有ったのを思い出したのでボーカルレッスンを夕方からお願い出来ますか? 』
とAzamiへ送った。私はこれは何かの機会の様に思えて彼が住んでいると言う隣町へ行く事にした。駅へ着くと私は時刻表を見てベンチに座り汽車が到着するのを待った。その間にスマートフォンにイヤホンを付けてtime writeの歌を流した。一駅だけなのに私は長い旅行にでも出掛ける気分になった。
たった一駅で違う景色になり、違う人が居る冷静に考えると魔法を浴びた様な不思議な乗り物だと思い、それは何だか私を冒険に出る子供にした。私はtime writeの旅をモチーフにした歌を口ずさみ足でリズムに合わせてトントントンとコンクリートの床を叩いて盛り上がっていた。




